80話
先日書斎で見つけた民話集。
それによると、この学術都市はある一派から始まった街だ。
当たり前の話だが、魔術は魔術刻印を持つ者にしか扱えない。
しかし、そんな常識に疑問を呈したのが彼等である。
『魔術は誰でも使えるべきだ』
そんな思考は、当然、刻印持ちである魔術師に受け入れられなかった。
対立の結果、王都どころか魔術学界から追い出された彼らは自然と西の外れに集まり、街を築いた。
それがこのヴィッセンシュタットだ。
「中に入ると、更に薄暗いのね。みんな、足元に気を付けて」
ブルーノの手を借り、馬車を降りる。
続いて同じように降りてくるドーリスに声をかけると、彼女はきょどきょどしながら頷いた。
「は、はいっ……あ、いえ、……うん」
慣れていないとはっきりわかるタメ口。
これは身分を偽るため、彼女に強いた決め事だ。
もちろん彼女だけではない。ブルーノにも、私とギルベルトをただの子供として扱うようにお願いした。
私がただの田舎娘だった頃を知っている彼なら、ドーリスほど戸惑うこともないだろう。
馬車を降り、体を伸ばしたギルベルトが「それで」とこちらを見る。
「最初は知恵の泉だっけ?」
私は小さく頷いた。
御者に馬車と馬を任せ、私たち四人はさっそく情報収集に出かけた。
街の人に声を掛け、場所を問う。怪訝そうな顔をしていた彼も「泉の主の知恵を授かりたくて」と言うと、納得したようだった。
聳え立つ巨大な本棚の合間を縫うように歩き、住民しか知らないような小道を進んだ先。
ポツポツとしか置かれていない街灯が、更に少なくなった街の奥底にそれはあった。
地面に打ち付けられた杭とロープで四方を囲われた、小さな泉。
ちょろちょろと湧き出る水は、確かに天然の湧き水のようだ。
しかし、なんというか……
「思ったよりショボいな」
「人が飲み込んだ言葉を口にしないでくれる?」
ギルベルトの言葉を嗜める。
唇の隙間からちろりと舌を見せる彼を一瞥し、改めて泉を確認する。
ミーミルの泉には知恵を司る泉の主がいるという話だが、ここにそういった存在は感じられない。少なくとも、私には無人のように感じた。
その代わり、ぽつんと注意事項を記した立て看板が一つある。
『泉の水に触れるべからず』
平たく言うと、そういうことだ。
「泉なのに、水を組めないん……のね」
「ハハッ……ここはどっちかと言うと願掛けの場みたいなもンだからねぇ。生活用水とは違うんだろうよ」
どうやらブルーノの言うとおりらしい。
ヴィッセンシュタットの住人らしい男性が一人。ふらりとやって来て、泉に向かって手を合わせ始めた。
端に避けた私たちを怪訝そうに眺めつつ、彼はすぐにぶつぶつと何かを呟き始める。
そして、虚ろな目で団子のようなもの——芋で作ったクネーデルだろうか——を取り出すと、器ごと掲げ、泉に向かって深々と頭を下げた。
「…………泉の主よ、どうか我らにその知恵を授けたまえ」
しん、としたまま、何も起こらない。水面が揺れるでも、何かが光出すでもない。
だが、彼は満足したように顔を上げ、再びぶつぶつと何かを呟きながらこの場を離れていった。
奇妙な沈黙が流れ、ドーリスが震える声で「何か授かったんでしょうか?」と問いかける。
しかし、その答えは誰も持っていなかった。
男性の行動を真似すれば何かわかるかもしれない。
そう考えた私の発言は、二秒で却下された。曰く、何が起こるかわからないことをするな、とのこと。
過保護な友人と従者に閉口しつつ、私たちは一旦泉を離れることにした。
「ブルーノ。貴方、もしかしてこの街に来たことがあるの?」
迷いのない足取りで元の道を辿るブルーノ。
先導するような彼の背中に、私はふと感じた疑問を投げかけた。
「いんや。こんな賢そうな街、来るのはオイラも初めてさ」
「来るのはってことは、以前から知ってはいたのね」
詳しいの、と更に問かければ、彼はひょいっと肩を竦めた。
答える気の無さそうなブルーノに代わって、ギルベルトが後ろから「ハイジの出身地なんだよ」と言った。
「ハイジって……プロフェッサー・アーデルハイト? 昔、貴方のところで家庭教師をしてくださった?」
「そう。彼女、随分前に他の屋敷に移っちゃったけど、よくここの話をしてくれてさ」
ギルベルトの言葉にブルーノも「そういうこって」と笑う。
そんな繋がりがあったとは……世間とは存外狭いものだ。
いつか彼女にも再会できるだろうか、なんて感傷に浸ってしまう。
そんな時だった。
「あら、貴方たち、ハイジの知り合いなの?」
大きな瓶底眼鏡をかけた白衣の女性に声を掛けられた。
ドロテーアと名乗った彼女は、じろじろと私たちを眺める。
ブルーノが小さく「マズったな」と呟いた。
「住人には極力関わらんつもりだったが、まさかハイジの姪っ子に見つかるとは……」
鼻のてっぺんに皺を寄せ、ブルーノがあからさまに嫌気を示す。
好々爺然とした彼にしては珍しい。
理由はわからないが、どうやら彼はドロテーアを警戒しているようだ。
仕方ない、と肩を竦め、私はカバンの中から一通の手紙を取り出す。
「あの、ドロテーア?」
「ドルテでいいわ。その方が短くて効率的よ」
「なら、ドルテ。……私たち、ヘア・リヒターのお宅を探しているんだけど、知ってる?」
ローラントに渡された紹介状をチラつかせると、彼女はわかりやすく顔を顰めた。あの厳格なアーデルハイトの親戚とは思えないわかりやすさだ。
「リヒターって、あのリヒター?」
「どのリヒターかは知らないけど、多分そのリヒターよ」
言ってて、自分でも混乱しそうな言葉だ。
ドロテーアは不愉快を隠すことなく「あの高慢ちきの家なら、通りに出ればすぐにわかるんじゃない?」と言った。
そして、じろりとこちらを睨む。
「アンタたち、あの偏屈ジジイの知り合い?」
剣のある眼差しがレンズ越しに向けられ、ピリッとした空気が周囲に流れる。
ドーリスが鼻息荒く前に出ようとしたのを、ブルーノが抑えた。
私はわざとらしく肩を落とし、「知らないわ」と子供っぽく両手を広げて見せた。
「ただの預かり物。学術都市に行くって言ったら、届けてくれって無理矢理持たされたの」
「誰に?」
「さあ? 名前なら、中に書いてあるんじゃない?」
開けてみるかと手紙を差し出せば、彼女は眉を顰めて首を横に振った。
「やめておく。……ごめんなさいね、変に絡んで」
疑り深い目をしながらも、ドロテーアは勇み足を謝罪した。
私は「こちらこそ」と暴言を撤回し、改めてリヒター家の位置を確認する。
表通りに出て、赤いラインの入った巨大な本棚を二つ通り過ぎた先に見える奇妙な邸宅。それがローラントの義実家——リヒター家の邸宅らしい。
「ハイジの知り合いみたいだから忠告しておくけど、この街でリヒターの名はあまり出さないことね」
指先で眼鏡を押し上げたドロテーア。
少し和らいだとはいえ、レンズの奥の目は未だ剣呑さを残している。
「みんな、彼が嫌いなの。あそこの坊ちゃんは学園の人間だから」
じゃあね、と彼女は白衣を翻して去っていく。
すっかり人気が無くなってから、私は困ったように肩を竦めた。
「持たざる者の矜持、なのかしら?」
「……オイラに言わせりゃ、身の程知らずの嫉妬だけどな」
街の始まりがどうであれ、今のヴィッセンシュタットはただの掃き溜めだ。
魔術を学びたくとも、刻印が現れなかった者。
あるいは、金銭的な事情から学園に入ることの叶わなかった者が集まる吹き溜まり。
それが、このヴィッセンシュタットだ。
刻印を持つ者、地位のある者、富める者——総じて、学園に通える者は皆、彼等にとっては嫉妬の対象だ。
それにしても、
「……まさか、同じ街に住む人間まで目の敵にしてるとはね」
ここでの調査は、思った以上に難航しそうだ。




