88話
「は……え……?」
困惑する私の声が、人気のない保健室に響く。
ルイスが起きなかったのは不幸中の幸いだろう。それぐらい、大きな怒声だった。
「な、何よ……急に大きな声を出して……」
「何が魔術だっ! 何が属性だっ! そんなもの、命より大事なわけあるか!」
堰を切ったような怒声に、私はますます混乱する。
何を言っているんだ。ルイスの命を救うために、水の属性と浄化魔術がいるんじゃないか。
と、そこまで考えて、ようやく気が付いた。彼の言う『命』とは、ルイスのものではない。
私が気付いたことを彼も察したのだろう。眉間の皺をそのままに、声量を落とした声で低く唸る。
「ルイスの容体が落ち着いたと思ったら、今度はお前だ。……床で潰れてるお前を見た時の俺の気持ちが、お前にわかるか?」
「…………ごめんなさい」
私からしてみれば、属性違いの魔術を使うのは二回目で、一回目ほどひどい眠気は感じなかった。
それ故に大したことじゃないと判断したが、側からすればそうではないだろう。
指先に出血するほどの噛み跡。潰れた同級生に、いつの間にか姿を消した評判の悪い先輩。
そして、先ほどまで眼前で死にかけていた昔馴染みの従者。
ああ……確かにディートハルトが心配するのも無理はない。
急に申し訳ない気持ちがむくむく湧いてきて、私は座ったまま深々と頭を下げた。
「本当にごめんなさい。無神経だったわ」
「わかればいい。二度とこんな無茶はするな」
盛大なため息と共に吐き出された言葉に、私は少しだけ思案する。
それから、おずおずと……しかし正直に答えた。
「それは、できない約束だわ」
「……なんだと?」
じろりと切れ長の目がこちらを睨む。
罪悪感から一度は口を噤むが、すぐにこればっかりは譲れないと背筋を伸ばした。
「申し訳ないけれど、こればかりは私の人生がかかっているの。もちろん命は大事だけれど……命を懸けられるものが私の人生にはあるの」
わかってくれるかしら。
そう問いかければ、ディートハルトは渋面を作った。
長い沈黙が続くかと覚悟したが、それはすぐに打ち破られた。
私たちの口論に聞き耳を立てていたらしいトーマスが、いい加減黙っていられないと一石を投じたのだ。
「それ以上ケンカを続けるなら、他所でやれ。こっちはまだ病人が寝てるんだ。……フラウ・フォーゲル、お前も元気になったのなら教室に戻れ」
足で床を叩きながら、保健室の主は苛立ちを声にこめる。
閉口した私たちは互いの顔を見合わせ、不完全燃焼のまま保健室を出た。
教室へと向かう間、気まずい沈黙が二人の間に落ちる。
互いの足音だけが響く中、ディートハルトがふと声を発した。
「体調は、もういいのか?」
「ええ。お陰様で」
「……以前は、一週間寝込んだと聞いたぞ」
誰からだろう、と疑問に思ったが、聞かなかった。誰からでも同じことだ。
私は少しうんざりしながら、平気だってば、と言葉を重ねる。
「自分の体調のことくらい、自分でわかるわ。もう大丈夫。万全……とは言えないけど、少し疲労感があるだけだわ」
「ふんっ……なら良いが。ルイスのために体調を崩したなんて言われたら、俺の沽券に関わるからな」
「あら、そんなこと言わないわ。貴方よりもルイスの方が気にしそうだもの」
それはそうだ、と肩を竦めるディートハルト。
先ほどまでバラバラだった足音は、いつの間にか同じリズムを刻んでいた。
ほんの少し軽くなった空気の中、ディートハルトが突然足を止める。
数歩遅れて止まった私が彼を振り返ると、どこか改まった様子でこちらを見ていた。
「話がある」
唐突に切り出されたその言葉は、今朝聞いたばかりだ。
何かしら、と話を促せば、彼は言い辛そうに口籠る。
ややあって、彼は秘め事を告げるような声で囁いた。
「……ルイスを、竜人種の国に帰す手伝いをしてくれ」
思わず息を呑んだ。
同時に、終業を告げるチャイムが鳴った。ああ、また一つ授業に出られなかった、と頭の片隅で後悔する。
しかし、それが些細なことに思えるほど、今の私はディートハルトの話が気になって仕方なかった。
教室から飛び出してくるニコラの姿が見えた。
今彼女に見つかったら、ルイスの容体を聞かれて話ができなくなってしまうだろう。
私はディートハルトの上着を掴み、つま先の方向をくるりと変えた。
「場所を変えましょう」
ディートハルトは何も言わずについてくる。
どっと騒がしくなる廊下の中で、私は自分の心音が一番大きく聞こえた。
人通りの少ない階段の踊り場へ着くと、私は再び体を反転させる。
真正面からディートハルトを見据え、気難しそうな顔を見上げた。
彼は唇を真一文字に結んでいる。その顔つきはどこか焦りを感じさせた。
「どういうこと?」
「言った通りだ。ルイスを故郷に帰す」
「……彼の故郷は、この国でしょう?」
一瞬、ディートハルトは怯んだように言葉を飲み込んだ。
しかし、すぐに咳払いを落とすと、わざとらしく腕組みをした。視線を私から外し、どこか一点を睨みつける。
まるで、そこに誰かがいるように。
「確かに、ルイスが生まれたのはこの国だ」
静かに切り出された言葉は、私の言葉を肯定する。
だが、すぐにディートハルトはその意見をひっくり返した。
「しかし、アイツの母親がこの国に連れてこられた時——ルイスは既に彼女の腹にいた」
奥歯が軋むほど、強く歯噛みするディートハルト。
かつて己の怒髪天を突いた噂が本当であったことが、どうしても許せないのだろう。
憎々しげな声で、怒りを噛み殺す彼は、恐ろしさよりも痛々しさが優った。
だが、今の私に憐れむことはできても、それ以上の慰めは与えられない。
ふ、と小さく息を吐いて、気持ちをリセットする。
同情は、心の隅にそっと追いやった。
「……だから、本当の故郷はアンファングラントだと?」
「わからない。だが、少なくとも……向こうにはルイスの父親がいるはずだ」
糾弾するような私の声に、ディートハルトは人差し指で腕を叩く。
苛立ちが伝わってくるようで、なんだか気分が悪い。せめてこっちを見ろ。
ディートハルトの名を強く呼べば、彼は渋々空色の瞳をこちらに向ける。
柳眉を逆立てた顔はいつも通りだが、その下の眼差しは微かに震えていた。
「長い間、アイツをこの国に縛っていたのは、ノイマンだ。この国で生まれ、他に行く当てがないと思ったからこそ、俺はこの国にルイスの場所を作ろうと思った」
だが、と言葉を区切るディートハルト。
しかし、その先は続かなかった。唇を噛み締め、ますます眉間に力を入れる。
その言葉に、思いに、私がどんな冷や水をかけられるだろうか。
確かに、彼の体調を慮れば、今すぐにでもアンファングラントに向かった方がいいだろう。
ようやく飲ませられたと言っても、たかがコップ一杯の水だ。彼の命を繋ぐには、あまりに心許ない。
アンファングラントに行けば、その心配は無くなる。
私が無理して水の属性魔術を使いこなせるようになる必要もない。
だが、しかし……。
両手を挙げて賛成できないのは、何故だろうか。
ふーっと長い息を吐き、私は「わかったわ」と頷いた。
ディートハルトの視線が、ようやく私を捉える。
「その代わり、条件があるわ」
「条件、だと?」
訝しげなディートハルトの顔に、私は大きく頷いた。




