19話 とうとう事件が起きちゃった! 血染めの花嫁
廊下の空気はしんと冷えていた。私と抹吏くんは、見つめ合ったまま動けない。
ブーンという空調の音まで聞こえてきた。
指先がペットカメラに触れて、はっと我に返った。
慌ててペットカメラを拾い上げて背中に隠す。幸い、抹吏くんは気付いていないみたい。
何食わぬ顔で裾を払って立ち上がる。
「ま、抹吏くん……、随分早いのね」
笑いかけるけど、唇の端がピクピクしている。
「朝のトレーニングをしようと思って……。モナカ先輩こそ早いですね」
彼の笑顔も眉が下がっていた。
「ちょっと目が覚めちゃったの……」
視線があっちこっちに彷徨う。
今、トレーニングに行かれたら映画の通りに人が死ぬかも……。
震える手が髪に伸びる。果乃子ちゃんにサラサラにしてもらった髪も、一晩寝たら引っかかった。
髪……、そうだ!
「空気も綺麗そうだし、朝の散歩でもしようかな。……抹吏くんも付き合ってくれない?」
抹吏くんは軽く目を逸らした。心臓がキュッと締め付けられる。でも彼は小さく呟いた。
「そ、それは……嬉しいです」
少し顔が赤くなっていた。
安堵のため息が漏れる。
「ありがとう。先にシャワーだけ浴びてくるからちょっと待ってて!」
返事も聞かずに、部屋に飛び込む。
後はダラダラ準備して時間を稼ぐだけ。長い髪が役に立つわ!
* * *
ダラダラする必要はなかったわね……。
シャワーを浴びて、髪を乾かしている途中で時間になってしまった。寝癖は直ったけど、髪はまだ半乾き。なんとか最低限のメイクだけして、浴衣と羽織で抹吏くんの前に出る。
「ごめんなさい。随分待たせちゃったわね」
「い、いえ。それでは行きましょう」
抹吏くんの額には軽く汗が浮かんでいた。この場でトレーニングでもしてたのかな。
螺旋階段の上の吹き抜け、採光窓はまだ暗い。
常備灯が照らすだけの、薄暗い螺旋階段をゆっくりと降りていく。
ただいま五時三四分。話しながら歩けば、ちょうど間に合う。
歩きながら、半乾きの髪を摘む。
「こんなに待たせちゃうなんて思わなかった。やっぱり髪切ろうかな」
「それはダメです。俺は全然待ってませんから」
「分かった。果乃子ちゃんにもダメって言われたし……」
抹吏くんはほっと息を吐いた。
「それより昨日はありがとうございました。おかげでよく寝られました」
「アロマのこと? でも、もうベッドの上だったじゃない。龍青、暇そうにしていたわよ」
「夜ふかしは苦手で……」
話しながら歩いているうちに、四階になった。螺旋階段の内側、昨夜まではシャンデリアがあった空間には、ワイヤーしかなかった。
「あら、シャンデリアは?」
少し棒読みだったかも。
でも抹吏くんは気にしなかったみたい。手すりから一階を覗き込む。
「降ろしているみたいですね。ほら」
彼の隣で下を見る。上からだと、シャンデリアは巨大な花だ。近くにいる脚立に乗った白髪の人はミツバチといったところかな。
二階まで歩いていくと、白髪の人が古怒田支配人だと分かった。彼は額に汗を流しながらも、充実した面持ちでシャンデリアを磨いている。
彼は額の汗を拭って、シャンデリアの中心に移動する。
脚立もいらない高さ。つま先立ちで磨き始める。
その時、高い金属音が耳を貫いた。
「ねえ、何か変な音がしない?」
隣の抹吏くんに言って、上を差す。天井が振動しているように見えた。
え、もう!?
私の内心を慮ることなく、シャンデリアがガタンと沈み込む。
「危ない! 逃げてください!」
抹吏くんが声を張り上げる。けど古怒田支配人は硬直したまま動かない。
タイミングが遅かった。これじゃ、目の前で人が死ぬのを見るだけ……。
目を閉じようとする。その瞬間、抹吏くんが手すりを飛び越えた。
「抹吏くん!?」
逆に目を見開いた。手すりから身を乗り出して、彼の後ろ姿から目を離せない。
抹吏くんがエントランスロビーの床に着地した瞬間、天井からバチン、と弾ける音がした。
ゴォォという低い音がロビーに轟く。大きなシャンデリアが、ゆっくりと動き出す。
抹吏くんは構わずにシャンデリアへと飛び込んでいく。
やめて!
叫ぼうとしても声が出ない。
もはや手遅れにしか見えなかった。
全ての動きが、スローモーションで流れていく。
そして、
ガシャアッ!
落下の轟音がホテルそのものを揺るがした。
繊細な金属やガラスの華が弾けた。美しかったシャンデリアが歪み、ひしゃげ、醜く崩れる。破片が埃のように舞い上がり、何も見えなくなる。
「抹吏……くん?」
ガクッと膝を着いた。
私が余計なことをしたせいで?
自分の腕を抱く。冷たい。
雪山に放り出されたみたいに、震えが止まらない。
ポツポツと、浴衣の裾に丸い染みが生まれる。
「モナカちゃん!」
「モナカ!」
目の前が真っ暗になりかける。そんな私を、聞き慣れた声が呼び戻してくれた。
ぎこちなく顔を動かすと、螺旋階段の上から駆け寄ってくる二つの人影が見えた。
「果乃子ちゃん? 龍青も……」
二人は駆けつけ、寄り添うように屈んでくれた。
果乃子ちゃんの浴衣にしがみつく。
「どうしよう……。抹吏くんが……」
「モナカ、よく見ろ」
龍青が残骸の向こう側を指し示した。細い指先を、ゆっくりと目で追っていく。
「あ……!」
埃が収まりつつある階下、自重で崩れていくシャンデリアの向こう。人影が起き上がっているのを、滲んだ視界が確かに捉えた。
ヘナヘナと力が抜けたところを、果乃子ちゃんが支えてくれた。
「よかった……」
「間に合ったのか。さすがだな、抹吏!」
龍青の呼びかけに人影が片手を上げて応えた。もう片方の腕は、恰幅のいい人影を支えている。
「ほら、迎えに行こ!」
果乃子ちゃんが手を取ってくれる。けど、脚に力が入らない。
「モナカちゃん?」
「ごめんなさい。安心したら、腰が抜けちゃって……」
果乃子ちゃんはプッと吹き出した。
「も〜、仕方ないな〜、モナカちゃんは」
「……果乃子も人が来る前に服を整えておけ」
こちらを向かないまま、龍青が呟いた。
見れば、果乃子ちゃんの浴衣がずり下がって白い肩が出ている。もちろん、私が引っ張ったせいだ。
果乃子ちゃんも自分の姿を見下ろした。笑顔が凍りつく。
「ひっ……」
白い肩が真っ赤に染まった。風呂上がりの時みたい。
「イヤァァァッ!」
耳をつんざくような絶叫。さっきのシャンデリアより、ホテルも揺れたかも。
鼓膜が破れるかと思った。
でも、おかげで腰が抜けたの治った気がする。
果乃子ちゃんは慌てて浴衣を上げて、腕で必死に押さえている。ホントごめん……。
「果乃子、どうした!?」
階下からも抹吏くんが声を張り上げてきた。美術部員達が扉を開けて顔を出す。そして上の階からも、
「何があったんですか!?」
従業員達と一緒に新條眞人が降りてきた。
いかにも驚いている、とばかりに白々しく目を見開いていた。
* * *
閑静なエントランスロビーに太いワイヤーが垂れ下がっていた。その先はガラスと金属の残骸に繋がっている。
開け放たれた正面玄関からサイレン音がなだれ込んでくる。残骸の周囲は三角コーンとテープで立入禁止区域がつくられ、何人もの警察官や鑑識が調べている。
ホテルの誰もが、揺れる視線を注いでいた。
私は椅子に座りながら、用意してもらった毛布にくるまっていた。
「飲め。温まるぞ」
龍青が紅茶の入ったカップを渡してくれた。
「ありがとう」
本当に身体の中から温まるみたい。
ほっと息を吐き出す。
「私、見ていただけなのに」
「仕方ないよ……」
果乃子ちゃんはティーカップを持つ私の手を握ってくれている。
制服に着替えていた。さっきのことは……二度と触れないでおこう。
抹吏くんは第一発見者として、地元の警察に応対していた。
話をしているのは、四〇代くらいの角刈りの刑事だった。
「二階でシャンデリアの異音に気付いて? よく間に合ったな」
「あのままじゃ潰されると思って、必死で……」
「それは立派だ。だが、ご両親には連絡させてもらうぞ」
抹吏くんがバツの悪そうな顔になった。
「いいですけど……」
抹吏くんのスマホを受け取った刑事さんは、大きな声で話し始める。
「もしもし、渋川さんですか? 綿津署の泰というものです。今回、お宅のお子さんが……はい。また、とは? ……それは大変ですね。今回は落下するシャンデリアから人を救けて……。よろしくお願いします。ところでお職業は……。は? 警視総監? 冗談は……大変申し訳ありません! いえ、とても立派なことです! ……それでは失礼いたします!」
あ〜、懐かしい。原作マンガを思い出すわ。
スマホを返した泰刑事は、直立不動の姿勢で敬礼した。
「知らぬこととはいえ、大変失礼いたしました!」
抹吏くんは辟易したように苦笑いを浮かべた。
「いや、そういうのはいいですから……」
そして、刑事さんの顔を鋭い目つきで見返す。
「それより、どうして落下したか分かりますか?」
「いえ……。どうだ?」
鑑識に声をかける。小太りの鑑識は、白い手袋に覆われた手で太いワイヤーを軽く引いた。
「ブレーキが機能していなかったようです。故意か事故かは、昇降機を見てみないと……」
「おい、なんだこの騒ぎは!?」
大きな声がエントランスロビーに響いた。
のしのしと現れたのは新條豪。隣には秘書を引き連れている。
既に話を聞いていたのか、秘書の男が新條へと告げた。
「どうやらシャンデリアが落下したようで、警察が来ております」
「警察だと?」
新條は三角コーンを倒した。立入禁止区域にズカズカと足を踏み入れる。
「ダ、ダメです」
警察官の制止も無視。新條は泰刑事に向かって言い放った。
「お前が責任者か? こんなのは事故だ。さっさと引き揚げろ!」
泰刑事は一瞬、口を半開きにした。すぐに咳払いをして、落ち着いた口調で言い返す。
「事故では無い可能性があります。帰るわけにはいきません」
「なんだと? 誰か死んだのか?」
「幸い犠牲者は出ませんでしたが……」
「なら事故だ! 明日は大事な式がある、さっさとこのゴミを片付けなければならんのだ!」
新條はシャンデリアの残骸を足蹴にした。従業員達に鋭い視線を注がれても微動だにしない。
「お前は綿津署か? 俺は警視庁に知り合いもいる。お前のような平刑事なんぞクビにするのは容易いことだ!」
そんなことできるわけがない。しかも、よりによって――抹吏くんに目を向ける。
泰刑事は額に手を当てた。
「それではシャンデリアの管理室を見せてください。ブレーキに人為的な細工があれば、事件だと分かるはずです」
ようやく納得したみたい。新條は秘書の男を怒鳴りつける。
「いいだろう。古怒田を呼べ!」
「支配人は事情聴取の最中です」
「なら苅田! マスターキーを持って来い」
苅田と呼ばれた秘書の男がどこかにスマホで連絡している。
すぐにフロントから新條眞人が駆けつけてきた。その手には鍵束が握られている。
「あ」
思わず声が漏れた。果乃子ちゃんが首を傾げる。
「どうかした?」
「ううん。なんでもない」
証拠を隠滅されたかも。
「それでは行きましょう」
新條眞人が螺旋階段を先導する。当然のように抹吏くんも付いて行こうとしたけど、
「抹ちゃん、何かあった?」
果乃子ちゃんが指摘した。抹吏くんが無視して歩こうとしたところで、龍青が肩を掴む。
「おい、待て」
龍青はかなり力を入れたみたい。今度は私にも分かるくらい、顔をしかめた。
「もしかして、怪我した?」
「……大したことない」
龍青が抹吏くんの左足を蹴った。途端にうずくまる。
小さくため息を吐いた龍青は近くの警察官に尋ねる。
「もう部屋に戻ってもいいですよね」
警察官は泰刑事の方を見た。泰刑事が軽く頷くのを見て、首を縦に振る。
「は、はい」
「だ、そうだ。管理室は僕が見てくる」
有無を言わさず、龍青が螺旋階段へ向かって歩き出した。
悔しそうに奥歯を噛み締めている抹吏くんへ向けて、果乃子ちゃんが笑いかける。
「あたしは湿布をもらってくるね。モナカちゃんは抹ちゃんが逃げないように見張ってて」
「うん。というわけだから、抹吏くんはどこにも行っちゃダメだからね」
果乃子ちゃんを真似て両手の人差し指でバッテンをつくる。抹吏くんは力なく肩を落とした。
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