第1話 死んでも腹は減る
吾輩は猫である。
水瓶に落ちて死んだ。
それなのに、腹が減っている。
目を開けると、鼻先には濡れた石があった。腹を地面につけたまま前足を伸ばすと、爪が石の継ぎ目に当たり、身体が前へ出た。
口の奥には、まだ水の味が残っている。
だが、息はできる。
左右を石壁に挟まれた細い路地には、湿った土と古い木の匂いが溜まっていた。その向こうから、人間の汗、焼いた肉、それから魚の匂いが流れてくる。
死んだ事情について考えるのは、腹を満たしてからでも遅くない。
吾輩は立ち上がり、魚の匂いを追った。
路地を抜けると、石を敷いた広い道へ出た。両側には石と木で造られた建物が並び、腰に剣を下げた人間や、背丈ほどある杖を持った人間が荷車の間を歩いている。
道の向こうでは、屋台の男が指先から火を出し、その火で鉄板を熱していた。
以前の町では、人間が刃物を持って歩けば騒ぎになった。指から火まで出せば、なおさらである。
この町では、珍しくないらしい。
魚の匂いは、通りの先にある大きな建物から流れていた。開いた扉を剣や杖を持った人間たちが出入りしている。
吾輩は革靴と鉄靴の間を抜け、中へ入った。
壁には何枚もの紙が貼られ、その前に人間が集まっている。奥には長い台があり、紙や革袋を持った者が順番に並んでいた。
魚の匂いは、その列の端からしている。
吾輩は椅子の下を進んだ。
二つ先の窓口で、一人の娘が二枚の紙を見比べていた。
赤みのある橙色の髪を、頭の高い位置で結んでいる。革の胸当てには傷がなく、細い腰から下げた剣の鞘が、身体を動かすたびに膝へ当たっていた。
「南の丘でスライムを三匹。これなら、今日登録したばかりでも受けられるんですよね」
台の向こうにいる女が、娘の胸当てと腰の剣を見た。
「受けられます。ただ、最初は採取依頼でもいいんですよ。白露草なら、魔物と戦わずに実績を作れます」
「討伐にします」
娘は白露草の紙を台へ戻した。
「剣を使う依頼は、訓練とは違います」
「分かっています」
「スライムでも、囲まれれば新人には危険です」
娘の指が、討伐依頼の端を押さえた。
「父さんみたいな冒険者になるなら、魔物を前にして動けるようになりたいんです」
女は娘の顔を見たあと、依頼票へ印を押した。
「三匹を超えていたら戦わないこと。森には入らず、丘の南側だけを探してください」
「はい」
娘は依頼書を畳み、肩から下げた鞄へ入れた。鞄の口から、干した魚の匂いがした。
娘が父親のようになれるかどうかは、吾輩には関係がない。
魚の行方については別である。
娘は建物の端にある長椅子へ座り、鞄から布の袋を取り出した。袋の口を開くと、干した小魚が三匹見えた。
吾輩は長椅子へ飛び乗り、袋の縁へ前足を掛けた。
「こら」
娘は両手を吾輩の脇へ入れ、身体を持ち上げた。
「これは私のお昼ごはん」
吾輩は袋へ前足を伸ばした。
「もう。取ろうとしてもだめ」
娘は吾輩を床へ下ろすと、その場にしゃがみ、首元から腹へ目を移した。
「飼い猫じゃないの?」
吾輩は袋へ鼻先を向けた。
娘は小魚を一匹取り出した。
「一匹だけね。私も余裕がないから」
娘が小魚を石の床へ置いた。
吾輩は頭を前足で押さえ、背からかじった。
塩が強い。
しかし、食べられないほどではない。
娘は袋の中を見てから、残りの二匹を鞄へ戻した。自分の食事も足りていない人間が、見知らぬ猫へ三分の一を渡した。
吾輩が食べ終える前に、娘は立ち上がった。
「じゃあね。次は自分で見つけるんだよ」
娘は建物を出ていった。
吾輩は口の周りを舐める。
鞄には、まだ二匹残っている。
外へ出ると、娘は通りの先を歩いていた。長い鞘を膝へ当てながら、人と荷車を避けて進んでいる。
吾輩はその後ろを追った。
南門を出たところで、娘が振り返った。
頬の横へ残した二筋の髪が遅れて前へ跳ねる。
「ついてきたの?」
吾輩は娘の鞄を見た。
「南の丘まで行くんだよ。町へ戻った方がいいと思うけど」
娘が来た道を指さす。
魔物を倒しに行く本人が言うことではない。
吾輩がその場に座ると、娘は指を下ろした。
「本当に来るの?」
娘は吾輩から顔をそらし、丘へ向かって歩き始めた。
吾輩も後を追った。
石を敷いた街道は町から離れるにつれて細くなり、左右に続いていた畑も途切れた。その先には草で覆われた丘があり、さらに奥には森が広がっている。
娘は何度か後ろを振り返った。吾輩がいることを確かめると、また前を向く。
追い返す気があるのか、ついてきてほしいのか、どちらかに決めるべきである。
丘へ着くと、娘は鞄から小さな本を取り出した。開いたページには、青い丸が三つ描かれている。
「水辺と、日陰……」
娘は本と丘の西側を見比べ、森から離れた草地を進んだ。
吾輩は日当たりのよい石を見つけ、その上へ腹を下ろした。
石には日の熱が残っている。
娘は草を分け、低い岩の陰を一つずつ覗いていった。剣へ手を掛けるたび、鞘の先が土へ触れる。
最初の一匹を見つけたのは、吾輩の右耳だった。
草の擦れる音が近づく。
青い身体が、森の方から丘へ滑り出た。
「いた」
娘が本を閉じ、剣を抜いた。
スライムは娘の方へ向かわなかった。身体を地面へ広げ、娘の横を抜けて南門へ続く街道へ進む。
「待って」
娘が前へ回り込むと、スライムは靴を避けて草へ入った。
「一匹……」
その奥でも草が倒れた。
二つ。
三つ。
青い身体が次々と森から出てくる。
娘は剣を両手で構えた。
依頼票に描かれていた数を超えても、スライムは途切れない。
「こんなに……」
十匹を超えたところで、娘の右足が半歩下がった。
一匹なら倒せると考えていたらしい。
十匹を前にしても同じ考えを続けるほど愚かではなかったようである。
だが、スライムたちは娘を囲まなかった。どれも森から離れ、丘を下っていく。
最後の一匹が吾輩の石の横を通った。
青い身体が震えている。進むたびに形が崩れ、草へ小さな雫を残した。
吾輩の腹の下で、石が揺れた。
一度。
続いて、もう一度。
森の奥から、枝の折れる音が届く。
鳥が木々の上から飛び立った。羽音は一つの方向からではない。森の広い範囲から、同時に空へ上がっている。
吾輩は石から下りた。
「猫さん?」
低い音が、地面を伝って前足へ入った。
耳ではなく、腹に響く音である。
吾輩は森へ顔を向けた。
魚の匂いはしない。
それでも、背を向けるには大きすぎる音だった。
吾輩が草へ入ると、娘が剣を鞘へ戻して追ってきた。
「待って。森には入らないって言われたでしょう」
吾輩へ言ったらしい。
決まりを聞いた覚えはない。
森へ入ると、日の光が枝に遮られていた。土は湿り、落ち葉の下を虫が走っている。
足元の細い枝が、同じ方向へ押し倒されていた。
人間の足跡より大きなくぼみが土に残り、縁から崩れた泥がまだ乾いていない。
娘はその前で止まった。
「これ……足跡?」
吾輩の髭へ、森の奥から風が触れた。
獣の毛。土。古い血。
それから、枝がまとめて折れた。
娘が吾輩を抱き上げ、太い木の陰へ入る。
吾輩の腹が腕へ押しつけられた。
木々の間を、青灰色の背が横切った。
四本の脚で立つ獣である。
だが、背は荷車より高い。前脚は後ろ脚より太く、肩から首へ硬い鬣が何重にも立っている。頭の左右には、角にも耳にも見える長い突起が後ろへ伸びていた。
獣は前脚で地面を掻いた。爪が土の下の石へ当たり、乾いた音を立てる。
娘の腕が固くなった。
獣はこちらを見ていない。
今のうちに離れるべきである。
娘も同じ結論に至ったらしい。吾輩を抱えたまま、木の陰から一歩下がった。
靴の下で、枝が折れた。
獣の頭が動く。
青灰色の顔が、木の陰にいる娘へ向いた。
金色の目が開いた。




