十八 范玉瑶
地下へ続く石階段を降りると、錆びた鉄のような臭いが鼻腔を掠めた。さらに奥へ進むにつれ、汗や吐瀉物の入り混じった悪臭が濃くなる。
「うっ……」
隣を歩いていた韓凌舟が、露骨に顔を顰めた。袖で鼻を覆う部下を横目に、清辰は眉ひとつ動かさず、薄暗い廊下を進んでいく。
「盧校尉」
牢の前にいた兵が、清辰に気づいて拱手した。
「まだ口を割らないそうだな」
「はい。申し訳ありません」
「構わない」
清辰は鉄格子の向こうへ目を向けた。
「顧明徳」
壁にもたれていた明徳が、ゆっくりと顔を上げる。牢に入れてからまだ五日しか経っていないが、髪は乱れ、目は落ち窪み、すっかりやつれてしまっている。
「随分と派手にやっていたようですね」
返事はない。清辰は気に留める様子もなく、淡々と続けた。
「楽郷試に何度も落ちている受験者に声を掛け、ある受験者を陥れれば合格させると持ち掛ける。――もっとも、あなた一人の意向で合格者を決めることなどできない。当然、約束を果たせるはずもない」
明徳の頬が、わずかに引きつった。
「不合格になった実行犯には、地方の楽団で働かないかと声を掛けたそうですね」
清辰は鉄格子越しに、明徳を見下ろす。
「そして――人買いに売った」
「……何のことだか」
「これは質問ではありません」
明徳の言葉を遮り、清辰は静かに告げた。
「調べて分かった事実を、あなたに確認していただいているだけです」
しばし、沈黙が落ちる。やがて明徳が鼻で笑った。
「……瑞王ごときの犬が、調子に乗るな」
凌舟の眉がぴくりと動いた。だが、清辰は表情を変えない。
「瑞王ごとき、ですか」
「なんだ。主人を貶されて腹を立てたか?」
「いいえ」
あまりにもあっさり否定され、明徳が怪訝そうに眉を寄せる。
清辰は僅かに目を細めた。
「ただ――そう言えるということは、あなたの後ろにいる方は、瑞王殿下より高位にあるということでしょうか」
「……っ」
ほんの一瞬だった。だが、明徳の顔から血の気が引いたのを、清辰は見逃さなかった。
ここ半年ほど、明徳は急に羽振りがよくなっていた。以前は縁のなかった高級な妓楼へ、何度も足を運んだ記録が残っている。明徳の帳簿にも、出所の分からない金がいくつか残っていた。
「誰かに命じられたのでしょう。少数民族の有力候補を楽科挙から排除し、瑞王殿下の方針に瑕をつけるように、と」
清辰の声だけが、冷えた地下牢に響く。
「命じたのが誰なのか、あなたのお陰でおおよそ見当がつきました。宮廷で瑞王殿下より高位にある方は、そう多くありませんから」
清辰の言葉に、明徳の目が大きく見開かれる。その反応だけで、十分だった。
「話してくださって、感謝します」
「ち、違う! 私が言いたかったのは――」
清辰はもう聞いていなかった。踵を返し、牢から離れる。
階段へ向かう途中、凌舟が声を潜めて尋ねた。
「あの者は、どうします?」
「都へ連れ帰る」
清辰は足を止めずに答えた。
「誰と繋がっていたのか、金の出所はどこか、すべて吐かせろ」
一拍置いて、冷ややかに付け加える。
「手段は問わない」
凌舟はそれ以上は問わず、慣れた様子で頷いた。囹圄を出ると、軽く伸びをして、何か思い出したように「あ」と声を漏らす。
「そういえば、楽郷試の合格者が明日宮廷へ向けて出立するそうですよ」
清辰は足を止め、振り返った。
「……何人か人を遣って、范玉瑶につけておけ」
「范玉瑶にですか?」
凌舟が問い返す。何か含んだような笑みと物言いに、清辰は眉を寄せた。
「何だ、その顔は」
「盧校尉、あの娘にやけに親切でしたよね。膝をついたり、『清辰様』なんて気安く呼ばせたりして」
両手で口を押さえ、「もしかして、校尉にもようやく春が?」と茶化すように言う。清辰は溜息をつき、先を歩き出した。
凌舟は駆け足で追いかけてくると、胸の前で両手を組む。
「俺たち、こんな血生臭い仕事ばかりですけど、『陽春薄氷』でしたっけ? あの逸話みたいな女が現れたらいいですよねえ。獣になっても一緒に歩いてくれるような」
うっとりと遠くを見るように目を細める凌舟を、清辰は冷めた目で見た。
「くだらない。范玉瑶の持っていた史書を、お前も読んだだろう」
「ええ、まあ。少しですが」
きょとんとした顔で凌舟が答える。
「表紙を開いたところに押されていた朱印――あれは寧国王の御璽だった」
声を潜めて清辰が言うと、凌舟は小さく息をのんだ。
寧国は十六年前に曜に併合された北方の国だ。国王は曜との戦で亡くなり、王后は蟄居を命じられているが、寧族の中には未だ寧王家の復興を求める声が根強い。その一部は年々過激化し、最近では保守派の官吏の邸に火を放つなど、犯罪行為に及ぶ者まで現れている。
多民族国家である曜にとって、寧王家の復興を掲げる一派は、今もっとも警戒すべき勢力の一つだった。
「文烈に調べさせたところ、『大陸楽史考』は寧国最後期に王命で編纂された楽史書だった。記録によると、三部しか作られず、二部は曜国が接収、もう一部は行方知れずだそうだ」
「では、あれがその行方知れずの一部ということですか? なぜそんな物を、渓綝の田舎娘が持っているのですか?」
困惑したように凌舟が問う。
「寧王室に近い人間が持ち出したか、併合時の混乱で流出したか……。いずれにせよ、大金を積んだところで、市井の者が手に入れられる代物ではない」
腰に佩いた長剣の柄に触れ、清辰は凌舟を見た。
「瑞王殿下に近づく意図がないとも限らない。宮廷入りしてからは、お前もよく彼女を見ておけ」
「はい」
凌舟が頷く。その表情に、先ほどまでの軽さはもうなかった。
清辰は足を止め、振り返る。薄曇りの空の下、囹圄は影のように佇んでいる。
「殿下に害なす者なら――辿る末路は同じだ」
二章は宮廷編「忘れられた唄」です。
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