第3章〜彼らの「正義」と我らの「正義」〜⑧
アリーナさんの説明によれば、モルタヴィア共和国側が提示する和平案は、以下の3つとのことだ。
・住民の移動の自由と難民の帰還
今回の紛争で発生している『|Ethnic Erasure(民族抹消)』や強制的立ち退きを中止して、すべての難民が元の家に帰る権利を保障すること。
・多民族共生の原則
特定の民族が優位に立つのではなく、モルタヴィア(ルーマニア系)人、トランス・ドニストール(スラブ系)人が対等に参政権を持つ民主主義国家の存続。
・民族分断の拒否と中央政府の権限確保
領土を民族ごとに完全に切り分ける連邦化などではなく、中央政府に外交・軍事・財政の権限を集約した国家体制の存続。
依頼者のプロモーション活動を担っているPR会社とは言え、一国の外交方針にまで口を挟むようなことはできない。
ただ、モルタヴィア側の要求は、戦時下の民間人への非人道的行為の即時中止と領土などの現状維持という、おおむね妥当なもののように感じられた。
一方で、トランス・ドニストール陣営は、以下の3条件を要求することが事前通達されているそうだ。
・トランス・ドニストール共和国の国家承認
交渉時の領土をそのまま維持し、トランス・ドニストール共和国が、国際社会から単一の主権国家として承認されること。
・民族比率・支配地域に基づく領土の分割
明確な民族境界線を引き、トランス・ドニストール人独自の領土を確定させること。交渉直前の時点で、トラ・ドニ側はモルタヴィア全土の約44%の領土支配権を主張している。
・モルタヴィア領土内のトランス・ドニストール人と本土の強固な連帯
モルタヴィア領内のトランス・ドニストール人勢力が、隣国の共和国と独自の政治・経済・軍事的協定を結ぶ権利、あるいは将来的な「大トランス・ドニストール」共栄圏設立への準備。
これらの3条件は、どれひとつを取っても、モルタヴィア側が受け入れることが出来ないものばかりだ。
とくに、2つ目と3つ目の条件は、将来的に軍事力で優位に立つトランス・ドニストール陣営が、モルタヴィア共和国を飲み込むための布石を打つような提案だ。
ヘルシンキでの合衆国大統領の演説の効果もあって、国際世論は、いまだにモルタヴィア共和国に対して同情的ではあるが、軍事的な援助がほとんどない現状では、オレたちの依頼者の小規模国家は、すぐに窮地に陥ってしまうだろう。
トランス・ドニストール陣営は、そのことを考慮して、強気な要求を突きつけてきているが……。
首相就任当初から、「和平への道」という言葉を強調してきたパニチェフの考えをどこまで盛り込むことが出来るかが、今回の和平交渉のキモになると見られていた。
唐突な首相就任や、メディアを使った派手な立ち回りには、不快感を示す各国要人もいるようだが(言うまでもなく、合衆国の大統領やホープ上院議員などだ)……。
強硬な姿勢で軍事的圧力を掛け続けて来ているトランス・ドニストール陣営の中で、パニチェフ首相は、和平合意についての話ができる、貴重な存在のように感じられた。たった数週間前まで、政治の世界とは無縁だったはずの起業家の選択に、モルタヴィア共和国の将来が左右されると言っても過言ではない状況だ。
そんな重要人物は、メディアを引き連れて、モルタヴィアの首都キシナヴィア国際空港に降り立つという。
「実は、キシナヴィア空港に爆破予告があったんです……その影響で滑走路が封鎖されてしまって……お二人には、ご迷惑をお掛けして、申し訳ありませんでした」
心苦しそうに語る大統領首席補佐官のアリーナさんに対して、オレは、彼女の気遣いに感謝しながら笑顔で答える。
「和平交渉が行われますからね。交渉に反対する勢力も多いでしょうし、モルタヴィア政府が責任を問われるようなことではないと思いますよ」
「ありがとう、クロダさん。そう言ってもらえると、私もモルタヴィアも心が楽になります」
アリーナさんは、オレと鳳花さんの母国が日本であることを知って、「さん」付けで呼んでくれた。
なにかと気をつかわないといけない外務大臣と異なり、彼女とは、仕事をスムーズに進められる気がするが……オレたちは、PR会社の社員だ。仕事のしやすさで、依頼人を選んではいけない。
そんな訳で、依頼者であるモルタヴィア政府の要請で、オレと鳳花さんは、パニチェフ首相を出迎えるため、キシナヴィア国際空港に同行することになった。
すでに、モルタヴィア共和国の首都キシナヴィア近郊を制圧しつつあるトランス・ドニストール陣営は、キシナヴィア空港の周辺にも勢力を伸ばしてきている。
こうした、空港周辺が一触即発の状態にあっても、トラ・ドニ側の首脳が飛行機のタラップを降りて、モルタヴィア側が出迎えるという演出が行われる理由は、パニチェフが、アメリカのテレビ局の有名キャスターやプロデューサーを引き連れているからに他ならない。
すでに泥沼化しつつあるモルタヴィア情勢に、和平の道すじをつけることができれば、トランス・ドニストール共和国が、新体制に移ったことを大いにアピールできるし、同行したテレビ局UBCにとっても、世紀のスクープになる。
国家首脳とメディアの共闘関係から行われることになった、このセレモニー的な要素の強いイベントを前にして、鳳花さんは、モルタヴィア政府の要人警護班に冷静に告げる。
「私たちの業務の中には、貴国政府の安全確保も含まれています。差し出がましいようですが、空港に向かう前に、いまからお伝えするものを手配していただけないでしょうか?」
このチーム・リーダーの申し出が、その後の悲劇的な展開を予見したものであることを、オレはまだ予測できていなかった。




