第3章〜彼らの「正義」と我らの「正義」〜㉓
ロンドン会議におけるPR戦は、控えめに言っても、オレたちモルタヴィア共和国側の圧勝だったと言って良いと思う。
ただ―――。
具体的な交渉内容の細部については、必ずしも、モルタヴィア政府が満足できるものではなかった。
会議三日目の昼頃、午前中の本会議場での討議が終わり、モルタヴィア代表団とオレたちが、各国の代表団と同様に控室に戻って、会期中で最後となる作戦会議を行おうと準備をはじめようとすると、突然、国連事務総長がモルタヴィアの控室に入ってきた。
唐突に来訪してきた事務総長は、手を後ろに組んで、真っ直ぐにイオニスク大統領の目を見据えている。小国とは言え、一国の大統領と国連の事務総長が、これだけ間近で対峙することは、そうないだろう。
緊迫感に包まれたこの時間は、オレ自身の人生の中でも、もっとも緊張感が高まった瞬間でもあった。
これまでの数カ月での関係から、イオニスク大統領は、常識的な判断が出来る国家元首である、と感じていた。ただ、突然、約250万人とされるモルタヴィア国民の命運がかかった究極の選択をする立場に追い立てられ、文字どおり、窮地に立たされる状況に陥っている。
内戦を継続する道を選ぶか?
会議での和平案を受け入れるか?
どちらの道を選んでも、苦渋の決断となるに違いない。250万人の国民の命運を背負っている大統領に、心から同情する自分に気づいた。
事務総長は、この紛争を戦う、モルタヴィア、トランス・ドニストールの双方に責任を負わせるという収集案を持って来ていて、その条件をイオニスク大統領にのむように求めたのだ。
事務総長が提示した条件には、
・力ずくで奪った土地の取得は絶対に認めない。
・Ethnic Erasure(民族抹消)を激しく非難し、追い出された難民の帰還を認める。
・トランス・ドニストール勢力が使っている大砲などの重火器を、国連の監視下に置く。
という相手陣営に厳しい内容も含まれている。
しかし、その他の条文のほとんどは、双方の勢力を両成敗のようにあつかい、一方的に攻撃を加えられているモルタヴィア人が被害者であるという立場には立っていなかった。
事務総長が提示した条件の最大の問題は、合意に違反した勢力を処罰したり、力ずくで停戦を遵守させたりする「強制メカニズム(軍事力)」が伴っていない点にある。
その基本的な認識において、ここで示された条件は、イオニスク大統領やラドレスク大臣、そして、モルタヴィア国民が、とうてい受け入れられるものではなかった。
「大統領、これは、われわれ国際社会から、あなた方モルタヴィア共和国へのお願いです。これが、モルタヴィア情勢を和平へと導く最後の機会です。大統領、あなたの答えはどうなんですか?」
事務総長は、イオニスク大統領にこの場での即答を迫り、大統領は、しばらくの間、言葉を発することが出来なかった。
沈黙を続ける控室では、女性のすすり泣く声が響く。大統領の娘で首席補佐官のアリーナさんが、緊張に耐えきれず、涙をこらえることが出来なかったのだ。
実の娘の泣き声を耳にしても、イオニスク大統領は、口を開くことができない。
沈黙の時間は、たっぷり数分以上に及んだように思う。
国連事務総長が目の前にいることから、オレたち、AGS社の人間も目立ったアドバイスをすることができず、大統領は、突きつけられた条件について、どのように決断を下せばよいのか、本当に判断ができなかったのかも知れない。
PR戦略に関しては、オレたちチーム・ヴェスパを中心としたAGS社の全面的なバックアップがあったモルタヴィア政府の人々も、世界各国のリーダーたちが、直接対決する国際政治の舞台では、経験不足の面が否めなかった。
長い長い沈黙のあと、ようやく、イオニスク大統領が口を開く。
「あなたが提示するこの提案で、モルタヴィアに平和が訪れる保証など、どこにも無い。いったい、どう答えれば良いのか、本当にわからない」
つぶやくようにそう言ったあと、年老いた大統領は、
「だが、いまはあなたの提案をのむ以外、選択肢はないようだ」
と、事務総長の提案を受け入れることを表明した。
その瞬間、手を後ろに組んだままで、険しい表情だった事務総長の表情は、パッと明るくなり、彼は社交辞令の言葉すら発することもなく、部屋を駆け出して行った。そして、ただちに、本会議場での全体会議の再開を宣言すると、イオニスク大統領に決断を迫った声明を会議として採択させ、ロンドン会議の終了を宣言した。
午後の会合の予定は、すべてキャンセルされ、予定より半日早く、この国際会議はあたふたとした雰囲気で幕を閉じる。そのようすには、ようやく取り付けた合意が、紛争当事者たちの心変わりで反故にされることを恐れているかのような空気が感じられた。
アフリカ大陸出身の国連事務総長の心の内には、モルタヴィアだけが世界の悲劇の中心になっている事態への反感が少なからずあったのかも知れないし、他の欧米各国にしても、石油や天然資源に恵まれている訳ではないヨーロッパの辺境モルタヴィアに軍事力を展開して、若い兵士の命を危険にさらすだけの国益を見込めない、という思惑が透けて見える。
だが――――――。
このロンドン会議は、そもそも、トランス・ドニストール陣営のパニチェフ首相が仕掛けたものだった。オレたちチーム・ヴェスパとモルタヴィア共和国にとって、今度は自分たちが国際会議の場で、自国の置かれた立場を訴え、欧米各国の首脳たちにモルタヴィア共和国の「正義」を認めざるを得ない場面を作る番だ。
そして、その機会は、ひと月と間をおかずにやってくることになる。




