第2話 信用できない女
獣の前脚が土を削った。
娘は吾輩を片腕で抱えたまま、腰の剣を抜こうとした。鞘から半分出た刃が、木の根へ当たる。
獣が地面を蹴った。
吾輩の背中の毛が立つ。
娘の腕から身体を捻り、胸当てへ爪を掛けた。
青灰色の頭が近づく。
開いた口の中に、吾輩の脚より太い牙が並んでいた。
横から、濃紺の影が入った。
小さな円盾の縁が獣の鼻先へ触れる。正面から止めず、顔を木の外側へ押し流した。
牙が娘の肩を外れ、背後の幹へ食い込む。
「何をしているの!」
濃紺の髪を低い位置でまとめた女が、娘と獣の間へ半身で立った。左腕には小さな盾、右手には短いメイスを持っている。
「逃げるわよ!」
女は獣の顎へ盾を当てたまま、娘へ背中を向けなかった。
「でも――」
「話は走りながら聞くわ」
娘は吾輩を抱え直し、森の出口へ向いた。
獣が幹から牙を抜く。
女は一歩下がり、振り上げられた前脚の内側へ盾を入れた。爪は盾の表面を滑り、土へ落ちる。
「先に行って」
娘が走る。
鞄が腰で跳ね、吾輩の腹へ腕が食い込んだ。
実に乗り心地が悪い。
後ろでメイスの音がした。続いて、獣が吠える。
木々の間から鳥がまた飛び立った。
娘は振り返らなかった。
森を抜け、草の丘まで走ったところで、ようやく吾輩を地面へ下ろした。
森の入口から、濃紺の髪の女が後ろ向きに出てきた。盾を獣へ向けたまま、丘へ下がってくる。
獣は木々の間で止まった。
前脚を一歩出したが、日の当たる草地へは入らない。
濃紺の髪の女は獣から目を離さず、娘の横まで下がった。
「走れる?」
「はい」
「なら町まで」
濃紺の髪の女が獣へ背を向けた。
その口元には、もう薄い笑みが戻っている。
笑顔へ戻るのが早い人間は信用できない。
先ほど吾輩たちの前へ入った盾は、少しだけ別である。
* * *
冒険者ギルドへ入ると、娘は空いた窓口へ駆け寄った。
「早かったですね、レオナさん」
娘の手が止まった。
レオナというらしい。
「森に、見たことのない魔物がいます」
受付の女が立ち上がった。
「怪我は?」
「ありません。お姉さんが助けてくれました」
「フェリシアさんが?」
フェリシアは左腕の盾を外し、台へ載せた。黒に近い紺色の表面に、新しい爪痕が三本増えている。
「鼻先を外しただけよ。正面から受けていたら、私も一緒に転がっていたわ」
受付の女は紙を出した。
「場所と、分かる範囲の特徴をお願いします」
娘は丘と森の位置を示し、大量のスライムが森から逃げてきたこと、その先で大型の獣を見つけたことを順に話した。
「大きさは?」
「背中が、荷車より高かったです。前脚が太くて、首の周りに硬そうな毛がありました」
「フェリシアさんは、どうして森へ?」
「北の林道から戻る途中で、スライムが何匹も丘へ出てくるのを見たの。森で木が倒れる音が続いたから近づいたら、この子が襲われるところだったわ」
受付の女がフェリシアを見る。
「速さは?」
「距離を詰めるまで、ほとんど間がなかったわ。身体の大きさから考えるより速い。森の中では、少なくともCランク相当として見た方がいいわね」
「Bの可能性は」
「あるわ。まだ一度、攻撃を外しただけだから断定はできないけれど」
周囲で依頼票を見ていた人間たちが、台の方へ顔を向けた。
受付の女は奥の鐘を三度鳴らした。
人間は、危険が大きいほど鐘を増やすらしい。猫なら一度の音で十分である。
奥の扉から、白髪の混じった男が出てきた。受付の女から報告書を受け取り、娘とフェリシアを順に見る。
「ほかに個体は」
「見ていません」
「スライムは、全部その森から?」
「はい。十匹より多かったです」
男は壁に掛かった周辺地図を外し、台へ広げた。
「この森の南は街道だ。西の沼から魔物が押し出されれば、日暮れまでに荷車が通れなくなる」
受付の女が頷く。
「緊急討伐を出します」
男はギルドの中を見回した。
「今すぐ動けるCランク以上の冒険者は?」
ギルドの中で、三人が立ち上がった。
壁際にいた槍使い。
窓際で短弓を背負った小柄な男。
奥の卓にいた、短い杖を持つ女。
三人が地図の置かれた台へ集まる。
白髪の男は、フェリシアを含めた人数を数えた。
「四人か」
「ほかのCランク以上は、護衛と討伐で町を離れています。明日中に戻る予定もありません」
「南の街道を閉じろ。今夜は丘の手前へ見張りを置く。位置を確認し、倒せないと判断したら戻れ。討伐は集まった者で出す」
娘が一歩前へ出た。
「私も行きます」
受付の女はすぐに首を横へ振った。
「レオナさん。あなたは今日登録したFランクです。参加させられません」
「場所を知っています」
「場所を伝えるところまでが、あなたの仕事です」
「でも、私が見つけたんです」
娘の手が、台の上の地図へ触れた。
「スライムの依頼も、まだ終わっていません。何かできることがあるなら――」
「レオナちゃん。剣であれと戦うつもり?」
レオナの口が閉じる。
「討伐には、戦う人以外も必要よ。水、縄、薬、退路の印。誰かが怪我をしたら、戦える人間を一人つけて戻すことになるわ」
フェリシアは白髪の男へ顔を向けた。
「支援役として連れていくのはどうかしら。私の後ろから出さない。剣も抜かせない」
「危険度はC以上だぞ」
「四人で行くよりはましでしょう」
槍の男が地図の森を指した。
「目撃者がいれば、探す時間を減らせる。戦わせないなら俺は構わん」
受付の女はレオナの胸当てを見た。傷は一つもない。
「条件があります」
レオナが顔を上げる。
「前へ出ない。魔物へ剣を向けない。指示された物を運び、負傷者が出たら退路へ案内する。守れますか」
レオナの右手が剣の柄へ下がりかけた。
途中で止まる。
「守ります」
受付の女は支援用の依頼票へ印を押した。
「出発は夜明けです。それまで休んでください」
レオナは紙を両手で受け取った。
吾輩は長椅子へ飛び乗り、レオナの鞄へ鼻先を向けた。
走ったせいで魚の匂いが薄くなっている。
「猫ちゃんも来るのかしら」
フェリシアが吾輩へ手を伸ばした。
吾輩は鞄の反対側へ移った。
「あら。逃げられちゃったわ」
笑いながら反対の手を回す人間は、やはり信用できない。




