87話
キュッと水道の閉まる音がやけに大きく聞こえた。
戻ってきたヴィクトールが手にしていたのは、グラス一杯の水だった。
「喉が渇かないかい?」
こんな時に、と冷たい視線が向く中、カレステンの慌てた声が響く。
どうやら痙攣が始まったらしい。点滴が効かないと叫ぶ声が聞こえ、ディートハルトが焦った顔でベッドに駆け寄る。
私も続こうとするが、その腕をヴィクトールが掴んで止めた。
「っ離して!」
「……そっちに行っても、キミができることは何もないよ」
コップを傍らに置きながら、私の腕を掴んだ手が滑るように移動する。
ぞくりとするような手つきに、不快感を覚えた時、彼の口元が小さく弧を描いた。
「キミの強みは血だろう?」
「は?」
細長い指先が私の手首を持ち上げる。
次の瞬間、ヴィクトールが私の指をがぶりと噛んだ。鋭い痛みが指先を襲う。
「いっ……!」
思わず手を引く。が、それ以上に強い力で引き返され、思わずつんのめった。
たたらを踏む私に気遣いの言葉をかけることもなく、ヴィクトールは掴んだままの手をコップに翳す。
相当強い力で噛まれたようで、強く握られた指先からぽたぽたと血が滴った。
鮮紅が、透明な水の中でモヤのように揺らめく。
「なっ……何を……」
「静かに」
冷たく鋭い声。いつものような甘ったるさはどこにも感じない。
遠くでバタつくカレステンたちの声が聞こえる。意識がそちらに引っ張られるが、掴まれたままの手がこの場から離れることを許さなかった。
秒針の進む音がやけに大きく聞こえた、その瞬間だった。
開けっ放しの窓がカタカタと小さな音を奏でたかと思えば、突如、レースカーテンを大きく翻した。
懐かしい匂いのする澄んだ風が、突然吹き荒れた。
わあ、と悲鳴を上げたのはそれまでルイスを見ていた治癒術師たちだ。
飛び散らかるカルテを彼らの視線が追う中、目の前の男だけが乱れる長髪をそのままに呟く。
「来た」
何が、と問う間も無く、鮮血のように赤い瞳が私を捉えた。口端が、いつものように胡散臭い笑みを模る。
「二度目の奇跡、今なら起こせるんじゃない?」
私の手を掴んでいた手が離れ、ポケットを指さす。
そこに入っているのは、アドルフのお守り————ミーミルの泉のお守りだ。
ハッと気付いた私はポケットから冷たい魔石を取り出すと、そのまま魔力を掻き集める。
汗が額に滲む。慣れない魔術に、指先が痺れるようだ。
しかし、ちりちりと皮膚の上を走る魔力の色は、見覚えのある蒼。混じり気のない————水の属性だ。
小さな渦を巻くその魔力の塊は、次第に指の間から溢れる液体となって、グラスの中へと溢れ落ちた。
ほんの一瞬、淡く光りを帯びた水はすぐにその輝きを失う。
だが、それで十分だったようだ。肩で息する私を一瞥したヴィクトールは、一言「上等」とだけ言った。
どっと汗が吹き出し、足元が崩れる。
その場で座り込む私に対し、ヴィクトールはグラスを手に取り、ルイスの横たわるベッドに向かった。
慌ただしくルイスに声かけを行うカレステンたちを掻き分け、ヴィクトールが水を含ませる。
しばらく周囲の声が騒がしかったが、どうやらルイスの呼吸が安定し始めたようで、すぐにそれらは収まった。
代わりにカレステンたちの喜色を含んだ声が聞こえ始めたが、駆け寄る元気はもうない。
ぐらぐらと揺れ始める頭を支える体も、もう気怠くて仕方ない。このまま床に寝転んでしまおうか。
そんな考えが過った時、微かな足音と共に細長い足が眼前に立つ。
ヴィクトールだ。
「治癒術は頭に入っていないのかい?」
彼が指差したのは、じんわりと赤の滲む私の指先。誰のせいだと罵りたいが、それすらも億劫だ。
「……使うほどのことじゃ、ないわ」
「そうかい。それじゃあ、ボクはこれで」
再び軽やかな足音がして、彼は遠ざかる。
ベッドに運んでくれとは言わないが、ソファまで肩を貸してくれても良かったんじゃないだろうか。
くそ、と悪態を吐きそうになる。相変わらずイケすかない。
私の前で猫を被らなくなったのは別に構わないが、これはこれで腹が立つ。
————それでも、彼のおかげでルイスの命は僅かに繋がった。それだけは事実だ。
「ヴィクトール」
「何だい?」
声だけがこちらを振り返る。
重たい頭を何とか持ち上げて、振り返ることのないヴィクトールの後頭部を見上げた。
「ありがとう。貴方のお陰よ。……お礼は、改めさせて」
風に靡く柳のような動きで腕を上げたヴィクトールは、ひらり、と手を振る。
何を考えているかわからない彼は、何も私に告げないまま、保健室を後にした。
その後、餅巾着のように床で溶けている私をソファに運んでくれたのは、ディートハルトだった。
不愉快そうに、それでも案じるように移動させた後、彼はルイスが意識を取り戻したことを教えてくれた。
ルイスの容体が安定すると、カレステンは「また何あったら読んでくれたまえ!」と何故か鼻息荒く帰っていった。
あの変態のお守りも大変だな、と彼の部下に同情したのは言うまでもない。
私の指の手当てを終えたトーマスが、カレステンを見送ってくると退室。
保健室には私とディートハルト、そして未だベッドに横たわるルイスだけが残されている。
「……それで、お前とアイツは何をした」
ルイスが失った体力を取り戻すよう眠りにつくと、ディートハルトは静かに問いかけてきた。
彼の持ってきたグラスに入った水。それがただの飲み水でないことに気付いていたようだ。
私は額に乗せた腕を少しだけずらし、こちらを見下ろす端正な顔を見上げた。
「浄化魔術。とびっきりのね」
「……お前の刻印属性は風だった筈だ。愚かにも、以前教室で使ってただろう」
「それ、貴方が言う?」
誰の魔術を止めるために使ったと思ってるんだ。
責めるような声をあげれば、彼は眉間の皺を深くする。
ふう、とそれほど大きくない息をひとつ吐き、私はゆっくりと呼吸を慣らす。
「先祖がね、加護を受けたらしいの。水の属性を持つ魔術に対する強化の加護を」
「加護だと?」
「ええ。残念な事に私の魔術刻印は風だから、これまでは何の役にも立たなかったのだけど……」
ヴィクトールの助けでどうにかなった。
いや、彼だけではない。アドルフから譲り受けたこの魔石——ミーミルの泉のお守りも一因であるのは確かだ。
すっかり傷跡の塞がった指先を見つめる。じくりと噛まれた場所が痛んだ気がした。
血———ミーミルの加護を受けた魔術師の血。
それが呼び寄せたのだろうか。あの奇妙な突風を。
「…………風」
ふと、頭の中に眠る懐かしい記憶が呼び起こされた。
あの時感じた香りを私は知っている。
左腕の刻印がチリチリと焦げ付くように痛んだ、あの日だ。生まれて初めて魔術を使ったあの時——あの時も、一陣の風が吹いた。
勢いよく体を起こすと、頭がくらりとする。ディートハルトの呆れた視線が向けられた。
「ディートハルト。私、わかったかもしれないわ」
「何がだ。お前はさっきから一人で何の話をしている?」
「さっき、私が何故浄化魔術を使えたのか、よ」
わからずに使っていたのか、と呆れた声を出すディートハルト。
仕方ないじゃない、ヴィクトールに使えって唆されたんだから。
しかし、そんなことはどうでも良い。使えたのだから、それで問題ない。
大事なのは、今後の話だ。
「ヒントは『精霊』……成る程、アストレアが言っていたのはそういう事だったのね」
ぶつぶつと呟きながら、思考に耽る。
でも、だとしたらあの時は何故……と更に深いところまで潜ろうとした時、待ったの声がかかる。
ハッと顔を上げると、そこには苛立たしげに腕を組んだディートハルトがいた。
「勝手に話を進めるな。誰だ、アストレアとは」
「ご、ごめんなさい……自分の中で考えをまとめたくて、つい黙り込んでしまったわ」
しかし、まだこの話に確証はない。まずはヴィクトールに詳細を聞いて、答え合わせをしたかった。
ディートハルトは私の主張を聞くと、再び呆れたようなため息を吐く。
それじゃ飽き足らず、人差し指でとんとんと自分の腕を叩き始めた。相当イライラしてるようだ。
「お前がどの属性を持とうとどうでも良いが……それはそんなに大事な事か?」
厳しい空色の目を、私は正面から見つめ返す。
「ええ。何よりも大事だわ」
はっきりとした口調で告げる私の言葉を、彼は静かに受け止めた。
そして、深々と眉間に皺を刻み込み——……
「ふざけるなっ!」
保健室中に響く声で、彼は私を怒鳴りつけた。




