二 再会
「そんなに身を乗り出しては、落ちてしまいますよ」
ふいに声を掛けられ、顔を向ける。そこには馬車と並んで馬を進める、若い武官の姿があった。歳は二十歳前後だろうか。そばかすの散った頬に、愛嬌のある笑みを浮かべている。
玉瑶は目を瞬き、男を見上げた。はっきりとは思い出せないが、どこかで会ったことがあるような気がした。
「韓凌舟といいます。盧校尉の部下です」
馬上で背筋を伸ばし、凌舟は恭しく礼をした。
その言葉に、楽郷試の試験中、清辰の後ろに控えていた凌舟の姿がぼんやりと蘇る。
「もしかして、羅冠の試験で清辰様のお側にいらっしゃいましたか?」
「はい。覚えていただいていたとは、光栄です」
後頭部を掻きながら、凌舟が笑う。玉瑶は顔を輝かせた。
「凌舟様はどうしてここに? もしかして、清辰様もいらっしゃいますか?」
「いえ、盧校尉は宮廷です。俺は校尉の命で、船着場から制楽院までの護衛を任されているんです」
凌舟は再び身を乗り出そうとする玉瑶を片手で制し、苦笑した。
制楽院とは、宮廷楽師たちが暮らす寮のことだ。楽科挙の試験期間中は、受験者たちもここに滞在する。
「次の楽会試では、半数が落とされるそうですね。武科挙も大変でしたが、楽科挙も厳しいものですね……」
連なる馬車の列に目を遣り、凌舟が眉尻を下げる。玉瑶は唇を引き結び、傍らに置いた二胡にそっと触れた。
曜国内の六州で行われた楽郷試を突破したのは、総勢百余名。その中から最終試験である御前試を通過し、宮廷楽師となれるのは、例年二十人に満たない。
楽を志す者なら誰もが一度は夢見るその座を手に入れられるのは、ほんの一握りなのだ。
賑やかな大路を抜けてほどなく、馬車は内城の門をくぐった。
途端に、外城の喧騒が遠のく。通りには、高い塀を巡らせた邸宅や風雅な料亭が軒を連ね、行き交う人々の姿もまばらだった。
やがて、前方に朱塗りの大門が見えてきた。その上には、壮麗な門楼がそびえている。皇城の入口だ。
門の手前で馬車が止まり、玉瑶たちは荷物を手に降りた。太楽府の役人による身元の確認を済ませ、門をくぐる。
「わぁ……」
目の前に広がる光景に、玉瑶は思わず息を呑んだ。
白い石畳が奥へと延び、その両側には、朱塗りの柱と青緑の瓦屋根を持つ殿舎が整然と並んでいる。軒先には精緻な彫刻が施され、金色の装飾が春の陽光を受けてきらめいていた。
故郷の渓綝にも立派な屋敷はあった。けれど、これほど壮麗な建物が幾棟も連なる光景など、見たことがない。
「皆さん、ここで少しお待ちください」
引率の役人がそう告げ、足早に立ち去る。玉瑶は二胡を抱き直し、改めて辺りを見回した。
ここで、何百年もの間、曜国の宮廷楽師たちが演奏をしてきたのだ。かつて霖国の使節を一曲で退けた女楽師も、今なお奏で継がれる名曲を残した楽師たちも、きっとこの石畳を歩いたことがあるのだろう。
考えただけで、玉瑶の胸は高鳴った。
「――見て、清風様よ」
そのとき、ふとはしゃいだような女官の声が聞こえた。
「いつ見ても麗しいお姿ね」
「一度でいいからお話ししてみたいわ」
「こちらにいらしてるなんて、どうかされたのかしら?」
声を抑えようとして、抑えきれない様子で女官たちは囁き合っている。玉瑶は首を傾げて周囲を見渡した。
あちこちで官吏たちが忙しそうに歩いたり、立ち話をしていたりする。その中で、玉瑶は見覚えのある姿を見つけた。
「清辰様!」
思わず声を上げ、駆け寄る。部下を連れて歩いていた清辰は、玉瑶の声に足を止めた。
「范姑娘、お久しぶりです。今着いたところですか?」
「はい。まさかこんなに早くお会いできるなんて、思いませんでした」
声を弾ませ、清辰の前で足を止める。その後ろから、凌舟がにこにこと笑いながらついてきた。
「よかったですね。范姑娘、ずっと盧校尉にお会いしたそうでしたから」
「はい! お会いできて嬉しいです」
笑顔で頷くと、清辰は僅かに頬を緩めた。
「道中、困ったことはありませんでしたか?」
「大丈夫です。泱陽はとても賑やかな都ですね。色んな楽器の音色が聴こえて……できれば一つ一つ聴きに行きたかったです」
馬車の中で聴いた音の数々を思い出し、うっとりと溜息をつく。
「天下の音の集まる都ですからね。楽堂では奏楽会などもよく開かれているそうです」
「わぁ、そうなんですね。いつか行ってみたいです」
故郷には楽堂なんて一つもなかった。玉瑶が聴けるのは、母の弾く二胡か、半年に一度来るかどうかも分からない旅の楽師の演奏くらいだった。
玉瑶が目を輝かせていると、清辰の背後に控えていた武官が、そっと彼に耳打ちした。
「校尉、そろそろ……」
「あっ……すみません。足止めしてしまって」
仕事の邪魔をしてしまっただろうか。
玉瑶はしゅんとして頭を下げた。
「いえ。あなたに会えるかと思い、立ち寄ったので。気にしないでください」
「え……」
「では、また」
軽く頭を下げ、清辰が踵を返す。玉瑶はぽかんと口を開けたまま、その背を見送った。




