十四 即興
一斉に視線が集まる。明徳もわずかに目を見開き、玉瑶を見た。
「六年前の一月には、『陽春薄氷』の新譜はまだありません」
明徳が訝しげに眉を寄せる。
「何を言っているんだ。『陽春薄氷』の新譜が公布されたのは、六年前の春だろう」
「はい。おっしゃる通りです」
「それなら――」
「正しくは、六年前の二月ですが」
明徳の言葉を遮るように告げると、玉瑶は一歩前へ出た。
「『陽春薄氷』が作られたのは、今から五十六年前。六年前、五十年の節目を記念して、太楽府が新たに編曲しました」
玉瑶の脳裏に、『大陸楽史考』で何度も読んだ逸話が蘇る。
戦から一年遅れて戻った男と、その帰りを待ち続けた女。男が帰ると約束したのは、湖の薄氷が解ける頃だった。
「新譜が初めて奏でられたのは、宮城の湖の薄氷が解けた日です。かつての逸話になぞらえて、太楽府はその日に新譜を公布した。――六年前の、二月です」
辺りが静まり返る。
「楽郷試が行われるのは三年に一度、一月。つまり、その時点では新譜そのものが、まだ世に出ていません」
玉瑶は明徳をまっすぐ見つめた。
「存在しない譜を、どうやって古譜と取り違えたんですか?」
しんとした荷置き場に、誰かが息を呑む音が響く。
明徳の顔から、初めて笑みが消えた。
「……明徳。確かお前には、受験者の名簿を任せていたな」
溜息を漏らし、初老の試験官が口を開く。
「そ、それは、その……」
「故意であろうとなかろうと、このような疑いが生じた以上、お前に試験官を続けさせるわけにはいかない」
厳しい口調で告げられ、明徳は唇を噛んだ。
清辰は明徳の顔をしばらく見つめたあと、静かに文成へ視線を移す。先ほどまで蒼白だった文成は、今や顔を上げることすらできずにいる。
「顧明徳。それから、徐文成」
二人の名を呼ぶ清辰の声は、低く、冷たかった。
「あなた方には、詳しく話を聞く必要がありますね」
明徳と文成は清辰の部下に連れて行かれ、ようやく午後の試験が再開されることになった。
嫌疑が晴れ、無事に受験できることになった玉瑶はほっと胸を撫で下ろした。そんな玉瑶の耳に、ふと受験者たちの囁き声が聞こえてくる。
「もう申の刻になるぞ。結局、日食までに試験は終えられなかったな」
「不正まで起きたうえに日食か……。羅冠は十家を多く輩出している、曜国でも指折りの楽師の街だってのに。縁起が悪いな」
「楽科挙を任されている瑞王殿下も、頭が痛いだろうな」
玉瑶はちらりと広間の後方を見た。壁際には部下と共に試験を監視する清辰の姿がある。
校尉という役職のことはよく分からない。けれど、清辰が楽科挙総監を務める第四皇子の命で、試験を監視しに来ていることは知っている。
清辰は不正を暴き、無実の自分や蕗按を救ってくれた。けれど、そのために試験は大きく遅れ、結局、日食までに終わらなかった。
それで楽科挙に瑕がつき、清辰や、その主である瑞王殿下まで咎められるようなことがあってほしくない。
玉瑶は広げていた譜の端を、ぎゅっと指で押さえた。
「次、三十六番。范玉瑶」
いつの間にか自分に順番が回っていた。玉瑶は譜をそっと傍らへ置くと、二胡を胸に抱き、ゆっくりと前へ進み出る。
「范玉瑶。あなたの選んだ曲は――」
「あの」
試験官の言葉を遮り、玉瑶は深く息を吸った。
「曲を変えてもいいでしょうか?」
「曲を? 今からですか?」
試験官たちが困惑したように顔を見合わせる。
「独奏なので問題はありませんが、何の曲を弾くつもりですか?」
「曲名は、弾いた後で決めさせてください」
「……ほう」
初老の試験官が顎髭を撫でながら、面白そうに目を細めた。玉瑶はその目をまっすぐに見つめ返す。
「即興で弾きます」
受験者たちがざわつき始める。初老の試験官は片手を挙げ、ざわめきを制した。
「いいでしょう」
「ありがとうございます」
玉瑶は一礼し、試験官たちの前に置かれた椅子に腰掛ける。明かり取りの窓から見える太陽は、すでに僅かに欠け始めていた。
一度深呼吸すると、二胡を構え、目を閉じる。
不思議と胸の内は凪いでいた。
「――かつて天下の宝を盗みし賊がいた」




