第8話 悪くない日
三日後、冒険者ギルドの奥の部屋には、大きな机が置かれていた。
机の上には、ロックメインとスライムの図鑑、二枚の変異個体報告書、周辺調査の地図が並んでいる。
どれも食えない。
吾輩は机の下へ入った。
支部長は二枚の報告書を重ね、レオナへ顔を向けた。
「周辺調査は終了した。大型の足跡も、変わったスライムも見つかっていない。通常のスライムも西の沼と森へ戻っている。緊急案件は完了だ」
「はい」
「二体の変異については、上層部の照合待ちだ」
支部長は机の引き出しから、革袋を二つ取り出した。
一つは大きく、もう一つは小さい。
「最初に受けたスライム討伐は、森へ入るなという条件を破っている。依頼は失敗として記録する」
レオナは唇を結び、頷いた。
「それとは別に、危険個体を発見し、報告したことは評価する。こちらが緊急討伐の支援報酬。もう一つが発見と報告への追加報酬だ」
レオナは二つの袋を両手で受け取った。
硬貨が鳴った。
吾輩の耳が動く。
「私が見つけたというより、猫さんが森を気にしたので」
支部長が机の下を見た。
「猫に硬貨を渡しても使えん」
その通りである。
魚で渡すべきだ。
「それに、森へ入ると決めたのはお前だ。報告へ戻ったのも、討伐隊へ加わったのもな」
レオナは革袋を見た。
「ありがとうございます」
支部長は机の上の紙をまとめた。
「ロックメインの討伐では、決められた役目を離れた。そこは違反として残す」
支部長は、もう一枚の記録へ指を移した。
「スライムの件では、討伐隊へ参加していたわけではない。目の前で起きた危険へ対処し、ガルドを救った。こちらは功績だ」
レオナは机に並んだ二枚の記録へ目を移した。
「同じ男を救ったからといって、二つを同じ判断にするな。次に何か起きたときも、その場で考えろ」
レオナは剣の柄へ手を置き、すぐに離した。
「分かりました」
部屋を出ると、フェリシアが壁へ背を預けていた。
「あら。終わった?」
「はい」
「じゃあ、猫ちゃんの魚を買いに行きましょうか」
レオナが吾輩を見る。
当然である。
この一件で、最も予定を狂わされたのは吾輩である。
* * *
市場の魚屋には、銀色の魚が何匹も並んでいた。
吾輩は台の下から匂いを選ぶ。
干したもの。焼いたもの。生のもの。
レオナは革袋から硬貨を出した。
「これを一匹ください」
店の男が網の上に載せた魚を指さす。
「焼きたてだ。猫にやるなら冷ましてからにしな」
「分かりました」
紙へ包まれた魚から、脂の匂いが上がる。
吾輩はレオナの足へ身体を寄せた。
「あら」
後ろにいたフェリシアが声を上げる。
「猫ちゃんから近づいたわ」
魚を持つ人間へ匂いをつけておくのは、当然の管理である。
好意ではない。
レオナは市場の端にある長椅子に座り、紙を開いた。
「まだ熱いから待って」
吾輩は前足を長椅子へ掛けた。
「待って」
魚の尾へ鼻先を寄せる。
熱が毛へ触れた。
吾輩は一度顔を引いた。
「ほら、熱いでしょう」
分かっていた。
温度を確認しただけである。
フェリシアが笑う。
「レオナちゃんより聞き分けがいいわね」
「聞き分けたんじゃなくて、熱かっただけだと思います」
「猫ちゃんのことは分かるのね」
レオナは魚を裏返した。
「少しだけです」
フェリシアはそれ以上言わず、魚の湯気を見た。
レオナが魚の身をほぐし、半分を紙の上へ置く。
「はい。猫さんの分」
今度は頭側だった。
少しは計算を覚えたらしい。
吾輩は魚を前足で押さえ、腹からかじった。
皮は香ばしく、身は柔らかい。干し魚ほど塩も強くない。
悪くない。
レオナは残り半分を食べながら、革袋の硬貨を数えた。
「宿に泊まっても、剣の修理代を払えます」
「初めての報酬を全部使わないことね」
「残します」
「魚をもう一匹買わない?」
吾輩は顔を上げた。
レオナは吾輩と硬貨を見比べる。
「今日は一匹です」
計算を覚えるのが早すぎる。
* * *
夕方、レオナは通りの宿屋へ入った。
前に札と硬貨を見比べて通り過ぎた宿である。
今度は台へ硬貨を置き、二階の鍵を受け取った。
「猫も一緒でいいですか」
「部屋を汚さないならな」
宿の男が吾輩を見る。
汚すのは、たいてい人間の方である。
二階の部屋には、寝台と小さな卓、木の椅子が一つずつ置かれていた。窓は通りに面し、扉の下には吾輩の前足が入るほどの隙間がある。
吾輩は部屋を一周した。
寝台の下。
窓の縁。
卓の裏。
犬はいない。
水瓶には蓋がある。
レオナは短い外套を外し、寝台の端へ置いた。
「そういえば、ちゃんと名乗ってなかったね」
吾輩は外套へ前足を掛けた。
「私はレオナ」
その名前は、何度も聞いている。
レオナは吾輩の首元を見た。
「首輪もないし、名前は分からないよね」
吾輩は外套の上で向きを変えた。
「じゃあ、猫さんでいい?」
レオナは寝台へ腰を下ろし、壁へ剣を立て掛けた。
「明日、次の依頼を選ぼう」
窓の外では、荷車の車輪が石畳を通っている。階下からは煮た肉と麦の匂いが上がってきた。
吾輩は外套の端で身体を丸めた。
魚も食った。
寝床も、石の床ではない。
ならば、今日のところは、悪くない日である。




