91話
宵闇の中、色素の薄いヴィクトールの髪がキラキラと輝く。
確かに今日は月が綺麗だ。
月下で咲く花のような男を前に、私は密かに眉根を寄せた。
「こんなところで何をしているの?」
「おや、冷たい。せっかく仲良くなれたと思ったのに、また少し心の距離が空いてしまったかな?」
くすくすと笑うヴィクトールに、悍ましさすら感じる。
不愉快さを押し殺し、私は「あの時は冷静じゃなかったもので」と答えた。
「なら、今は?」
「驚くほど冷静だわ。……少なくとも、先程お会いしたのが、貴方だと認識できているくらいには」
棘のある声で告げれば、ヴィクトールはわざとらしく口角を上げた。
やはりこの男、自身の行いを隠す気はなかったようだ。
ヴィクトールがこてん、と首を傾ける。長い髪が、月明かりの中で優しく揺れた。
「キミに会いたくて来たんだ。ねえ、そっちに行ってもいいかい?」
「……申し訳ないけれど、人攫いを部屋に入れる程、不用心ではないの」
「夜中に訪ねてきた男を追い返さない時点で、キミはもう少し用心した方が良いよ」
妖しく光る赤い瞳を細める。全くの正論すぎて、ぐうの音も出ない。
だが、こっちにも事情がある。
私は窓枠に寄りかかり、ほんの少しだけ身を乗り出した。
「聞きたいことがあるの。貴方に」
「それは、昼間のこと? それとも、さっきのこと?」
「…………全部よ」
思わず声に苛立ちが乗った。
わかってて訊いているな、と視線で詰れば、彼は嘲笑うように喉を鳴らす。クソが。
ヴィクトールは足を揺らし、器用に仰け反った。
今にも落ちそうな姿勢で、彼は「そうだなぁ」なんて呑気な声をあげる。
「教えても良いけど、それだと話があべこべになってしまうよね」
「あべこべ……?」
「何でもするから力を貸して、と言ったのはキミだろう? ……今度は、キミがボクの頼みを聞く番じゃないかい?」
ぐうっと言葉に詰まる。
確かに言った。言ったし、ヴィクトールの言い分は尤もだ。
申し訳ない気持ちが湧き、謝罪を一つ。お先にどうぞと手のひらを差し出す。
ヴィクトールは吹き出すように笑った。
「ははっ……キミは本当に真面目だね。もしこれでボクが、キミを攫いたいと言ったら、どうするんだい?」
「目的によるわ。事と次第によっては、協力するし……難しければ、代案を考えましょう」
ヴィクトールは意外そうに目を瞬き、それから珍しく————演技ではない調子で、眉を下げた。
どこか呆れたような、しかし、どこか親しみを感じる眼差しで、彼は私を見つめる。
「……目的、ね」
ポツリとヴィクトールは呟いた。次の瞬間、彼はいつものような薄笑いを浮かべる。
「エグモンドは、キミの珍しい刻印に興味があるんだよ」
「え……?」
思わず左腕に意識が向く。
その瞬間、ざあっと風が強く吹いた。眼前の男が木の幹を蹴り、魔術で起こした風に乗る。
長い足が数メートルの距離を飛び越え、私のすぐ横に着地する。
蹴り飛ばされてはたまらないと、思わず後退する私の前で、彼は華麗に室内へ忍び込んだ。
「…………人を呼ぶわよ」
「ふふ。キミは怒っている方が面白い」
一歩、二歩と彼との距離が詰まる。警戒する私の左腕をわし摑み、彼はぐいっと引いた。
本当に大声を上げてやろうか。
そう思い、じろりと睨み付けるが、ヴィクトールは気にした様子もない。
それどころか、じろじろと服の上から私の左腕を眺めた。
あまりに不躾なその態度に、猫を被るのも嫌になってくる。
「何が見えるの?」
「何も。キミが袖を捲ってくれれば、何か見えるかも」
捲るわけないでしょうが。この助平め。
腕を引き抜けば、意外にもするりと手は離れていった。
ヴィクトールが妖しく眼を細める。
「キミは、二種の属性魔術を使うだけでなく、混合魔術まで使った。……エグモンドは、そんなキミにご執心だ。新しい魔術が生み出せれば、クルークとシュタルクの差はまた一つ大きくなるからね」
「それで貴方に誘拐を命じたの? 酷い話ね。普通に協力を頼めばいいのに」
軽蔑したような声を出せば、彼は静かに肩を竦める。
……成る程。人道的な『協力』じゃ済まないことをしようとしているのね。
眉を顰めた私に、彼は「驚かないんだね」とわざとらしく笑った。
私は静かに鼻を鳴らすと、二歩三歩と彼から距離を取る。
ヴィクトールはくすりと小さく笑った。
「キミは最初からそうだった。ボクのことが嫌いで、ずっと警戒心を解かない。まるで懐かない猫だね」
「軟派で酷い噂のある貴方に、心を許す方がどうかしていると思わない?」
一歩下がれば、一歩彼は近付く。
しかし、二歩は歩み寄らないヴィクトールのもどかしさに、気持ち悪さは増すばかりだった。
「……何がしたいのよ、貴方」
私の問いに、ヴィクトールは静かに首を傾げる。
「ボクはね、自由になりたいんだよ」
わかるかい、と問い返すヴィクトール。
昔の私だったら、理解ができなかっただろう。
自由になりたいと言いながら、エグモンドの言いなりになる男。
逃げ出したいと願いながら、逃げ出す機会を自ら捨てる彼の矛盾に苛立ちを覚えた筈だ。
しかし、今はなんとなく解る。
アメリアのようになりたくないと思いながら、彼女と同じ力を求める私。
それはきっと、彼の二律背反によく似ている。
個人的な感情と目の当たりにした現実は、別の軸で動いているのだ。
どちらを選ぼうと、結局後悔は残る。
人は、いつだって選ばなかった方の未来を羨むのだ。
「ねえ、アメリア。ボクと一緒に、どこか遠くへ逃げてくれないかい?」
初めて、彼が私を『アメリア』と呼んだ。
ゲームの中ですら呼ばれたことのない名前に、私は思わず言葉を失う。
戸惑った私の姿に彼はくすりと小さく笑った。
「ボクは本気だよ。嘘じゃない」
もうウンザリなんだ、と告げる声は、どこまでも穏やかだ。
甘くて優しくて、嘘くさいヴィクトールの声。
しかし、どうしてだか今日は、その声がやけに儚げに聞こえた。




