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第3章〜彼らの「正義」と我らの「正義」〜⑱

 自身より地位や役職が上になるとは言え、ミロシェンコ大統領と別の思惑を抱いているのではないか、と考えられるトランス・ドニストール陣営のパニチェフ首相もまた、彼自身がアメリカ国籍を持っているということもあって、アメリカの代表団に期待する想いもあるだろう。


 イギリスやドイツとは異なり、イーグルベーガー副長官とミロシェンコ大統領の個人的なつながりや、アメリカ市民として、合衆国に(主に納税的な意味で)貢献してきたパニチェフの存在を考えると、アメリカ代表団が、トランス・ドニストール陣営を擁護することは無くとも、内戦当事者の双方にバランスを取る発言をすることも十分に考えられる。


 トラ・ドニ陣営からすれば、そんな淡い期待を抱かせる空気もあったかも知れないが―――。


 他国の首脳とは異なり、沈黙を続けるイーグルベーガー副長官が動いたのは、会議初日の終盤も押し迫った夕方の頃だった。


「準備が整ったみたいね。私たちも急ぐわよ」


 イーグルベーガー副長官が席を立つのを合図に、鳳花さんがオレに耳打ちする。


 黙ってうなずいたオレは、チーム・リーダーとともに席を立ち、カンファレンス・センターのメインホールから、アメリカ代表団の宿舎であるチャーチル・ホテルのスイートルームに向けて静かに移動を開始した。


 すでにホテルのロビーで待機していたモルタヴィアのイオニスク大統領やラドレスク外務大臣と合流し、オレたちは、最上階のスイートルームに向かう。


 ノックをして通された大きな部屋に入ると、イーグルベーガー副長官は、あわてたようすで息を切らしながら、隣の部屋から移動してきた。


 合衆国の代表は、どうやら、まだ着替えの途中でネクタイも絞めていなかった。カンファレンス・センターでの会議出席と、これから始まる非公式会談では、異なる服装で挑みたいというこだわりがあるようだった。


「服を半分しか着ていなくて申し訳ない」


 イーグルベーガー副長官が申し訳なさそうに言いながら、細身のネクタイを絞めなおすのをみながら、モルタヴィア共和国の外務大臣ラドレスクは、「ハリー」と相手のファースト・ネームを呼びかけながら、すかさずジョークを飛ばす。


「構わないよ。まだ、半分しか服を脱いでないってことでも、我々は待たせてもらうさ」


 副長官が、いましがた出てきたドアが開け放たれたままのベッドルームの方にチラリと視線を送りながら笑いを取るラドレスク大臣。


 イーグルベーガー副長官は、思わず口に加えていた葉巻を吹き出した。


 ベッドルームでの情事を匂わせるような、「性的で際どい」冗談(アメリカでは、レイシィ・ジョークと言う)は、21世紀の先進国において公式な場に相応しくない内容だし、依頼の受け手とは言え女性(もちろん、鳳花さんのことだ)も同席しているシチュエーションでは、避けるべき内容であることは間違いないが……。


 セクハラまがいの言動に閉口させられることの多いラドレスクのセンスが、この時ばかりは、副長官の心を掴んだようだ。

 

「それじゃ、相手がベッドの上で身体を冷やす前に始めよう」


 モルタヴィアの外務大臣のジョークを切り替えしたイーグルベーガー副長官の言葉で、両国の首脳は、お互いの立場について、真剣な意見交換をはじめることになった。


 日本のニュースでも、首脳会談などの模様を報じるとき、


「ふたりの首脳は、お互いにファーストネームで呼び合う関係になった」


などと報じられることが多いが、大切なのは、相手をファーストネームで呼ぶことではない。本当に重要なのは、その先のジョークを交えた丁々発止のコミュニケーションが成立する関係を構築することができるかどうかだ。


 はたして、歴代の総理大臣にこうしたセンスを持った人物が何人いただろうか……と考えると、自分たちの依頼主の変貌ぶりに驚かされる。


 つい、この前まで政治の経験ゼロの大学教授にすぎなかったシュテファン・ラドレスクという人物は、国家の危機という瀬戸際において、オレたちチーム・ヴェスパのプロデュースで見事に外交のプロとしての手腕を発揮し始めた。


 彼の英語表現のセンスは、ホテルでの会合が終わったあと、カンファレンス・センターのメインホールで行われた初日の最後の演説でも発揮された。


「もし、このロンドン会議が、はっきりとした形で、トランス・ドニストール陣営の兵士たちに、今すぐ、モルタヴィアから出ていけ! というメッセージを出すことが出来なければ―――それは、『殺しのライセンス(License to Kill)』を彼らに与えるのと同じことになるのです」


 ラドレスクは、演説をそう締めくくった。

 説明するまでもないかも知れないが、『殺しのライセンス(License to Kill)』とは、スパイ映画の『007』に登場する設定だ。


 ジェームズ・ボンドが本拠地とするロンドンで、こうしたセンスに富んだスピーチを行える人物は、ロンドン会議の全参加者を通じても、ほとんどいなかった。


 モルタヴィア共和国は、会場の外での秘密会談で秘密裏にアメリカ合衆国との協力体制を構築することに成功した。


 そして、この会談は、トランス・ドニストール陣営のミロシェンコ大統領も、パニチェフ首相にも、まったく気づかれない間に行われた、ということも付け加えさせてもらおう。


 こうして、モルタヴィア共和国は、翌日以降のために十分な布石を打って、ロンドン会議の初日を終えることにができた。

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