十六 獏蕗按
一瞬遅れて、広間がざわめいた。玉瑶は目を見開いたまま、しばらく動けなかった。
――首位。
ようやくその言葉が胸に落ちてきた途端、堪えきれず頬が緩む。
試験官へ深く頭を下げると、残る合格者の名が順に読み上げられていった。
「二位、柳瓊華」
瓊華は静かに琵琶を置き、拱手した。
「三位、夏陽峻」
「当然だな」
陽峻は得意げに胸を張る。
「四位、獏蕗按」
壁際で小鼓を抱いていた蕗按が、はっと顔を上げた。何度も瞬きをしたあと、小さく頭を下げる。
その様子を見て、玉瑶もほっと息を吐いた。
長かった一日が、ようやく終わる。
「蕗按、合格おめでとう」
合格者の発表が終わり、玉瑶は蕗按のもとへ声を掛けに行った。蕗按は紅潮した頬を僅かに緩め、「范姐姐も」と頷いた。
「獏蕗按」
そのとき、聞き覚えのある声がした。
振り向くと、広間の入口に清辰が立っている。その傍らには数人の部下――そして、その間に徐文成の姿があった。文成は後ろ手に縄をかけられ、暗い顔で俯いている。
「彼があなたと話したいそうです。話を聞きますか?」
清辰の言葉に、玉瑶は蕗按を見る。蕗按は小鼓を胸に抱いたまま、黙って文成を見つめていた。
やがて蕗按が小さく頷くと、清辰が振り向き、部下たちに合図する。文成は部下たちに連れられ、こちらへ歩いてきた。
「……全部話すから、最後にお前ともう一度だけ話させてほしいと頼んだんだ」
声はひどく掠れていた。しばらく俯いていた文成は、やがて意を決したように顔を上げる。
「――すまなかった」
深く頭を下げた。
「許してもらえるとは思ってない。ただ……どうしても謝りたくて」
蕗按は黙ったままだった。
「お前が憎くてやったわけじゃない。ただ……お前の荷に笛を隠せば、合格させてやると言われたんだ」
ゆっくりと文成が頭を上げる。
「だからって、やっていいことじゃない。分かってた。……分かってたんだ」
文成は唇を噛んだ。
「でも、これが四度目だった。もう後がないと思ったら……俺の心の弱さが、お前を犠牲にしてもいい理由を勝手に作った」
拳を固く握りしめる。
「お前はまだ若い。今回駄目でも、次がある。やり直せる――そう思おうとした」
重い沈黙が落ちる。蕗按が、僅かに顔を上げた。
「……次なんてなかった」
はっとしたように、文成が蕗按を見る。
「これが駄目だったら、金持ちの家に働きに出るつもりだった。母さん、俺のためにたくさん金を借りたから」
胸に抱いた小鼓をそっと撫で、蕗按が言う。文成は握りしめていた拳から、そっと力を抜いた。
「……そうだったのか」
「おい、もう十分だろう。行くぞ」
やがて清辰の部下が、文成を促した。
文成は二、三歩進み――ふと足を止める。
「……試験、受かったのか?」
振り返らないまま、蕗按に尋ねた。
蕗按は少し迷ったあと、小さく頷いた。
「……うん」
「そうか」
文成の肩から、僅かに力が抜けた。
「……よかった」
それだけ言うと、今度こそ振り返ることなく歩き出した。
蕗按は何も言わず、その背を見送り、清辰と玉瑶に頭を下げた。小鼓を胸に抱いたまま、足早に荷置き場へ向かう。きっと、帰って母親に試験の結果を報告するのだろう。
微笑んで蕗按が去った方を見ていると、清辰が一歩こちらへ歩み寄った。
「范姑娘。預かっていた荷を返したいのですが、一緒に来ていただけますか?」
「はい、もちろんです」
玉瑶は笑顔で頷き、清辰と歩き出す。今日は月がない。薄暗い廊下を並んで歩いていると、ふと清辰がこちらを見た。
「聞きました。首位通過だったそうですね。おめでとうございます」
「ありがとうございます」
二胡を抱え直し、玉瑶は照れ笑いする。
「技術はまだ足りないと言われてしまいましたが……」
「それでも、今日の演奏ではあなたが一番でした」
清辰の言葉に、顔を上げる。
「……私にとっても」
囁くように声をひそめ、清辰が言った。
一瞬、意味を理解できなかった。目を瞬いて見返すと、清辰はほんの僅かに頬を緩めている。
途端に、どくんと心臓が跳ねた。玉瑶はとっさに顔を伏せる。
「あ……ありがとうございます……」
「礼を言うべきは我々の方です。本当に素晴らしい演奏でした」
ますます頬が熱くなる。
清辰は今日一日、何度も玉瑶を助けてくれた。けれど、いつも冷静で、どこか淡々としていたから――こんなふうに真っ直ぐ褒められるなんて、思わなかった。
「しかし、即興であれほどの演奏とは驚きました。さぞ高名な楽師のもとで学んでいるのでしょう」
「そ、そんな、高名だなんて! 師は母です。祝い事があると呼ばれて、賑やかしに二胡を弾いているくらいで……」
話題が変わったことに少しほっとして、玉瑶は笑いながら手を振った。
これ以上褒められていたら、頭から湯気が出ていたかもしれない。
問事の際に使った部屋へ入ると、清辰は玉瑶に背を向けたまま、ふと尋ねた。
「……よければ、母堂のお名前を伺っても?」
「素吟といいます。范素吟」
「范素吟……」
清辰はその名を確かめるように、静かに繰り返した。
母がどうかしたのだろうか。戸惑っていると、清辰は玉瑶の荷を手に取り、振り返った。
清辰の部下の持つ提灯が、ぼんやりと彼の顔を照らす。




