十五 影退陽還
左手で弦に指を掛け、強く、短く弓を引く。不安を掻き立てるような嫌な音が広間に響き、ひそひそと囁き合っていた受験者たちが、驚いたようにこちらを向いた。
広間の視線を一身に浴びながら、玉瑶は弓を動かす。足音を忍ばせるように、小さな音から、次第に大きく派手な演奏へと変わっていく。
「銀貨に金貨、絹の衣に翡翠の曲笛。我に盗めぬ物はなし」
広間に影が差し、玉瑶は顔を上げた。深まる日食に合わせるように、音は高く、激しく駆け上がっていく。
太陽が隠れ、広間が夕暮れのような闇に沈んだ――その瞬間。玉瑶は声を張り上げた。
「賊、笑う。ついには太陽まで盗んだと!」
弓を止め、広間が静まり返る。誰もが固唾を呑んで玉瑶を見つめていた。
――まだだ。まだ早い。
玉瑶は弓を握りしめ、そのときを待つ。
明かり取りの窓の向こう、欠けた日輪の縁に僅かな光が戻った。玉瑶は目を閉じ、弦に弓を添える。
柔らかく、それでいて芯のある、一筋の陽光のような音。それは戻りゆく光とともに、次第に大きく、伸びやかに広間へ満ちていく。
「されど――手にしたものは、日の影ひとつ。太陽は、何人も触れること能わず」
ゆっくりと瞼を開き、玉瑶は前を見据えた。広間の奥に立つ清辰と視線が合う。
僅かに目を見開いた清辰に微笑み、玉瑶は窓へ視線を戻した。既に空は明るい。
軽やかに指を動かし、大曜を寿ぐ『大曜長明』の旋律を織り込んでいく。
「一時、月に隠るとも、日輪の光は失われず。影はいずれ退く。この世の偽りは、全て白日の下に晒されん」
雅やかな調べが、陽光とともに広間を満たし――やがて光に溶けるように終わる。
弓を下ろしても、しばらく誰も声を発しなかった。
玉瑶は静かに立ち上がり、二胡を椅子へ置くと、試験官たちに向かって拱手した。
「……曲名は?」
初老の試験官が尋ねる。玉瑶はしばし考え、口を開いた。
「――『影退陽還』」
影は退き、陽は還る。
試験官はその名を口の中で転がすように繰り返したあと、ゆっくりと頷いた。顎髭を撫でながら、満足そうに頬を緩める。
「よい曲でした」
「ありがとうございます」
もう一度深く頭を下げ、玉瑶は二胡を抱えて席へ戻った。
玉瑶の演奏が終わったあとも、試験は続いた。残る受験者たちが順に演奏を終える頃には、窓の外にはすっかり夜の帳が下りていた。
長い協議ののち、試験官たちが再び広間へ姿を現す。
ざわめいていた受験者たちが一斉に口を閉ざした。
「皆さん、本日は長い一日となりました」
初老の試験官が広間を見渡す。
「予定外の出来事もありましたが、最後まで試験に臨んだ皆さんに、まずは労いの言葉を申し上げます」
そこで一度言葉を切り、手元の紙へ視線を落とした。
「審査にあたっては、技巧、表現、楽曲への理解、そして宮廷楽師としての資質を総合して判断しました」
玉瑶は膝の上で、そっと手を握る。
「技巧、表現力ともに、今日もっとも完成されていたのは柳瓊華です」
広間の視線が、柳瓊華へ集まった。瓊華は驚く様子もなく、ただ静かに試験官の言葉を聞いている。
「『桃花源』を琵琶一挺で描いてみせた技量は、見事というほかありません」
――当然だ。
あの演奏を聞いたとき、自分との差を思い知らされた。今だって、純粋に演奏の腕だけを比べれば、瓊華に敵うとは思えない。
「しかし」
試験官の声に、玉瑶は顔を上げた。
「今日、もっとも『楽師』であったのは、范玉瑶でしょう」
「……え?」
思わず声が漏れた。初老の試験官が、まっすぐ玉瑶を見る。
「朝、私は申し上げましたね。指が速いだけの者も、美しい音を奏でるだけの者も、宮廷には必要ないと」
百年前、一曲で曜の威信を守った女楽師。
――宮廷楽師の音は、時に陛下の言葉となり、曜という国そのものになる。
「日食は凶兆である。今日の不正と重なれば、この楽郷試そのものに瑕がついたと見る者もいるでしょう。……ですが、あなたはそれを一曲で覆した」
試験官の目元に、わずかな笑みが浮かぶ。
「これこそ、我々が宮廷楽師に求めるものです」
玉瑶は何も言えなかった。
ただ胸の奥で、何かが熱く膨らんでいく。
「よって――今回の羅冠での楽郷試、首位通過は范玉瑶とします」




