92話
夜風に震えるようなヴィクトールの言葉。
その真意はどこにあるのだろう、と私は懐疑的な眼差しで彼を見やる。
「キミがボクと逃げてくれるなら、ボクもエグモンドの命令を無視できる。キミも魔術師たちの実験道具にならずに済むじゃないか」
「……その代わり、今あるものを全て捨てろって?」
私の問いに、彼はあっさり頷いた。
夜空を背負いながら、ヴィクトールは静かに笑む。
「ボクが嫌いなんだろう? それでもいいよ。ボクだってキミがそんなに好きじゃない」
「なら、どうして私なのよ。駆け落ちなら他の人でも……」
いいじゃない、という言葉は、彼の真っ赤な瞳に飲み込まれる。
こちらを見つめるザクロのような目が、月明かりの中で寂しく揺れた。
「それがわかるなら、ボクはここに来ていないよ」
ふっと白い瞼が降り、ヴィクトールは小さく肩を落とした。
しんとした夜の静けさが二人の間に落ちる。私はしょぼくれた様子の彼から目が離せなかった。
ねえアメリア、と再び甘い声が私を呼ぶ。
赤が、再び私を捉えた。
「どうして、エルネスタなんて守ったんだい?」
エルネスタは私に敵意を向けていた。
根も葉もない噂で人を呼び出し、見下すような態度で私を詰ったこともある。
ヴィクトールは、そんな女を命懸けで守るなんて馬鹿げていると言いたいのだろう。
「ルイスのことだってそうだ。キミが気にすることじゃない。シュタルクがクルークの国で生き辛いのも、彼の体質も、キミの責任じゃないだろ」
尤もだ。ヴィクトールの言うことは、全て頷ける。
私の行動はお節介で、独善的かもしれない。自覚もある。
相手の迷惑になっているかもしれない。逆に傷付けているかもしれない。
私が本当に十六歳の子供だったら、この言葉には納得しかしなかっただろう。
しかし、
「知った者の責任っていうのが、あるのよ」
大人だったからこその責任が、私にはある。
「危ない目に遭うかもしれない子がいたら、守らなきゃいけないでしょう。辛くて苦しい思いをしている子がいるのなら、手を差し伸べなければいけない。そんなの当たり前の話だわ」
これは優しさじゃない。
相手が成熟した大人なら、きっと私は自分で踏ん張れと突き放していただろう。
相手が子供だから。まだ学生だから。
私は、彼らを庇護しようと動いているのかもしれない。
……そう思ったけど、よく考えたら、ルイスって私より年上の可能性があったわ。
外見年齢に引っ張られていたかもしれない。
突然黙り込んだ私に、ヴィクトールは訝しげに眉を顰めた。
しかし、すぐに彼は笑う。
「偽善だね」
「ええ。ただの独善よ」
だからこそ、私の行いが迷惑だと突っぱねられても、文句は言えない。
それで嫌われても、仕方のない話だ。
自分の想像で、僅かに肩を落とす。
そんな私の一挙一動が物珍しいのか、ヴィクトールは月光で真っ白に染まった腕を伸ばす。
指先が、頬に触れそうになり——……
「ねえ。その『子』に、ボクは含まれる?」
触れる前に留まった。
部屋には勝手に入るくせに、あと一歩を踏み込まない。
この寄せては返す細波のような男が、私は本当に気に食わない。
向っ腹が立って、私はその手を弾くように叩き落とした。
「当たり前です! 貴方のことは嫌いだけれど、そんなの助けない理由にならないわ」
ポカン、と口を開けて固まるヴィクトール。
その顔がなんだか間抜けに見えて、私は余計だとわかっていながら言葉を付け足す。
「だからと言って、助けるのが当たり前だと胡座をかかれても困るわよ。私は善人でも、救世主でもないんだから。自分でできることは自分でやって、それでもどうにもならないのなら……『助けて』って言われたら、ちゃんと助けるわよ」
大人だもの、とは言えなかった。
代わりに、じっと真っ赤な瞳を見つめ返す。
迷子のような顔の彼は、ほんの少しだけ唇を震わせた。
次の瞬間、
「っ……ふふ、あははっ! キミは、本当にバカだなぁ!」
突然、ヴィクトールが子どものように笑い出した。
失礼ね、と睨みつければ、彼は「お互い様だろう」と目の端に涙まで滲ませる。
体をくの字に曲げて、けらけらと楽しそうなヴィクトール。
一頻り笑った彼は、余韻を感じさせる声で「ああ、面白かった」とどこか吹っ切れたように言った。
ヴィクトールの声から、いつもの甘ったるさが消える。
「ねえ、アメリア」
「何よ」
「シュタルクの秘密を教えてあげる」
は、と困惑の声が漏れる。
途端、ヴィクトールが空いていた距離を一気に詰めて、私の体をぎゅうと抱き締めた。
細くしなやかに映る彼の体は、それでも近付くとちゃんと男の体だった。
アメリアの華奢な体を包み込む腕は力強い。
だというのに、何故だろうか。————彼の抱擁は、子供が縋り付くような危うさがあった。
突然の接触に突き放す間も無く、ヴィクトールは秘め事を告げるように唇を耳元に寄せる。
「……シュタルクは、精霊と共に生きているんだ」
ぽそりと耳元で囁かれた声に、私はパッと顔をあげた。
至近距離で合った紅い瞳は、どこか楽しそうに見える。薄い唇がゆっくりと弧を描いた。
「キミも今日、彼女に会っただろう?」
「っ……やっぱりあの時に吹いた風は、精霊の仕業だったのね」
昼間、保健室のカーテンを翻した澄んだ風。
あれはヴィクトールが喚んだ精霊が起こしたものだったのだ。
しかし、私の言葉にヴィクトールは短く否定の意を唱える。
「アレを喚んだのはボクじゃない。キミの血だよ。ミーミルの加護を受けた、魔術師の血だ」
思わず、息を呑んだ。
何故、彼がそれを知っているのだろうか。
「言っただろう? シュタルクは精霊と共に生きている。精霊の声を聞くのに必要なのは魔術刻印と、それから……」
「……『膨大な魔力』、でしょ?」
ヴィクトールが驚いたように眉を上げた。どうやら的中したようだ。
ぱちくりと瞬く目に、私は脳裏にミルクティ色の髪をした淑女を思い浮かべる。
エルフリーデの話していた『大地の声』。
あれこそが、精霊の声だったのだろう。
私の言葉に、彼は「なぁんだ」とどこかガッカリしたように呟く。
「知ってたんだ。ボクとエルフリーデ嬢だけの秘密だと思っていたのに」
「……貴方たちの仲が良いのは意外だけど、お陰様でいろいろ合点がいったわ」
二人の情報網が異常に広いのは、常々疑問だった。
しかし、情報収集に特化した風の魔術を使えるヴィクトールと、精霊の声が聞こえるエルフリーデ。
この二人が繋がっていたのだとしたら、情報通にも頷けるというものだ。
じとりと睨みつければ、彼は「協力関係だったんだよ」とあっさり白状した。
「彼女なら、ボクを自由にしてくれるかもと思ったんだけどね」
「私の知るエルフリーデなら、貴方を利用しても自由にはしないわよ」
「あはは、まさしくその通り」
本当に残念だったよ、と笑うヴィクトール。
私の背に回っていた彼の手が、急に腰まで降りてきた。するりと撫でるように落ちたそれは、もう一度だけ私をきつく抱く。
それから自然と力が緩み、私と彼との間に隙間ができた。
彼の腕をそっと押し返すと、ヴィクトールは抵抗することなく半歩離れる。
「寒くないかい?」
「ええ。むしろ、今夜は暖かいくらいだわ」
ボクは少し寒い、と告げるヴィクトール。
それでも、彼の両腕はもう私から離れていた。
「ねえ、アメリア」
「なによ」
何度目になるかわからない呼びかけに、私も慣れたように返す。
ヴィクトールは一歩、二歩と後退し、窓枠に寄りかかった。
「ボクからのお願いだ。…………一緒に逃げてよ」
差し出された白い手。夜風が長いブロンドの髪を浚う。
幽玄なその姿を見た私の脳裏に過ぎるのは、彼のイベントスチル。
しかし、ゲームで見た時のような不快感を、今の彼からは感じない。
私は先ほどの問いを繰り返す。
「なんで私なの?」
「ボク以外の誰かのために奔走するキミを、これ以上見たくないから……って言ったら、納得するかい?」
くすりと笑う声に、私はゆるく頭を振った。
ヴィクトールの細い眉が、寂しそうにハの字を描く。
しかし、最初からわかっていたかのように、彼の唇は変わらず笑みを携えていた。
「だろうね」
「ごめんなさい、ヴィクトール。私、貴方とは行けないわ。……ルイスを救わなきゃ」
「……そんなに竜人種が大切かい?」
「仮に彼が人狼種だとしても、私は同じように接したわよ」
貴方と違ってね、と付け足すと、ヴィクトールはこれまでで一番大きく眼を見開いた。
ああ、やっぱりそうだ。
シュタルクの中でも最も貴重な竜人種。
それは『すべての生き物の始まりは竜である』という、シュタルクたちの考えに基づく思想だ。
ヴィクトールがこれまでルイスを気にかけていたのは、きっと彼の中にもこの思想があるからだ。
彼は観念したように苦笑する。
「やっぱり、いつまでもママの言うことを聞くもんじゃないな」
シュタルクの血を引く彼の母は、きっとヴィクトールに自分の知るシュタルクの秘密を教え込んだのだろう。
母親を愚かな女だと軽蔑しながら、その教えを軽んじることのできなかったヴィクトール。
傀儡となりながら、その情報を父親に売ることもしなかった。
ヴィクトールはひょいと軽やかに窓枠に乗ると、最後だと言わんばかりに私を振り返る。
「ボクからの頼みは、また今度でいいよ。今日は気分が良いから、このまま帰る」
じゃあね、アメリア。
ひらりと揺れる細長い指先。そのまま彼は、宵闇に融けていくように窓の向こうへ飛び降りた。
私の挨拶も聞かぬまま、彼は私の前から姿を消す。
いや、私の前からだけではない。————彼は、学園からも姿を消してしまった。




