六 一塊の糞
午後になり、玉瑶たちは央舎の楽堂に集まった。
午前中、玉瑶は書庫で『泉映月』の成り立ちを調べてきた。身分違いの恋人と、夜更けにこっそり逢瀬を重ねる若者の心情を描いた曲だという。古い譜も見つかり、演奏への期待はいっそう膨らんでいた。
勇んで二胡を構え、陽峻の合図で演奏を始める。
ところが、ほどなくして笛の音が途切れた。
「范玉瑶、一人で走り過ぎだ! 周りと合わせろ!」
陽峻が声を荒らげる。
「でも、ここは逢瀬を約束した恋人に会いに行くところを表現してるのに。のんびり歩いて会いに行けって言うの?」
「譜にはゆっくり弾けって書いてあるだろ!」
「それは後から編曲された教本の譜でしょう? もともとの譜にはそんなこと書いてなかったわ」
玉瑶は午前中に書庫で見つけた譜を思い浮かべた。
恋しい相手に会えると思えば、自然と足も速くなるはずだ。胸を弾ませ、待ち合わせの場所へと急ぐ。玉瑶はその情景を思い描いて弾いたのだが、何がいけなかったのだろう。
「ここはゆっくり情感豊かに弾くのが、楽師の間では定石なんだよ! 杜阿蕙もゆっくり弾いてただろ!」
「えっ、私?」
突然話を振られ、阿蕙がぱちぱちと瞬きをした。
「そりゃあ、みんなと合わせるためだし……」
「ほら見ろ!」
「でも、玉瑶の解釈も面白いと思うよ。恋人に会いに行くなら、確かに足取りも軽くなるよね」
「お前はどっちの味方なんだ!」
陽峻が苛立たしげに声を上げる。阿蕙は笑いながら、琵琶を抱え直した。
「まあまあ。もう一度、最初から合わせてみない?」
その提案に、陽峻は不満げながらも笛を構え直した。
再び演奏が始まる。今度は玉瑶も周囲の音に気を配り、なるべく笛の調子に合わせようとした。
けれど、どうにも窮屈だ。
ここはもっと軽やかに、次は一気に盛り上げたい。そう思って指を動かすたびに、陽峻の笛が追いついてこない。
そのうち、またしても演奏が止まった。
「くそっ、全然合わないじゃないか!」
陽峻が舌打ちする。
そのとき、玉瑶は蕗按が一度も鼓を叩いていないことに気づいた。蕗按は桴を握ったまま、じっと三人の演奏を聴いている。
「獏蕗按! お前も何をぼーっとしてるんだ! 鼓を叩けよ!」
陽峻に怒鳴られ、蕗按は顔を上げた。
「この曲、知らないから叩けない」
「はぁ? 譜を渡しただろ!」
「俺、譜を読めないから」
「…………」
陽峻が絶句した。
玉瑶も思わず蕗按を見つめる。羅冠ではあれほど見事に鼓を叩いていたのに、まさか譜を読めなかったとは。
「お前……それでよく楽郷試に受かったな……」
陽峻が呆然と呟く。蕗按は何も答えず、手元の桴に目を落とした。
重苦しい沈黙が落ちる。
すると、戸の向こうから、くすくすと笑う声が聞こえてきた。
「散らばれば満天の星、集まれば一塊の糞だな」
「ちょっと、聞こえるって」
楽堂の外を通りかかった受験者たちらしい。笑いを噛み殺すような声が遠ざかっていく。
陽峻のこめかみが、ぴくりと引きつった。
「あはは! 班名、一塊の糞にする?」
おかしそうに笑い出したのは阿蕙だった。
「誰が糞だ! ふざけるな!」
陽峻が顔を真っ赤にして怒鳴る。その様子が余計におかしかったのか、阿蕙は琵琶を抱えたまま肩を震わせていた。
玉瑶は苦笑して蕗按へ向き直った。
「ねえ、蕗按。譜の読み方なら、私が教えるよ」
「……いいの?」
蕗按がぱっと顔を上げる。「もちろん」と頷こうとしたが、それより先に陽峻がこちらを指さした。
「お前は人に物を教えられる立場か? まずはその傍若無人な独奏をやめろ!」
「失礼ね。私はちゃんと曲を解釈して、考えて弾いてるの」
「解釈の前に周りの音を聴け! これが合奏の練習だって分かってるのか!?」
陽峻に怒鳴られ、ぐっと言葉に詰まる。そう言われると、返す言葉がない。
陽峻は深々と溜息をつき、蕗按に向き直った。
「いいか、獏蕗按。今日から俺のことは師匠と呼べ」
「……陽峻師匠?」
首を傾げた蕗按に、陽峻は鷹揚に頷いた。
「俺が譜の読み方を教えてやる。俺は物覚えの悪い奴は嫌いだ。一度言ったことは二度と言わない。聞き逃したら、二度目は来世で聞け」
陽峻の言葉に、蕗按は緊張した面持ちで頷く。玉瑶は「そんな言い方……」と口を挟もうとしたが、陽峻に睨まれて黙った。
「お前は杜阿蕙に音の合わせ方でも教わってろ」
「えー、無理無理。私、人に教えたことないもん。陽峻師匠頑張って」
阿蕙は笑って顔の前で手を振ると、おもむろに琵琶を持って立ち上がる。
「私、まだ怪我治ってないし、今日の練習は終わりにさせてもらうね」
「は?」
「じゃ、みんな頑張ってー」
「おい、待――!」
陽峻は呼び止めようとしたが、阿蕙は気に留めた様子もなく、足取り軽く楽堂を出ていく。戸が閉まり、部屋には陽峻と、石ころ二名――玉瑶と蕗按――が残された。
「……何でこんなことに……」
陽峻は一人頭を抱えて蹲っていた。




