第9話 紙は道を選ばない
紙は道を選ばない。
猫も道は選ばない。
だが、人間は紙を前にすると道を選んでいるつもりになるらしい。
冒険者ギルドの掲示板の前で、レオナは三枚の依頼票を何度も見比べていた。
東の農地で夜間警備。
街道沿いの薬草採取。
獣人族の街までの交易隊護衛。
吾輩は長椅子の端で、干し魚の尾を噛んでいた。掲示板の下に置かれた低い木箱の蓋へ、朝日が差している。
人間が紙を眺めている間に、日向を確保する。
猫として正しい判断である。
吾輩は長椅子から下り、木箱へ飛び乗った。背を伸ばすと、前足の爪が掲示板から垂れた紙へ掛かった。
留め具が外れた。
紙は壁を滑り、レオナの靴の上へ落ちた。
「猫さん」
吾輩は日向へ腹を下ろした。
紙を吾輩の場所まで垂らしていた人間が悪い。
レオナは足元から紙を拾った。下端には、吾輩の爪で細い穴が二つ開いている。
「獣人族の街までの交易隊護衛。補助一名……」
受付の女が台の向こうから覗いた。
「それは明日の朝に出る隊商ですね」
「Fランクでも受けられるんですか」
「同行するDランク冒険者がいるので、補助枠なら受けられます。ただし、片道三日かかります」
レオナは紙の裏も見た。
「私は何をすればいいんですか」
「荷車の後方補助です。魔物を追うのではなく、近づかれたときは商人を荷車から離すこと。道が狭い場所では荷の確認も手伝ってもらいます」
受付の女の指が、依頼票の補助枠を示した。
「あくまで補助です。戦うことより、商人を安全な場所へ移す方を優先してください」
レオナの親指が、紙の端を押した。
「分かりました」
「野営は二回です。食事と水は隊商が用意します」
「食事は、どんなものですか」
「干し肉が中心になりますけど」
吾輩の耳が受付台へ向いた。
悪くない。
レオナは手にした依頼票と、掲示板に残る二枚を見比べた。
手の中の紙だけが、町の外へ三日も続いている。
「これも、昇格の記録になりますか」
「なります。ただ、ほかの二つより遠いですよ」
レオナの親指が、爪穴の横をなぞった。
「途中で危険が増えた場合、戻る判断は誰がしますか」
「Dランクの同行者です。隊商の責任者とも相談します」
「後方で何か起きたとき、私が判断する範囲はどこまでですか」
「まず隊列を止めて知らせてください。商人を荷車から離す必要があれば、レオナさんの判断で動いて構いません。ただし、異常を追いかけないこと」
レオナは依頼票を受付台へ置いた。
「これを受けます」
受付の女は紙を取る前に、木箱の日向へ目を向けた。
「三日かかる依頼なので引き受けてもらえて助かります」
「護衛の仕事を経験したいです」
レオナは掲示板を振り返らなかった。
受付の女は爪穴を広げないよう、紙の端を持ち上げた。
「では、依頼票は差し替えておきます。こちらへ署名を」
レオナは右手でペンを取り、帳面へ名前を書いた。
片道三日。
あの鞄が寝床として耐えられるか、確かめておく必要がある。
「出発前に、同行者との顔合わせがあります」
受付の女が別の帳面を開いた。
「今日の夕方に来てください。同行者は弓手のシャノワさんです。獣人族の街まで、通訳も務めます」
「獣人族の方なんですね」
「猫系獣人ですよ」
吾輩の耳が前へ向いた。
猫に似た人間。
あるいは人間に似た猫。
ずいぶん都合のよい呼び方である。
* * *
夕方の冒険者ギルドには、朝より多くの匂いが残っていた。
泥のついた靴と濡れた革、血を拭いた布。その奥から、火を通した肉の匂いが流れてくる。
レオナは受付台の横にある卓へ案内され、鞄を足元へ下ろした。
吾輩が鞄の口から顔を出すと、向かいの椅子の脚の横で、細長い黒いものが揺れていた。
吾輩の前足が出る。
黒いものは椅子の向こうへ引かれた。爪は空を掻き、鞄の縁へ戻る。
紐ではない。
人間の腰から生えている。
人間は、ついに猫の尾まで身につけるようになったらしい。
「シャノワさんですか?」
レオナが卓の前で足を止めると、黒い尾の持ち主が立ち上がった。
レオナより背はわずかに低い。烏羽色の長い髪は片側で編まれ、立ち上がった拍子に内側の淡い色が見えた。頭の上には、黒い耳が二つある。
「はい。シャノワです。明日からよろしくお願いします、レオナさん」
「レオナです。こちらこそ、よろしくお願いします」
シャノワの背には、黒く磨かれた弓があった。
弦がない。
矢筒もない。
シャノワが吾輩へ顔を向けた。
「この子が、猫さんですね」
「はい。ただ、私が飼っているわけではなくて」
レオナは一度口を閉じた。
「一緒に暮らしています」
飼われてはいない。
吾輩が鞄を寝床に選んでいるだけである。
シャノワは手を伸ばさず、鞄から一歩離れた場所で膝を折った。黒い尾も、吾輩から遠い側へ回している。
「アンフスミ」
尾を触るな、と言ったらしい。
「今のは何ですか?」
「『こんにちは』です。猫系獣人の地方語で、カティッシュ語といいます」
シャノワが膝を折った拍子に腰の小袋が近づき、その口から干した魚の匂いが流れてきた。
吾輩の鼻先が前へ出た。
シャノワの黒い耳がこちらを向く。
「通じたでしょうか」
「腰の袋を見ています」
レオナの視線が、シャノワの腰へ下がった。
吾輩は鞄から出て、レオナの隣にある椅子へ飛び乗った。そこから卓へ上がり、腰の小袋へ鼻先を向ける。
シャノワが袋を右へ動かすと、吾輩の鼻先も右へ向いた。左へ移せば、鼻先も左へ動く。
「……魚ですね」
シャノワは腰袋を戻し、椅子へ座った。
「レオナさんは、二台目の後ろでしたよね」
「はい。異常があれば隊列を止めます」
「では、私は二台の間に入ります。何かあったら呼んでください」
シャノワは依頼票に描かれた二台の荷車を指でなぞった。
「もう一つ。レオナさんが敵へ近づきすぎると、私は矢を出せません」
「私に当たるからですか?」
「はい。まだ誰かのすぐ近くへ通す射撃は得意ではなくて……」
レオナは依頼票に描かれた荷車の間隔を見た。
「どのくらい離れればいいですか」
「道幅で変わります。明日、実際の位置で合わせましょう」
「わかりました」
シャノワは依頼票を畳み、腰袋の口を確かめた。
隙間から、干し魚の尾が一本出ている。
吾輩の前足が卓の端へ掛かった。
シャノワは袋を持ち上げた。
「えっと……これは明日の分です」
「大丈夫ですよ。猫さんの分は、私が用意します」
「助かります。それだと数も合います」
シャノワは袋の口を閉じた。
集合は明朝、南門の前。
日が昇る前に出発するらしい。
吾輩は閉じられた腰袋を見た。
三日分あるかどうかは、まだ分からない。




