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リインキャットネーション ―駆け出し冒険者と巡る異世界旅―  作者: カミツキ
獣人族の街

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第14話 不本意な匂い

 レオナが顔を上げた。

 今度は、さきほど男が消えた木の間を見なかった。


「今の声は!?」

「父さん、と叫んでいました」

「シャノワさん、行きましょう」

「はい」


 声のした方へ走り、低い枝を腕で払い上げる。シャノワも弓を手に取り、光の弦を張りながら続いた。


 吾輩も二人の後を追った。帰りの鞄と魚を置いていかれるわけにはいかない。

 子どもの声は、山道から外れた斜面の下から聞こえた。


「サケチン!」


 食堂で吾輩の魚の尾を持ち上げた少年である。

 少年は斜面の途中で尻をつき、片足を木の根へ挟まれていた。赤い上着の裾は片側だけ裂け、膝から下は泥に汚れている。頬には乾きかけた涙の跡が残っていた。


 それでも、少年は吾輩たちを見ていなかった。

 さらに下の谷へ両手を伸ばしている。


「サケチンジ ツシフ クメ」

「父親が下にいる、と言っています」

 レオナたちが近づき、シャノワが少年の横へ膝をついた。


「アスミカ ルソ エビチク」


 少年の肩へ手を置き呼びかける。

 少年は首を振った。


「キタアイミ ヨンボシ。サケチンジ イコッソウシンビ 」

「チウフ キツカ ニゲテイミ リッソホ」


「レオナさん、先に足を外します。手伝ってください」

「分かりました」


 シャノワは少年の足首へ触れ、根の隙間を確かめた。

 レオナは斜面の下側へ回った。


「根を切ります。足を動かさないでください」


 剣を抜き、少年の靴から手の幅二つ分離れた場所へ刃を入れる。

 一度目では切れなかった。同じ傷へもう一度振り下ろした。


 根が割れた。


 シャノワが隙間を広げ、少年の足を抜く。少年は立とうとしたが、右足へ体重を載せたところで膝を曲げた。


「歩けませんね。この子を街まで送ります」

 シャノワは弓を背へ戻し、少年の腕を自分の肩へ回した。

「サケチンジ リッソメ」

 少年はまだ谷を見ている。

「チウフ リスコ イコムリテ」

「ツシフ クメンビッソ!」

 少年の尾が膨らみ、シャノワの腕から抜けようとした。


「サリモ!」


 シャノワの声に、少年は足を止め耳を伏せた。

 吾輩は少年を見た。

 伏せろ、と言ったらしい。

 言葉はわからなくとも見ればわかる。


「えっ?」

「レオナさん、止まってください」


「キヒシハ カイキチンジ リッソクリテ。ツシコ クエハミ、タハキサボテ」

「ボラ、カサキチンジ」

「カサキチンジ ナンサケフ クメヒミ、オジカ ツシキヒシカ ヤリハ カエコ ヨヅリトン 」


 少年は谷の下を指したまま、早口で言葉を続けた。

 シャノワの尾が一度だけ強く揺れた。

 少年の腕から力が抜けた。

 シャノワは少年を背負った。細い身体だが、腰を落として立つと姿勢は崩れなかった。


「父親が下にいるそうです。彼を街まで送ってもらいます」

「私たちは?」

「谷の下の確認に行きましょう」

「分かりました」


 レオナは剣についた木屑を払い、鞘へ戻した。


 谷の下から、湿った風が上がってきた。

 吾輩の鼻先へ、苔と古い石の匂いが入る。

 人間の匂いはしない。

 魚もいない。


 少年が見ていた方向を、捜索隊の獣人が指した。


「ツシフ、クツジキメ 」


 斜面の木々が途切れた先に、円く並ぶ灰色の石が見えた。

 中央には、苔に覆われた平たい石がある。

 祭壇のようだった。


 * * *


 少年は、捜索隊の二人に預けられた。

 シャノワが足の状態を伝え、街へ戻る道を指示する。少年は何度も谷を振り返った。


 レオナたちは祭壇へ下りた。

 斜面は急で、落ち葉の下に濡れた岩が隠れている。レオナは木の幹へ左手を置き、一歩ずつ足場を確かめた。シャノワは斜面に対して身体を横へ向け、尾で姿勢を保ちながら下りる。


 吾輩は二人より少し上を進んだ。

 人間の足が滑った場所は、猫にも滑る。

 先に進んだからといって、安全とは限らない。


 祭壇の周囲には、腰ほどの石が八つ並んでいた。どの石も表面を苔に覆われ、外側へ倒れかけている。


 中央の石板だけは平らだった。

 表面には、直線と曲線を組み合わせた文字が刻まれている。


 吾輩には模様にしか見えない。


 シャノワが石板の前へ膝をついた。

 指先で苔を払う。

 刻まれた文字が少しずつ現れた。


「読めますか」


 レオナが石板の反対側へ回る。

 シャノワは文字の端から端まで目で追い、首を横へ振った。


「獣人共通語ではありません。カティッシュ語でもないです」

「古い獣人語ですか」

「分かりません。文字の形が違います」


 シャノワの指が、石板の下部へ動いた。

 祭壇本来の文字より浅い傷が、台座の側面に残っている。


 こっちは短い。


 筆跡ではなく、刃物で一文字ずつ刻んだ跡だった。

 シャノワの指が止まる。


「ここだけ、カティッシュ語です」

 声が小さくなった。

「何と書いてありますか」

 シャノワは指を傷の上へ置いたまま、レオナを見なかった。

「祖父の名前です」


 谷の上で、枝が擦れた。

 捜索隊が少年を運び始めたらしい。遠ざかる足音に、石を踏む音が混じっている。

 レオナは台座の傷を見た。


「おじいさんが、ここへ来た証拠ですか」

「この署名が祖父のものなら」

「違う可能性は?」

「同じ名前の人はいるかもしれません」


 シャノワはそう答えたが、指を離さなかった。

 傷の端は古く欠け、一部に苔が入り込んでいる。

 最近刻まれたものではない。

 捜索隊の一人が斜面の途中から声をかけた。

「シャノワ、チウフ アクセカ リスリボ カエメイミ、ケセツ カコシミ キサイミ カッソウソエモ」

「ミイムリツシ」

 レオナへ向き直った。


「私たちは、この文字を写し終えたらあとを追うようにと」

「ここへ残ってもいいんですか」

「はい。でも、条件があります」

 シャノワは腰の袋から紙と炭を取り出した。

「祭壇より奥へ行かない。階段や入口を見つけても入らない。霧や音などの異変が出たら、調べずに撤退する」

「分かりました」

 レオナは周囲を見た。

「私は上を見ます。シャノワさんはこの文字の写しをお願いします」

「ミイムリ……分かりました」


 シャノワは紙を石板へ当て、炭を横へ滑らせた。

 黒い線の中に、古代文字が白く浮かび上がる。

 レオナは祭壇と斜面の間へ立ち、少年たちが上っていく方向と谷の奥を交互に見た。


 吾輩は倒れた石の上へ飛び乗った。

 紙を擦る音は、鼠の立てる音に少し似ている。

 しかし、動かない紙へ飛びつくほど吾輩も暇ではない。


 シャノワが一枚目を外し、台座の署名へ新しい紙を当てた。

 そのとき、吾輩の髭へ冷たい空気が触れた。


 風は谷の奥からではない。

 足元から上がっている。

 前足の下で、石が細かく震えた。

 吾輩は倒れた石から下りた。


「猫さん?」


 レオナがこちらへ顔を向ける。

 返事をする前に、祭壇の隙間から白い霧が流れ出した。


 地面を這い、石の間を埋めていく。


「撤退します」


 シャノワは紙を石板から剥がし、腰袋へ押し込んだ。

 レオナも斜面へ身体を向ける。


 斜面の途中まで上った捜索隊から、少年の声がした。


「サケチン!」


 霧の中に、人影が立っていた。

 少年が捜索隊の腕から抜けようとする。片足を引きずったまま、斜面を下りかけた。


「サリモ!」


 シャノワが声を上げる。

 少年の身体を、後ろにいた獣人が抱き留めた。

 レオナは祭壇から離れず、少年と霧の間へ入った。


「そのまま街へ戻ってください!」


 霧がレオナの膝まで上がる。

 シャノワが黒い弓を構えた。指を引くと、翡翠色の弦が張られる。


「私は右へ回ります。撃てる位置になったら言ってください」

「分かりました」


 レオナは剣を抜き、身体を半身にする。


 霧の中で、四本の脚が動いた。細長い身体が祭壇の奥から現れる。


 鹿に似ていた。


 顔は白い膜に覆われ、目も口も見えない。背中から伸びた薄い膜が、霧の中で何枚も重なっている。


「サケチン!」


 斜面の上で、少年が身を乗り出した。

 レオナの剣先が止まる。

 シャノワの指も、弦の上で動かなくなった。


「おじいちゃん……」


 三人の目は、同じ白い膜へ向いていた。

 吾輩には見知らぬ人間の娘にしか見えない。

 どうやら同じ人間を見ているわけではないらしい。


 白い膜の向こうから、人間の匂いは届かなかった。

 あるのは湿った獣毛と、古い石の匂いだけである。


 実に不本意な匂いだった。


 魔物が前脚を踏み出す。

 額の中央で、白く濁った魔石が光った。

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