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十七 また、宮廷で

「最後に一つ、伺いたいのですが……。これは、どこで手に入れましたか?」


 清辰が差し出したのは、『大陸楽史考』だった。

 物心ついた頃から家にあり、玉瑶が何度も、暗記するほど読み返した本だ。


「母から盗――譲ってもらいました」


 小さく咳払いして、言い直す。


「これがどうかしましたか?」

「……いえ。少し興味を惹かれただけです」


 清辰は首を横に振ると、本を荷袋とともに玉瑶へ返した。

 玉瑶はぱっと顔を輝かせる。


「もしかして、清辰様も楽史にご興味がおありですか? 私でよければ、何でもお話ししますよ!」

「ありがとうございます。ぜひ聞かせていただきたいところですが、あいにくこの後も仕事がありまして」

「そうですか……」


 途端に肩を落とす。

 今日は窃盗犯と疑われ、試験を受けられなくなりかけて、随分と大変な一日だった。それでも無事にここまで来られたのは、清辰がいたからだ。皆が玉瑶を疑う中でも、彼だけは初めから犯人と決めつけず、冷静に話を聞いてくれた。

 共にいたのは、たった一日のことだ。

 それなのに、このまま別れてしまうのは――少し寂しい。


「范姑娘」


 呼ばれて顔を上げる。


「楽郷試を突破したということは、これからは宮廷の楽坊に身を置くことになるのでしょう」


 項垂れていた玉瑶の顔を覗き込むように、清辰が目の前で片膝をついた。

 問事を受けたときのことを思い出し、玉瑶は目を瞬く。


「私は瑞王殿下の命で、宮廷のあちこちを使い走りのように駆け回っています」


 清辰は僅かに頬を緩めた。


「顔を合わせる機会なら、これからいくらでもあるかと」

「……本当ですか?」


 思わず小さく尋ね返す。

 清辰は、今度ははっきりと微笑んだ。


「はい。何か困ったことがあれば、私を頼ってください。力になりましょう」


 そう言って立ち上がると、清辰は部下を一人残して立ち去った。部下は玉瑶を宿まで送ってくれると言う。

 玉瑶は『大陸楽史考』を大切に布で包んで荷袋へ入れた。

 官衙の外へ一歩足を踏み出すと、凍てつくような風が吹きつけた。思わず首を竦め、空を見上げる。遥か頭上に、満天の星空が広がっていた。

 門前にはまだ受験者たちの姿が多くある。その中に、魏《ぎ》秋蘭《しゅうらん》の姿を見つけた。

 彼女の演奏は、序盤はとても豊かで美しい音色だったが、後半で崩れてしまった。恐らく、指を痛めていたのだろう。弦を押さえるたび、痛そうに顔が歪んでいた。

 声を掛けるか迷っていると、ふとこちらを見た秋蘭と目が合った。笑顔で手招きされ、側へ駆け寄る。


「一位おめでとう。あんな演奏をする子だとは思わなかったわ。大したものね」

「ありがとうございます」


 玉瑶は顔を伏せるように、頭を下げた。

 あんな事態にならなければ、玉瑶は即興をしようなどと思わなかっただろう。秋蘭同様に、準備した曲を演奏していたらきっと一位は獲れなかった。そう思うと、素直に受け取ってよいものか少し迷う。


「徐文成、獏蕗按に罪を着せれば試験に受からせてやると言われてたらしいぞ」


 そのとき、近くで話す受験者たちの声が聞こえてきた。秋蘭は溜息をつき、目を伏せた。


「馬鹿ね。自分で自分の才能を信じられなくなったらお終いよ」

「……彼、十八から楽器を習い始めたと言っていました」


 玉瑶は呟くように言った。

 だから許されるなんて思わない。だが、『ここに立つまでは、決して公平じゃない』そう言った文成の声は、今も玉瑶の耳の奥に残っている。


「……私なんて、子育てと親の介護で二十五年も二胡に触れなかったわ。指が昔みたいに動くようになるまで、そこからまた五年」


 秋蘭の言葉に顔を上げる。


「でも、私は一度も自分を疑ったことはない。……必ず、楽師になってみせるわ」


 そう言って、玉瑶に笑ってみせる。


「ここまで来るのに三十年かかったの。もう三年くらい誤差でしょう?」


 玉瑶はなぜだか涙が出そうになり、唇をぎゅっと噛み締めた。片手を差し出し、笑みを浮かべる。


「三年後、宮廷で会いましょう」


 秋蘭は玉瑶の手を取り、しっかりと握りしめた。二胡を長く弾いてきた人特有の、硬くなった指先が触れる。


「ええ。……必ず」


 官衙の門の前、吊られた提灯が風で揺れている。吐く息は白く、凍えそうなほどの夜だった。

 それでも、握り返された手の熱は、いつまでも玉瑶の掌に残っていた。

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