83話
水先案内人である彼女は変わらぬ足取りで地下水道を歩む。
宿に人を待たせていると伝えれば彼女は面倒くさそうに顔を歪めたが、近場まで案内すると言ってくれた。
カンテラを揺らしながら、先導する彼女はポツポツと語る。
「アストレアは、古くからこの街に住む人狼族で御座います。ですが、ここは持たざる者の街。刻印を持つ者への偏見と嫉妬は後を断ちません」
故に我々は身を隠しているのです、と彼女は柔らかな尻尾をくるりと回した。
濁った水の臭いが、鼻の奥をツンと刺激する。先ほどの怒号を思い出し、掴まれた手首が小さく痛んだ。
少女の声は変わらず響く。
「アストレアは世界一の賢者となる為、日々あらゆる事象について研究をしております。そして、いつかアストレアの名は『知恵』を意味する言葉となるのです」
「そりゃ結構な目標ですがね。そんな賢狼様が何故、我々を助けるんで?」
ブルーノの警戒した声に、アストレアはちらりと私を振り返る。
そして、どこか腹立たし気な声で「其方の御仁」と私を呼んだ。
「貴女様からミーミルの匂いが致しましたもので、アタクシは大変興味深いと存じたのです」
え、と思わず声が漏れた。
ヒクヒクと忙しなく動くアストレアの鼻先が私に向けられる。
ああ、やはり、と憎々し気な声が聞こえた。
「あの知恵者の匂いで御座います。憎たらしいことこの上ない。アストレアこそが世界一の賢者ですのに」
「あ、あのっ……貴女、ミーミルの泉を知っているのね?」
胸元ほどの高さにある少女の肩を掴む。ぱちくりと瞬いた目が、すぐさま平静を装った。
ええ、と短い声が返され、私の心臓は大きく跳ねた。
あった。本当にあった。
今目の前に、泉の手がかりが……!
興奮する私をよそに、眼前の少女はさも当然そうに「アタクシもアストレアで御座いますから」と答える。
「アタクシとしましては、貴女様の方が奇妙で御座います。何故クルークの身でありながら、ミーミルの泉をご存知で?」
いえ、と言葉を区切った彼女は、更に一歩踏み込んだ。
「何故、貴女様からミーミルめの匂いがするので御座いますか」
詰問するようなその声に、私は小さく喉を鳴らした。
「アメリアから、ミーミルの匂い……?」
困惑するギルベルトの声に、私はポケットからアドルフのお守りを取り出す。
チャラ、と音を立てた魔石に黄金の瞳が静かに注がれた。
「もしかして、これの匂いかしら?」
「……此方は?」
「義弟から譲り受けた魔石よ。ミーミルの泉に縁のある物だとか」
スンスン、と小さな鼻が匂いを嗅ぐ。しかし、すぐにふるふると頭を振った。
どうやら誤魔化しは効かないらしい。
逡巡したのは、ほんの数秒。
ふ、と小さく息を吐き、真正面から鋭い少女の眼差しを受け止める。
それから意を決して、秘密を打ち明けるように告げた。
「私、ヴァイツェンシュタットの生まれなの」
アストレアの瞬きが二つ、落とされる。
しかし、すぐにハッとしたような顔で「偽りの魔術師の……」と呟いた。
「ということは、貴女様はかの魔術師の縁者ということですか?」
「おそらく……断言できるような資料は何もないけれど」
自信無さげに答える私に、彼女はふるふると小さな頭を振った。
曰く、感じ取ったミーミルの匂いが何よりの証拠らしい。アストレアは一人満足げに口端を上げた。
「成る程、合点がいきました。何世代前の御話かは存じませんが、智恵者の加護が血に残っているのですね」
……本当に残っているのだろうか。
左腕に浮かぶ刻印を、人知れず撫でる。浮かぶ紋様は風を示すそれ。
加護があるのなら、何故、魔術師と同じ『水』ではないのだろうか?
長年抱き続けている疑問が胸中でぐるぐると回り始める私と異なり、アストレアは納得したように一人で頷いた。
「これは僥倖。まさかクルークの国でミーミルめの愛し子に出会えるとは。ふふふ、ここでアタクシがミーミル以上の知恵を彼女に授ければ、アストレアの優秀さがまた一歩、世間に知れ渡ってしまいますね」
くふくふと奇妙な笑いを浮かべたアストレア。
視線が集まっているのに気付くと、すんっと表情を落とし「そういうわけです」とブルーノを見つめた。
「アタクシはアストレア。叡智の申し子として、好奇心の向くままに手を差し述べたまでで御座います」
納得いただけましたか、と問う彼女。
しかしブルーノが返事をする前に、今度はギルベルトが「ちょっと待ってくれ」と口を挟んだ。
「アメリアが、ミーミルの加護を受けた魔術師の子孫……? でも、あれはただのお伽噺だろ?」
「むっ……先代の記した文書を作り話と軽んじますか。なんて不届な……と、言いたいところですが」
言葉を区切った彼女は耳をぺたんと伏せた。
何とも言い難い顔付きで、アストレアは「確かに創作が含まれてる事は否めません」とギルベルトの言葉を認めた。
ですが、と言葉を区切った彼女はじろりと私を睨んだ。
「ミーミルの泉は御座います。泉に住む全知の智恵者ミーミルも存在します———それは、この賢者アストレアが保証致しましょう」
まっすぐな黄金色の目が私を貫く。
その言葉を聞いた時、足元の地面が抜け落ちたような感覚がした。
がくん、と膝の崩れた私を、ギルベルトが慌てて支えた。
彼の必死な声が聞こえる。しかし、声が喉には張り付いたようで、返事ができない。
「お前、何をっ……!」
「アタクシは何もしておりません。アストレアにできるのは、知恵を授けることのみで御座います」
彼女の言う通りだ。何をされたわけではない。
ただ、少し——ほんの少しだけ、気が抜けただけだ。
「……大丈夫よ、ギルベルト。支えてくれてありがとう、一人で立てるわ」
ふらつく足に無理やり力を入れ、冷たい地面を踏み締める。
その様子をじっと見ていたアストレアが「泉の存在は、それほど貴女さまにとって重要で?」と問う。
「ええ。これで、前提条件に自信が持てるわ。……ありがとう、アストレア」
狼耳を揺らして頭を傾けたアストレアだったが、すぐに「左様で御座いましたか」と口先で頷く。
くるりと背を向け、再び歩き出した彼女の態度はやけに素っ気ない。
「礼には及びません。アストレアは知ってることを口にしたまで」
しかし、スカートの不自然な揺れが、彼女の尻尾の激しい動きを主張している。
初めて見る彼女の子供らしさに、何だか微笑ましさを感じた。
しかし、これで泉の伝説が本物であることに確証が持てた。
後は泉の場所だ。
もしかしたらと思い、知恵の泉がミーミルの泉ではないかと確認してみた。
しかし、案の定アストレアはその可能性をキッパリと否定する。
「アレこそ、ミーミルを模倣しただけに過ぎません。ああいった偽物は各地に存在しますが、いずれも本物とは似ても似つかぬ紛い物です。第一……」
と、そこまで言いかけて、彼女ははたと言葉を止めた。
片手で口を塞いだアストレアは視線だけで振り返ると、ほんの少し迷うような素振りを見せる。
「…………さて、アストレアならどうすべきでしょうか」
独り言のように呟き、思案するように目を伏せるアストレア。
続きを求めるように並び歩き、顔を覗き込む。パッと瞼を上げた彼女は、カンテラの火を瞳に映した。
小さな舌が、ペロリと唇を舐める。
思わず背筋を伸ばした私に、彼女は満足そうに「重畳」と頷いた。
「その姿勢に免じて、ミーミルの愛し子にヒントを授けましょう」
ですがその前に、とアストレアは言葉を区切る。
「貴女様は、何のために知識をお求めで?」
真正面から向けられた眼差しから、感情は読み取れない。
幼子の問いかけのように純粋なそれに、私は見栄や誤魔化しを口にすることはできなかった。
今度は私が唇を湿らせる。
言葉の滑りを良くした後、口をついて出たのは
「この世界に生まれた理由を、知りたいの」
偽ざる本心だった。




