90話
見送るというルイスの申し出を断り、陽の傾きかけた帰路を進む。
女子寮と男子寮がそこまで離れていないとはいえ、倒れたばかりのルイスに送迎を頼むほど図々しくもない。
「……ディートハルトに謝らないとね」
一人分の足音を聞きながら、思わず独り言ちる。
ルイスの説得には失敗した。
あの話を聞いて尚、アンファングラントに行ってくれなんて、とてもじゃないが言えない。
とはいえ、彼の体のこともある。
……やはり、私が水の属性魔術を自在に扱えるようになる他ないか。
ふう、とため息を吐く。
ともあれ、今日は疲れた。予想外の出来事が立て続けに起こり、心身共にくたくただ。
帰ったらゆっくりとお湯に浸かりたい。
そんなことを考えていたら、ふと、自分以外の足音が聞こえた。
何の気なしに背後を確認する。
そこに立っていたのは————黒いローブを羽織った背の高い男だった。
顔の隠れた相手に、不気味さを感じる。唇を引き結び、気持ち歩く速度を上げた。
勘違いならいい。私が失礼な人間で終わる話だ。
しかし、何だか剣呑な気配を感じてしまった。
女子寮の仄明るい光が見えた時、私はようやく安堵の息が漏れる。
ここまで来れば安心だ。後は門を潜り、あの扉に手をかけるだけ。
そう気が抜けた瞬間だった。
魔力が流れたのを感じる。
振り返った私の目に映ったのは、やけに白い男の手だった。
いつの間にこんな距離までっ……!
「っ……!?」
咄嗟に声を上げようとしたが、風がそれを邪魔した。
こいつも刻印持ちかと気付いた時にはもう遅く、男の手が私を捕える。
しまった、と思う間も無く強い力で腕を引かれ、ここじゃない場所へ連れて行かれそうになる。
またか、とヴィッセンシュタットでのことを思い出し、再び魔力を練ろうとするが……
「な……でっ……?」
魔力が上手く練り上がらない。
無理に魔術を使おうとすると、指先がピリピリと痛んだ。
くすり、と目の前の男が笑った。
聞き覚えのある笑い方に、私が相手の顔を確かめようとした時だ。
「アメリアッ!」
聞き馴染んだ声が響き、ギルベルトがこちらに向かって走ってきた。
手が離れる前に、彼は私を掴む男に体当たりを喰らわせる。
勢いそのまま吹っ飛ぶ男。ギルベルトが彼を捕えようとしたが、男は魔術で風を起こした。
風の勢いに押され、よろめくギルベルト。
その間に体勢を整えた男は、意外にもあっさりと引いていく。
「ちょっ……待ちなさい!」
思わず発した声が、今度はちゃんと音になる。
しかし、男の逃げ足は早く、瞬く間に姿が見えなくなってしまった。
ああもうっ!
腰が抜けてなきゃ、すぐに追ったのにっ!
助けられたとわかった瞬間、安堵からか足の力が抜けてしまった。
地べたに座り込んだままの私が虚空を睨んでいると、すぐにギルベルトが肩を掴む。
「大丈夫か、アメリア! 怪我は!? 何か変なことされてないか!?」
「えっ……あ、ああ……。ええ、大丈夫よ」
少し腰が抜けただけ、と言った声は、平時のものと変わらない。
我ながら図太いものだ。
しかし、ギルベルトは違ったらしい。眉根を寄せ、案ずるような表情で私の顔を覗き込む。
私はできるだけ何でもないような調子で、彼に問う。
「それにしても、どうしてギルベルトが女子寮に?」
「さっき、アメリアが魔術を使って倒れたって話をディートハルトから聞いたんだ。一応最後の授業には出てたけど、ちゃんと帰ってるか確認しておこうと思って……」
「それは、心配かけたわね」
別に大丈夫よ、と口角を上げたが、ギルベルトはちっとも納得していないようだ。
ほんの数秒逡巡し、彼は「嫌でも暴れるなよ」と忠告すると、私の膝裏と背中に腕を回した。
「ちょ、ちょっ……ギルベルト?」
「すぐ下ろすから、ちょっと待ってろって」
私をお姫様のように抱えたギルベルトは、女子寮の入り口まで軽々と運ぶ。
器用に扉を開けると、玄関先で備え付けの椅子にそっと下ろしてくれた。
寮母が奥からパタパタと駆けてきて、どうしたのかと慌てる。
事情を説明すると、彼女は顔を真っ青にした。
「すぐに学園の警備に周囲を見てもらうわ。貴女は……部屋まで一人で戻れるかしら?」
「多分、ドーリスがいるので……」
大丈夫です、と答えようとする私の言葉を遮り、ギルベルトが言った。
「差し支えなければ、俺が上まで運びますよ」
「あらあら……それじゃあ、お願いしようかしら。本当は男子禁制なんだけど、緊急事態だしね」
うふふ、と意味深なウインクを飛ばす寮母。
……何か勘違いしていないだろうか。
私は再び抱き上げようとするギルベルトの胸板を、黙って押し返す。
怪訝そうな眼差しが、理由を問うているようだ。
「男子禁制の規則を、私の事情で破らせるわけにはいかないわ。ここまでで結構よ」
「ドーリスじゃ、肩は貸せても上まで運べないだろ。許可は出たんだし、変な気は使うなよ」
もっかい触るぞ、とわざわざ申告するギルベルト。
気を遣ってるのはどっちだ、と言いたい。
宝物を扱うような優しい手つきで私を運びながら、ギルベルトは硬い声で問う。
「嫌だったら無理に答える必要はないんだけどさ……さっきの、ただの暴漢じゃねぇよな」
確信を持った声。私も彼に同意見だ。
魔術を使ったあの男は、間違いなく刻印持ちだ。
ただでさえ珍しい刻印持ち——そんな人物が、何の理由もなく学生を襲うわけもない。
寮室のある二階まで昇ると、彼は部屋の位置を訊ねる。
諦めのついた私は、素直に自室の場所を口にした。
「心当たりはあるのか? 襲った相手とか、襲われた理由とか」
「……無いと言えば、無いけれど……」
無いとも言い切れない。
そんな煮え切らない私の言葉に、ギルベルトは若草色の目を見開いた。
「珍しいな。アメリアがそんなことを言うなんて」
「私だって、そんなのとは無縁の生活をしたかったわ」
はあ、とため息を吐き、 寮室の扉を叩く。
中からドアを開けたドーリスが、いる筈のないギルベルトに悲鳴をあげるはこのすぐ後だった。
ギルベルトが帰り、ドーリスが従者用の部屋に引っ込んだ頃。
外はすっかり暗くなり、間も無く消灯時間になる。部屋の灯りも落とさなければならない。
そんな時分に、ガラス窓がノックされる。
先も言ったが、ここは二階だ。普通に考えるのならば、窓がノックされるわけもない。
きっと庭に植えられた木々の枝葉が、風で窓を叩いたのだろう。
いつもなら、私もそう考えただろう。
しかし、何故だか今日はそんな気がしなかった。
カーテンの向こうで、再びコツコツと小さな音がする。
寝巻きの上からカーディガンを羽織り、アドルフのお守りを握り締めた。
カーテンを引き、窓を開ける。夜風がふわりと甘い香りを運んできた。
「こんばんは、お嬢さん。……今日は、月が綺麗だね」
眼前のシカモアの木に腰掛けたヴィクトールは、香水のような声でくすりと笑う。
幹に添えられた手のひらが、やけに白く見えた。




