四 瑞王殿下
「……私です」
玉瑶は生唾を飲み、一歩前へ進み出た。
青年は笑みを浮かべたまま、こちらへ近づいてくる。
「へぇ。即興で弾いたって聞いたけど、可愛い顔して大胆なんだね」
腰を屈め、ひょいと顔を覗き込まれる。玉瑶は思わず数歩後ずさった。
「僕は陸嘉澄。君と同じ二胡奏者だよ」
「……范玉瑶です。あの、羅冠の首位《《も》》ってことは、もしかして、あなたが泱陽の首位ですか?」
「そう。でも、彼女が指を怪我してなかったら、首位を取るのは難しかっただろうね」
嘉澄はそう言って、赤い衣の少女へ目を向けた。
「ちょっと、それ嫌味? 本気で練習を始めて、たった一年で首位通過した人に、そんなこと言われたくないんだけど」
「い……一年で?」
玉瑶は目を丸くした。泱陽は、曜国随一の楽の都だ。腕に覚えのある者たちがひしめき、楽郷試の受験者数も六州で最も多い。
その頂点に、たった一年の本格的な鍛錬で立ったというのか。
「まあ、昔から二胡は弾いてたんだけどね」
嘉澄はさも大したことではないように笑った。少女は「そういうところが嫌味なのよ」と肩をすくめ、玉瑶へ向き直る。
「私は杜阿蕙。琵琶を弾いてるの。よろしくね、玉瑶」
「……杜阿蕙?」
そのとき、受験者たちの中から声が上がった。振り返ると、陽峻が怪訝そうに阿蕙を見つめている。
「八歳で十家と共演したっていう、あの神童か?」
「ああ、知ってる? 琵琶といえば、泱陽の阿蕙、羅冠の瓊華って並べて語られてたんだよ」
嘉澄が楽しそうに口を挟む。阿蕙は目を逸らし、どこか気まずそうに笑った。
「や、やだなぁ。昔の話だって!」
「そういえば、柳瓊華はどこにいるんだ?」
嘉澄が視線を巡らせると、部屋の入り口の方から静かな足音が聞こえてくる。
「……久しぶりね、阿蕙」
その声に、玉瑶も振り返る。一行の中から進み出たのは、柳瓊華だった。相変わらず、他を寄せつけない凛とした佇まいだ。
「五年前の奏楽会以来かしら」
「えー、もうそんなに経つ? 懐かしい! 元気にしてた?」
阿蕙がはしゃいだように尋ねる。瓊華は答えず、黙って阿蕙の手にした琵琶へ目を向けた。
「あなたの演奏、変わったわね」
ほんの一瞬、阿蕙の笑顔が固まった。けれど、すぐに明るい表情に戻る。
「そりゃあ……五年も経てば変わるでしょ。あの頃はまだ子どもだったし」
冗談めかして笑う阿蕙を、瓊華はじっと見つめる。何か言うかと思ったが、ふっと視線をそらし、引率の役人へ目を向けた。
「荷を置きたいのですが」
「あ……ああ、そうですね! 案内は泱陽の合格者に頼んでいますので――」
役人が慌てて説明を始める。ここで男女に分かれ、それぞれの寮へ案内してもらうらしい。
説明が終わると、受験者たちがぞろぞろと動き始めた。
「女子は私が案内するね。みんな、ついてきて!」
阿蕙が明るい声を上げ、玉瑶たちを西舎へ案内してくれた。
西舎の入り口には部屋割りが掲示されている。玉瑶に割り当てられたのは一階の角部屋で、同室は阿蕙だった。
案内された部屋には、寝台と机が二つずつ並んでいた。こじんまりとした簡素な部屋だが、格子窓の向こうには中庭の梅が見える。満開になったら、きっと綺麗だろう。
「私は特にこだわりないけど、玉瑶はどっちの寝台を使いたい?」
「じゃあ……窓側を使ってもいい?」
「もちろん。どうぞ!」
阿蕙が快く頷き、玉瑶は窓際の寝台に荷を置いた。
窓を開けると、まだ少し冷たい春の風が頬を撫でる。
これから始まる宮廷での生活を思うと、自然と胸が高鳴った。
◇◇◇
翌朝、受験者たちは央舎の楽堂へ集められた。
百余名が整列する広間の前方には、太楽府の役人たちが控えている。彼らは皆、背筋を伸ばして直立し、硬い表情を浮かべている。
いったい、何が始まるのだろう。
玉瑶が不思議に思っていると、やがて正面の扉が開いた。
「静粛に。瑞王殿下がお成りだ」
鋭い声が広間に響き渡った。
それまで囁き合っていた受験者たちが、一斉に口を閉ざす。水を打ったように静まり返った広間に、靴音と衣擦れの音だけが響いた。
扉の向こうから現れたのは、深い青の袍を纏った青年だった。
瑞王――皇帝の第四皇子にして、清辰が仕える主君だ。
歳の頃は二十代後半だろうか。すらりとした長躯に、精悍な顔立ち。鋭い眼差しには、人を寄せつけない冷厳さがある。
袍の袖口には銀糸で精緻な紋様が施されているが、装いは決して派手ではない。それでも、その佇まいには他を圧する威厳があった。
やがて前方に立った青年は、居並ぶ受験者たちを静かに見渡した。その眼差しがこちらへ向いた気がして、玉瑶は知らず息を詰める。
「このたび楽科挙の総監をお務めになる、瑞王殿下であらせられる」
役人が恭しく告げると、受験者たちが一斉に頭を下げた。玉瑶も慌てて周囲に倣う。
「顔を上げよ」
低く、落ち着いた声が響いた。
「まずは、楽郷試を突破した諸君に祝意を伝えよう。遠路はるばる都まで来た者も多いだろう。本来ならば旅の疲れを癒す時間を与えたいところだが、生憎、楽科挙の日程に余裕はない」
瑞王はそこで一度言葉を切り、広間を見渡した。
「さっそくだが、次の楽会試について説明する」
その言葉を合図に、半歩後ろに控えていた文官が前へ進み出た。
「今回の楽会試では、独奏ではなく合奏の腕を競ってもらう。課題は、仇茴羅昭儀の御前で披露する奏楽だ」
昭儀とは、皇后、四夫人に次ぐ高位の側妃だ。名前からして、翡族の妃だろうか。玉瑶は少し離れた場所に立つ蕗按へ目を向けた。




