第10話 大きな損失
翌朝、南門の外には荷車が二台並んでいた。
一台目には布包みと塩の樽が積まれ、二台目には木箱が縄で固定されている。商人たちは出発前から荷を数え、縄を引き、同じ箱を何度も確かめていた。
人間は、旅の前になると物を数える。
猫は、寝る場所と食う物を確かめる。
吾輩は二台目の荷車の下へ入り、車輪の陰へ腹を下ろした。砂埃はあるが、日差しは当たらない。
「猫さん、そこは危ないよ」
レオナが荷車の横へしゃがみ、吾輩へ手を伸ばした。
吾輩は車輪の反対側へ抜ける。
「追いかけるともっと逃げます」
少し離れた場所で見ていたシャノワが言った。
「分かるんですか?」
「猫系獣人の子供も、追いかけると逃げます」
獣人の子供と吾輩を同じにするのは、いささか早計である。
レオナは追うのをやめ、鞄の口を開いて地面へ置いた。
「ここ、入る?」
吾輩は車輪と鞄を見比べた。
鞄の中には、昨日干した魚を入れた布がある。
吾輩は鞄へ入った。
「入った」
レオナの口元が緩む。
吾輩は布に残った魚の匂いへ鼻先を埋めた。
隊商は南門を離れた。
先頭には槍を持つ護衛が立ち、一台目と二台目の間にシャノワ、二台目の後ろにレオナ、そのさらに後ろに商人が雇った剣士が入った。
町を出た道は、すぐに畑の間へ続いた。
昼前には畑が減り、背の低い木と草地が増えた。荷車の車輪は石を踏むたびに跳ね、鞄の底も一緒に揺れる。
吾輩の腹も揺れた。
荷車の旅とは、寝床を装った拷問である。
昼になると、隊商は川沿いで止まった。
レオナは二台目の荷縄を確かめ、ほどけかけた結び目を商人へ示した。
「ここ、緩んでいます」
「お、助かるよ」
商人が縄を締め直すと、レオナは鞄を開いた。
「猫さん、水飲む?」
吾輩が顔を背けると、レオナは器を下げ、小さな干し魚を取り出した。
ようやく学習が見える。
シャノワは少し離れた場所へ腰を下ろし、自分の干し魚を一本取り出した。
吾輩の耳が動く。
シャノワはそれに気づくと、魚を半分に割った。
「ア、アモミ ミシツハボテ」
残りの半分を別の布へ戻す。
「えっ?」
「ごめんなさい。猫さんが私のご飯を狙っているのを感じて取り乱しました」
「シャノワさんって意外と子供っぽいところがあるんですね」
「タンヒアサ ……そんなことない……です」
似たようなことを言う人間を、吾輩はすでに一人知っている。
猫に魚を見せて半分をしまう。
実に残酷な種族である。
* * *
一日目の夜、隊商は街道脇にある古い祠のそばで野営した。
荷車を二台並べ、その内側に火を起こす。商人たちは布を敷き、護衛たちは交代で見張りに立った。
レオナは焚き火のそばで、鞘に入れた剣を膝へ置いていた。右手の指は、柄の近くにある。
シャノワは少し離れた木の根へ腰を下ろし、黒い弓を膝へ置いていた。弓には、やはり弦がない。
吾輩は焚き火から近すぎず、遠すぎない場所を選び、前足を身体の下へ入れた。
火は暖かい。
煙は不快である。
人間は暖かさと煙をまとめて作る。
片方だけを発明できないのか。
「シャノワさんの弓には、弦がないんですね」
レオナが弓を見た。
シャノワは弓の中央を指で撫でる。
「引くときだけ出ます。魔力の弦です」
「矢筒もありませんよね」
「矢も、引くときだけ作ります」
「便利ですね」
「便利ですが、疲れます。続けて撃つと、狙いを定めるまで時間がかかります」
吾輩は目を閉じた。
夜の半ば、吾輩の耳が動いた。
草の中を、小さなものが走る。
鼠か。
吾輩は腹を地面へ近づけた。
前足を一歩出す。
草が揺れた。
出てきたものは、鼠にしては大きかった。
四本の脚で地面を掴み、背は吾輩より高い。茶色い毛の間から、石のように硬い皮膚が見えている。前歯は口からはみ出し、火の光を受けて白く光った。
吾輩は一歩下がった。
鼠は逃げなかった。
頭を低くし、吾輩へ向かって地面を蹴る。
吾輩は荷車の車輪へ飛び乗った。
鼠の前歯が、先ほどまで吾輩のいた土を削った。
馬が鼻を鳴らした。
繋がれた縄が張り、荷車が揺れる。
「何の音ですか?」
レオナが身体を起こした。
鼠は吾輩を追わず、荷車の脇に置かれた餌袋へ顔を向けた。
人間より食い物を選ぶ。
その点だけは評価してもよい。
鼠が餌袋へ跳んだ。
「魔物です!」
シャノワが立ち上がり、黒い弓を構える。
何もなかった弓の間に、翡翠色の弦が張られた。
引いた指先に、同じ色の矢が形を作る。
餌袋の横で眠っていた商人が顔を上げた。
「荷車の内側へ入ってください!」
レオナが商人の腕を引き、火から離れた荷車の間へ押し込む。
鼠が餌袋を噛んだ。
布が裂け、乾いた穀物が地面へ散る。
馬が前脚を上げた。
「馬へ近づかないで! 縄は護衛の人に任せてください!」
レオナは剣を抜いたが、鼠を追わなかった。
商人と鼠の間へ立ち、剣先を地面へ向ける。
シャノワの矢が放たれた。
鼠が餌袋から頭を上げる。
翡翠色の矢は肩の硬い皮膚に当たり、浅く刺さった。
鼠が身体を振る。
矢が抜け、光の粒になって消えた。
「止まりません!」
「レオナさん、右へ!」
レオナは鼠へ踏み込まず、商人と一緒に荷車の右側へ下がった。
射線が開く。
鼠がレオナを追って向きを変えた。
シャノワの指に、二本目の矢が現れる。
弦が鳴った。
矢は開いた口の横から入り、首を貫いた。
鼠の身体が二歩進み、前脚から崩れる。
土の上を滑り、レオナの手前で止まった。
シャノワは弓を下ろさなかった。
「ほかにいないか確認します」
草の奥で、もう一度何かが動いた。
レオナの右足が半歩出る。
だが、すぐに剣を下げた。
「追いません。今は商人と荷を確認します」
先頭を歩いていた槍使いが、倒れた魔物へ近づいた。
「岩跳鼠だな」
「こんなに大きいものなんですか?」
「普通は猫ほどだ。人間と火を見れば逃げる」
槍使いは穀物の上に倒れた身体を見た。
「これは犬より大きい。火のある野営地に自分から入ってきた」
レオナは鼠の肩へ残った硬い皮膚を見た。
「私たちの町でも、通常とは違う魔物が見つかりました」
「これが噂の変異個体、ですか」
シャノワの黒い耳が、倒れたロックルへ向く。
「まだ分かりません。街へ着いたら調べてもらいます」
ロックルの死体は布へ包まれ、二台目の荷車へ積まれることになった。
吾輩は布の端へ鼻を寄せた。
「猫さん、触らないでね。街の詰め所へ持っていくから」
レオナが吾輩を抱き上げた。
目の前にいた鼠は、食えずに運ばれていく。
実に大きな損失である。
* * *
二日目の朝、道が広くなると、レオナとシャノワは二台目の荷車の後ろで立ち位置を確かめた。シャノワが弓を構えるたび、レオナは射線から外れる位置へ動く。三度目には、声を掛けられる前に足を止めた。
夕方になる頃、道は山へ近づいていた。
荷車の車輪が、土と石の混じった道をゆっくり上る。右手には低い谷があり、左手には草の生えた斜面が続いている。
夕日が斜面の上を赤く染めていた。
吾輩は鞄から顔を出した。
斜面から風が下りてくる。
草と乾いた土、馬の汗が鼻先へ入る。
斜面の上に、人影が一つ立っていた。
長身の男である。
夕日を背にしているため、顔は影になっていた。こちらを見ているようにも、ただ立っているだけにも見える。
レオナの足が止まった。
二台目の荷車が進み、レオナとの間が開く。
「レオナさん?」
シャノワが振り返った。
レオナは斜面の上を見ていた。
吾輩も男を見る。
人影はある。
匂いはない。
草と土だけが、鼻先へ届いている。
吾輩の髭が前へ張った。
荷車の車輪が石を踏み、乾いた音を立てた。
レオナが荷車へ顔を向ける。
次に斜面を見たとき、男はいなかった。
「最近、よく出るんですよ」
商人の一人が、斜面を見たまま言った。
驚いていない。
それが一番、吾輩には気に入らなかった。
「山の亡霊って呼ばれています」
シャノワの尾が足元へ下がった。
「この辺りにも出るんですね」
「街の手前じゃよくある話で、見た人によって姿が違うらしいです。死んだ親だとか、昔の恋人だとか」
商人は荷車の横を叩いた。
「荷を盗むわけじゃないなら、こっちは急ぎます」
荷を盗まない亡霊。
魚を盗まない猫。
どちらも、存在意義が分からない。
隊商は再び進み始めた。
レオナは一度だけ斜面を見たあと、二台目の後ろへ戻った。
歩幅だけが少し狭くなっていた。




