第16話 父の旅路
夜が明けても、霧は戻らなかった。
谷に残ったのは、湿った石と朝の風だけだった。
ただし、魚はいない。
吾輩は倒れた石の上へ腹を下ろし、夜露の残っていない場所を探した。
事件が終わっても、地面は勝手に乾かない。
人間の勝利とは、実に不完全である。
日が木々の間へ入る頃、獣人族の長老たちが谷へ下りてきた。
先頭の老人は白い耳を持ち、背を曲げながらも杖を使わずに斜面を歩いていた。
後ろには、文字の記録を担当する獣人と、祭壇の周囲を調べる二人が続いている。
少年を運んだ捜索隊が、街へ戻って事情を伝えたらしい。
白い耳の長老は祭壇の前へ膝をついた。
シャノワが説明する。
長老は返事をせず、石板の古代文字へ指を置いた。
端から順に追う。
途中で指が止まることはなかった。
最後まで見てから、首を横へ振った。
シャノワが人間語へ訳す。
「長老にも読めないそうです。レオナさんが読めたもの以外、今は分からない。そう記録する、そうです」
「そうですか……分かりました」
* * *
祭壇の奥には、低い石扉があった。
霧が消えるまで、白い膜と苔に隠れていたらしい。
長老たちが扉の周囲を調べ、石の割れや罠がないことを確かめた。二人が左右の取っ手へ手を掛け、手前へ引く。
石の底が土を擦った。
奥に、小さな石室が現れた。
人が三人入れば狭くなる程度の広さだった。壁際には崩れた棚があり、中央の石台に木箱が一つ置かれている。
まず、長老と調査役の獣人が中へ入った。
しばらくしてから、シャノワとレオナも呼ばれた。
吾輩は石室の入口へ座った。
中は見えるが、暗く、狭く、魚の匂いもしない。
これ以上入る理由はない。
木箱は金具の一部が錆び、蓋の端が少し浮いていた。長老が布を挟んで開ける。
中には、革表紙の帳面が二冊入っていた。
一冊は人間語。
もう一冊には、獣人語が使われている。
レオナは人間語の帳面を手に取った。
最初の頁に名前があった。
レオン。
レオナの指が名前の最後の線をなぞった。
「父の名前です」
レオナは帳面を両手で持った。
落とさないためというより、片手にすると閉じてしまいそうだった。
シャノワはもう一冊を開いた。
カティッシュ語で書かれた記録を頁の上から順に読んでいく。
最初の数頁は、どちらも旅の記録だった。
二冊には、同じ町の名、同じ日付、同じ街道が記されていた。
レオンの帳面には、山道で幻を見る魔物と遭遇したことが書かれている。
シャノワの祖父の帳面にも、同じ日の記録があった。
「シャノワさん、こちらにもその魔物のことがあります」
「日付はどうですか?」
「同じです」
次の頁では、川を渡る橋が壊れていた。
レオナは父の帳面をめくる。次は、獣人の村でのことが記されている。
『発音が難しい。通訳に笑われた。
ネロは魚が好きらしいが、焼いて食べるより生の方が好きみたいだ。
長く自然の中で暮らしていたからなんだろうな。
俺も一緒に食べたがその日は腹を下した。まだまだ修業が足りないってことだな』
「父さん……ネロというのは誰なんでしょう」
「私の祖父の名前です」
シャノワは祖父の記録を読み、口元を押さえた。
「何て書いてあるんですか」
「レオンさんは、同じ間違いを何度もした、と」
レオナが父の字へ顔を戻す。
「おじいさん、笑っていたんですね」
「たぶん」
二冊の帳面を石台へ並べた。
同じ出来事が、違う側から残されている。
レオンは、通訳として同行した若い獣人が知らない人間の前では口数を減らすと書いていた。
祖父は、レオンが獣人の料理を何でも食べようとし、苦い木の実まで飲み込んだと書いていた。
正しい記録ばかりではない。
同じ夜の焚き火を、片方は寒かったと書き、もう片方は暑かったと書いている。
二人で同じ道を歩いていたことだけは、どちらから読んでも変わらなかった。
白い耳の長老が、石室の入口に立った。
シャノワが顔を上げる。
「タネミ、セケヤエ サツソ レオン チンフ セクソ クッシンボテイ」
長老は石台の二冊を見た。
「チクツヨミ、アサヂカ セヒゼ シロフ レオン フセクソ クッシ。イコッソ ウシ アマフミ、カヒグ ルスカ キメクシ シヅハ ヒイリビッシ」
「祖父は通訳としてレオンさんについて行き、仲間として街に帰って来たそうです」
シャノワの尾が、石の床へ触れた。
口は閉じたままだった。
帳面の頁をめくる指だけが動く。
* * *
二冊の最後は、同じ場所で終わっていた。
この谷である。
レオンの帳面には、祭壇の形と魔物の特徴が描かれていた。背中の膜を使い、見る者ごとに異なる人の姿を見せ、声まで真似ること。額の魔石へ傷をつけ、弱った魔物を祭壇の奥へ追い戻したこと。
絵の横には、短い文章が残っていた。
レオナが声に出して読む。
「この地の封印は完了した。だが、これは本命ではない。各地で同じ兆候を確認している」
次の行で、声が止まる。レオナの指が文字の下へ移った。
「私は北へ向かう」
祭壇で読めたものと、同じ方角だった。
シャノワも祖父の帳面の最後を開いている。
「こちらには」
最初の一行を読み、息を整える。
「私は、ここでレオンと別れる。街へ戻り、この記録を残す」
指が次の行へ下りる。
「レオンは北へ向かった」
二冊の帳面の上に、同じ言葉が置かれた。
レオナは石室の外へ顔を向けた。
祭壇は壁の向こうにある。
「祭壇に書かれていたのも、北でした」
長老は石室を出て、古代文字を見た。
シャノワがその言葉を訳す。
「なら、この文字は道を示していたのかもしれない、と」
「でも、ほかは読めません」
レオナも、父の帳面を閉じなかった。
「父が北で何を見つけたかは、書いてありません」
「祖父が、なぜ一人で戻ることを選んだのかも」
「二冊ともここにあるのも謎です」
シャノワは自分の帳面を見ていた。
「記録を残すため、としかありません。そのあと、どうして誰にも話さなかったのかも分かりません」
逃げて帰ったのではない。それは分かった。
だが、何を見て、どんな顔でレオンと別れたのかは残っていない。
シャノワの祖父が街へ戻ったあと、なぜ二冊の帳面がこの石室へ置かれたのかも分からない。
レオナの方も同じだった。
父が何かを追っていたことは分かった。
何年も帰らなかった理由は、まだ書かれていない。
レオナは最後の行へ指を置いた。
「北へ行けば分かるでしょうか」
答えた者はいなかった。
紙に残っているのは、進んだ方角だけである。
* * *
街を出る朝、山には薄い霧が残っていた。
護衛依頼は完了している。
吾輩は門の脇に置かれた荷箱の上で、レオナの支度を見ていた。
鞄の底には布が一枚増えている。
干し魚は二匹。
旅へ出る準備として、最低限はできている。
シャノワが通りの奥から歩いてきた。
黒い弓を背負い、腰には魚の袋と、祖父の帳面を入れた革袋を下げている。
見送りにしては荷物が多い。
レオナも気づいた。
「シャノワさん」
「祖父が街へ戻った理由は分かりました。記録を残すため、私も行きます」
シャノワは腰の革袋へ手を置く。
「でも、なぜ祖父だけが戻ったのか。レオンさんと別れるとき、何があったのか。どうして、そのあと何も話さなかったのかは分かりません」
黒い尾が、足元で一度動いた。
「答えは北にあると思います」
レオナはすぐに返事をしなかった。
シャノワの背の弓を見る。腰の帳面を見る。
それから顔を上げた。
「私も、父が何と戦っていたのか知りたいです」
「では、同じ方向ですね」
「はい」
レオナは頷いた。
「まず依頼を報告して、それから北へ行きます」
「分かりました」
二人は門の外へ向かった。
吾輩は荷箱から下り、開いている鞄へ飛び込んだ。
「猫さんも、来ますか」
愚かな質問である。
吾輩はもう鞄に入っている。
レオナの鞄には魚がある。
シャノワの腰からも、魚の匂いがする。
同行する理由としては、十分である。




