第15話 帰る場所
シャノワの指が弦を離した。
翡翠色の矢が、レオナの右肩から離れた場所を通る。
魔物は首を振り、身体を横へ滑らせた。矢は背中の膜を裂き、祭壇の奥にある石へ当たって消える。
破れた膜から、白い霧が噴き出した。
人影が一度崩れる。
すぐに別の形へ戻った。
「魔石へ通せません」
シャノワが次の矢を作る。
レオナと魔物の距離は、剣が届くほど近い。
「私が離れます」
「追ってきます」
魔物の白い顔がレオナへ向いた。
背中の膜に、人影が浮かぶ。
レオナは剣を上げた。
魔物が踏み込む。
前脚が石板の縁へ当たり、白い霧がレオナの足元へ広がった。
レオナは右へ身体をずらし、振り下ろされた角を剣の腹で外へ流す。そのまま魔物の横へ回ろうとしたが、白い膜がレオナの正面へ広がった。
刃が止まった。
レオナの肩が止まった。
何かを聞いたように、人影へ顔を向ける。
「帰ろう」
レオナが、小さくその言葉を繰り返した。
白い膜がレオナに纏わりつく。
「もう、いい」
レオナの剣先が下がった。
魔物の身体が近づく。
シャノワは矢を引いたまま動けない。
レオナの身体が、シャノワと魔石の間へ入っている。
今放てば、矢はレオナの背へ入る。
「レオナさん」
シャノワの声が硬くなる。
レオナは動かなかった。
吾輩は倒れた石の陰にいた。
だが、レオナが止まれば、鞄も止まる。
鞄が止まれば、帰りの魚も止まる。
吾輩は石陰から出て、レオナの靴へ前足を掛けた。
布の下で、足に力が入る。
レオナの剣先が少し上がった。
「帰る場所ならあった」
レオナは白い膜を見ていた。
「でも、父さんが帰ってこなかった」
レオナの両手が剣の柄を握り直した。
「本物なら、先に謝って!」
白い膜が、レオナの頬へ近づく。
「帰ろうなんて、言う前に」
レオナは剣を振り上げ、白い膜へ剣を振り下ろした。
白い膜を斬った手応えはない。
それでも、膜は上下に裂けた。
白い膜が左右へ分かれ、魔物の細い胴が露出する。
「右へ回ってください!」
シャノワの声が飛ぶ。
レオナは魔物の正面へ踏み込まず、右へ走った。
魔物が首を向ける。
白い膜が伸び、レオナの腰へ巻きつこうとした。レオナは剣で膜を受けず、さらに外側へ足を運ぶ。
魔物も身体の向きを変えた。
額の魔石が、シャノワへ横を向く。
「そのまま!」
シャノワが一歩左へ動く。
レオナは魔物の視線を引いたまま、祭壇の端を回った。
シャノワと魔石の間から、レオナの身体が外れる。
「今です!」
レオナは左足で石を蹴り、膝を折って射線の下へ身体を落とした。
翡翠色の矢が通る。
矢は額の魔石へ刺さった。
白く濁った石に、亀裂が入る。
魔物の脚が止まった。
白い膜に浮かんでいた人影が崩れ、顔も手も霧へ戻っていく。
斜面の少年が息を呑んだ。
シャノワの弦を引く指から力が抜ける。
レオナは、崩れていく膜から目を離さなかった。
魔石が割れた。
乾いた音が、谷の石へ返る。
魔物の身体は膝から崩れ、白い霧の中へ沈んだ。
吾輩はレオナの靴から前足を下ろし、倒れた石の方へ戻った。
働いたわけではない。
石陰を離れたついでである。
* * *
砕けた魔石から淡い光が浮かび、その一筋がレオナの胸当てへ触れた。光は革の上で止まらず、胸元へ沈んで消える。
レオナが胸へ手を置いた。
「どうしました?」
「……少し、温かかっただけです」
胸当てに傷も光も残っていない。
吾輩の鼻へ届くのは、革と汗、湿った獣毛の匂いだけだった。
霧が薄くなる。
斜面の上では、捜索隊が少年を抱えたまま止まっていた。シャノワが安全を伝えると、彼らは街へ向かって上り始めた。
少年は、さきほど何かを呼んでいた祭壇を見ていた。
今度は呼ばなかった。
レオナは剣を鞘へ戻し、祭壇の中央へ近づいた。
白い霧が消えたことで、古代文字がさっきよりはっきり見えている。
レオナの足が止まった。
「シャノワさん」
「はい」
「この文字は、何と書いてあるんですか」
レオナが、石板の中央にある一文字を指した。
シャノワは隣へ膝をつき、指された文字を見る。
「分かりません。さっき写したものと同じ古代文字です」
「でも」
レオナは文字から指を離さなかった。
「北……?」
シャノワの耳が前を向いた。
「読めるのですか」
「この一つだけです」
レオナは隣の文字へ指を移した。
さらに次を見る。
「ほかには?」
「分かりません」
最初の文字へ戻る。
見慣れない線で刻まれている。
「北です」
レオナの指は、古代文字の一つから動かなかった。
北。
それだけが読めた。
「レオナさん、暗いのでここを上るのは危険です。夜明けまで待ちましょう」
「そうしましょう。火をおこしますね」
レオナが枯れ枝を集め始めた。
吾輩は祭壇に残る傷へ目を向ける。
火をおこすのは賛成だ。
だが、夜が明ければ人間たちはまたあの一文字の先へ進もうとするのだろう。
北に魚がいる保証など、どこにもないというのに。




