第4章〜我らの「正義」の行く先は……〜②
ニューヨークの国連総会の議場では、東ヨーロッパの小国・モルタヴィアのイオネスク大統領が登壇しようとしていた。
37歳という、あまり例の無い若さで総会の議長に選出されたブルガリアのギネー外相が若々しい声で小国の大統領の名を告げると、初老の男性は、ゆったりとした足取りで演壇の階段を登って行く。
彼は、前の月に67歳になったばかりだが、ゆっくりとした動きで階段を一段一段、踏みしめて歩むその姿は、まるで80歳を越えた老人のようだった。
議場に集まった人々は、そこに連日、首都の大統領府を攻撃され、夜も眠れない日々が彼を老け込ませているのだろう、と老齢の政治家の悲哀を読み取る。
ようやく、登壇した大統領は、メガネを取り出して用意した原稿を読み始めた。
この小国の内情を知っている者や、これまで、彼がスピーチを行う姿を目にしていた者にとって驚くべきことに、イオネスク大統領は、英語で演説を開始した。老年に差し掛かった大統領の英語力は、同国の外務大臣に比べるとなまりが強く、紛争の相手であるトランス・ドニストール人民共和国の政府首脳よりも、明らかに劣っている。
また、国連総会では、同時通訳の完璧な態勢が整えられている。
演説を行う大統領の母国語であるモルタヴィア語は、隣国のルーマニア語に近く、2020年代の半ばから、公式文書における言語の表記をモルタヴィア語からルーマニア語に変更されているので、その母国語で演説したとしても、議場に集まる各国の代表団がつけているヘッドフォンをとおして、国際連合の公用語である、英語、フランス語、スペイン語、中国語、ロシア語、アラビア語への各国語に同時通訳が可能だ。
それでも、なお、大統領は、一言一言を噛みしめるように、英語で原稿を読み上げる。
準備された演説原稿は、当然、英語で書かれている。それをルーマニア語に翻訳することは、少し骨の折れる作業ではあるものの大統領をサポートするオレたちの手に掛かれば不可能なことでもない。
だが、それでもなお、この国連の会議場では、英語によるスピーチが選択された。
老齢の大統領の一言一句は、英語を母国語とする国の外交官はもちろん、国連総会の議場に詰めかけていたアメリカ人の記者たち、そして、夜のニュースでこの演説のシーンを目にするであろう世界各国、とりわけアメリカ合衆国の視聴者の心に染み透るように計算されていた。
「私たちが目指しているのは、『民族抹消』ではなく、『民族共存』の国家です。ルーマニア系のモルタヴィア人、スラブ系のトランス・ドニストール人、その他のルーツを持つ人たちが混じり合い、正義と平等の名のもとに協力する国家です」
「それをトランス・ドニストール陣営の人々は、野蛮な攻撃によって破壊しようとしています。彼らは、トランス・ドニストール人以外には、基本的人権も自由も認められない国をつくりあげようとしているのです!」
演説が最高潮に達したとき、演説原稿執筆者が工夫を凝らした表現が、議場の人々の心に色鮮やかなイメージを浮かび上がらせる。
「私たちの国をひとつの民族の色に染め上げようとする企みを許してはなりません。モルタヴィア共和国は、あたかもマーク・ロスコのキャンパス画のように、複数の民族の色が入り混じった美しさを持つ国なのです」
ロシア系ユダヤ人として東欧に生まれ、移民としてたどり着いたニューヨークで抽象表現主義の代表的存在として名を馳せた画家の作品を引用した演説に、国連総会の議場は万雷の拍手で老齢の大統領の言葉に応えた。
この日のイオニスク大統領の演説は、アメリカやイギリスをはじめ、多くの英語メディアに引用されて報道された。
ネットメディアなどを中心に、彼の祖先が、ナチス政権と関係が深かったという疑惑をかけられた老齢に差し掛かった大統領が、「多様性」を語るという意外性には、大きなニュース価値があったのだろう。
そして、テレビ局や動画メディアにとって、英語で演説が行われたということは、大統領の生の声を視聴者に届けるという意味で多大な効果があった。
一分をあらそうニュース番組やネット動画の制作・編集の現場では、翻訳の声をかぶせたり、字幕スーパーを準備する作業が軽減されることは歓迎されるようだ。
つたない英語力でも……いや、少し心もとない英語によるスピーチだからこそ、一語一語を丁寧に、そして、一生懸命に語るイオニスク大統領の姿は、英語圏の人々の心を打った。
この演説原稿の大部分は、鳳花さんが、ニューヨークのホテルにこもって一晩で練り上げたと言う。これまでは、イオニスク大統領にしても、ラドレスク大臣にしても、その演説の原稿や他国宛ての手紙を書くときは、草稿を各段階から鳳花さんは彼らと綿密な打ち合わせを繰り返し行い、内容のブラッシュアップを行う。
ただ、今回は違った。
「モルタヴィア政府との関係を経て、彼らの訴えたいことは細かなやり取りをしなくてもわかるようになっていたし……ポイントは、どうすれば、英語圏の人たち―――とりわけ、アメリカ人の心に訴えることができるか、ということね。最後に付け加えたマーク・ロスコのキャンパス画のトピックも大統領ご自身に気に入ってもらえたし、スピーチとしても効果が大きかったわ。お手柄ね、黒田くん。今回の業務報告をしっかりとまとめてちょうだい」
演説原稿について語る鳳花さんの表情は、大きな仕事を成し遂げた達成感に満ちていた。




