82話
陰鬱とした街の中で気分転換を済ませ、宿に戻ろうとスカートを翻す。
その途端、もし、と声がかかった。
パッと振り返った先にいたのは、歯の抜けた口でニヤニヤと笑う下卑た顔。
この街の住人であろう男性に、私は僅かに眉を寄せた。
「何か……ッ!?」
用か、と訊ねようとした口を、男の汚い手が突然塞いだ。
強い力で利き手を掴まれ、路地裏へと引き摺り込まれそうになる。
ひゃひゃ、と濁った笑い声が聞こえる。
「こりゃ上玉だ! ここらで見られるツラじゃねぇ!」
男の声に反応したのは、一人や二人じゃない。
密やかな笑い声が物陰から聞こえ、それなりの人数に囲まれていることに気付く。
しまった……油断しすぎた。
宿からそんなに離れていないからと安心していたが、この辺りは街灯が少ないらしい。
暗闇に潜む彼らに気付かなかったのは、一生の不覚だ。
「ひひひ、そんなに怯えなくても良いじゃねぇか」
「っ……!」
男が手に力を入れる。骨が軋むような音がした。
鈍い痛みに顔が歪み、掴まれた腕から鳥肌が全身に周った。
反射的に、魔力をかき集めた。
轟音と共に、周囲のゴミや塵が巻き上がる。
男たちが悲鳴と共に弾き飛ばされ、壁にめり込んだ。きつく編んだはずの三つ編みが、風圧で乱れたがそんなことはどうでも良い。
「っ殺す……!」
よくも無遠慮に人の体を触りやがったな。
そんな気持ちから、思わず強い言葉が口からこぼれ落ちた。
男たちは「ひぃいいい!」と情けない悲鳴をあげる。
「ここ、コイツっ……刻印持ちだっ!」
「くそッ……何でこんなところに刻印持ちがいるんだ!?」
蜘蛛の子を散らすように逃げ出す男たち。
逆立った髪がようやく落ち着きを取り戻した頃、バタバタと足音が近付いて来る。
誰かが騒ぎを聞きつけたようだ。
「アメリアっ!」
「……ギルベルト」
駆け付けたのは、散歩に出ていたギルベルトとブルーノだった。
細長く息を吐いて、昂った感情に区切りをつける。
が、私以上に慌てふためいたギルベルトが、私の両肩を掴んだ。
「大丈夫か!? 何があった?」
力強い彼の手に、先ほどの感触が蘇る。
不自然に揺れた肩が、ギルベルトの表情を曇らせた。
私は慌てて「大丈夫。何でもないの」と言ったが……。
「あ、……」
彼の肩に触れようとした手が、微かに震えていた。
拳を握り、すぐに誤魔化す。上げた口角は、きちんと弧を描けているだろうか。
若草色が小さく揺れる中、ブルーノの「お嬢さん」という低い声が響いた。
「詳しい話は後にしてくれ。今は、マズい。お前さんの魔術で、街中が大騒ぎだ」
「ブルーノ。その言い方は……」
嗜めるようなギルベルトの声に、私は「大丈夫」と虚勢を張る。
私が起こした揉め事で、私が足を引っ張るわけにはいかない。
ビビり散らかす脚を拳で叩き、言うことを聞かせる。
震えは止まらないが、走れないほどじゃない。顔を上げ、行きましょうと二人に告げた。
「いたぞ、あの女だ!」
「刻印持ちがこの街に何の用だ? 捕まえて聞き出せっ!」
路地から出ると、住人たちから怒号のような声で追い立てられる。
誤解を解くため話し合おうと思ったが、ブルーノがそれを制した。
「頭に血が昇ってる連中には、何を言っても無駄でさァ」
一旦ほとぼりが冷めるのを待とうと言う彼の言に従い、私たちは彼らに背を向けた。
追われるまま、街の奥へ奥へと進んでいく。
「これ、どこに向かってるの?」
「宿から離れてってるけど、いいのか?」
不安の声に、先導するブルーノが「土地勘がないってのは、こういう時不便なんだよなぁ」とくたびれたように呟く。
つまり適当に走っているのね。
背後の声から逃げていると、どんどん道が狭まっていき————とうとう、袋小路に追い込まれてしまった。
「行きどまり……!」
「……してやられましたね」
あちゃー、と額を打つブルーノ。
ギルベルトが荷物の山を登れないかと試みるが、足をかけただけで壁がボロボロと崩れた。
背後を確認する。声はまだ遠い。
しかし、彼らがここに押し入るのも時間の問題だろう。
万事休す。
覚悟を決める時が来たようだ。
拳を固め、顔を前に向けた瞬間——半歩前に出たギルベルトの背が、私を路地の奥に追いやった。
前が見えないと抗議の意味を込めて、彼の服を掴んだ……その時だった。
「もし、そこの御仁。お困りでしたらどうぞ此方へ」
足元からか細い小さな声が聞こえた。
きょろきょろと三人で視線を彷徨わせると、ガラクタの積まれた物陰の隙間から小さな手招きが見えた。
毛皮に覆われた茶色の手。すぐさま屈むと、そこにはぽっかりと人一人分の穴が空いていた。
「お急ぎ下さい。人が参ります」
罠か、と勘繰る間も無く、どやどやとした人の足音が迫る。
一瞬だけ視線を交わし、私たちは順に巣穴に飛び込んだ。
三メートルほどの縦穴を滑り降りると、そこは真っ暗な地下水道であった。
少女の持つカンテラが照らす範囲のみが、橙色に染まっている。
赤茶色の毛皮に覆われた肌に金色の瞳。キルトの三角巾から大きな三角耳が覗いている。
「御機嫌よう、街の外の人たち」
そう言って私たちを出迎えたのは、人狼族の少女だった。
「貴女は……」
「御話は歩きながらに致しましょう」
それより此方へ、と彼女はトコトコと歩き出す。
再び私たちは顔を見合わせ、少女の足取りを追った。
ドブ臭い臭いが充満する。水辺だからかやけに肌寒さを感じた。
揃わない自分たちの足音が響く他は全くの静寂で、上での喧騒なんて遠いことのようだ。
「……信用できるのか?」
歩調を合わせてきたギルベルトが、密やかに問う。肩を寄せ、私も小声で「わからない」と返した。
「でも、ついていく他に道がないわ。今は彼女を信用しましょう」
それよりも、宿に置いてきてしまったドーリスの方が心配だ。大丈夫だろうか。
暗闇の中を十分ほど歩き、私はようやく口を開いた。
「助けてくれたのよね? 今更だけど、ありがとう。改めて、私は……」
「御名前でしたら、結構です。アタクシは他人様の名前を覚えません」
くるりと反転した少女は「むしろ」と小さな犬歯を覗かせる。
「アタクシの名前を覚えて下さい。アタクシはアスター。二代目アストレア=シュネーベルクに御座います」
思わぬ名前に息を呑む。
その音に、少女の三角耳がピクピクと反応した。
「良い驚きです。これは、アタクシの名を知っている者の反応ですね」
素晴らしい、と変わらぬ表情で淡々と喜ぶアストレア。
そんな彼女に近付き、私は「ちょっと待ってちょうだい」と声をあげる。
「貴女がアストレア? 偽りの魔術師に関する物語を記した?」
「おや。随分古い御話を御存知なのですね」
パチクリと黄金の瞳を瞬いて、少女は少し不満気に口先を尖らせた。
「其方は先代の残した文書に御座います。アタクシの研究成果では御座いません」
先代、と彼女の言葉を繰り返すと、アストレアは「ええ」と頷いた。
それから意地悪そうな犬歯を覗かせ、彼女は報復するように告げる。
「詳しい御話が聞きたければ、アタクシについてくることを推奨しますよ。それが貴女たちにとって一番安全な道ですから」
どうやら、ギルベルトとの会話を盗み聞かれていたようだ。大きな耳は伊達じゃないらしい。




