71話
教室の入り口に立つと、熱風が前髪を煽った。
思わず顔を背けたくなるほどの熱に、目を瞑る。煤けた臭いだけが鼻腔につく。
ゆっくり瞼をあげれば、そこに広がっていたのは二人の男の対立。
ディートハルトとギルベルトだ。
「…………いや、何でよ」
何してんの、あの幼馴染はっ!
二人を囲むクラスメートたち。完全に遠巻きにしている。
慌てて彼らを掻き分け、囲いの最前列へ出た。正面にニコラが見える。
泣きそうな葡萄色の目が、ギルベルトの背後を示した。
胸ぐらの乱れた男子学生が、友人らしき学生に支えられている。
彼は確か私の後ろに座っていた男だ。服が少し焦げている。
煤けているのは彼だけじゃない。机や床の一部、そして天井もだ。
……大体の事情は把握した。
おそらく彼が口さがない噂をばら撒き、ディートハルトの導火線に火を付けたのだろう。
余程彼の怒りが苛烈——あるいは一方的に見えたのかもしれない。
我が幼馴染は、そんなクラスメートを庇っていると見た。
とはいえ、推察はあくまで推察だ。
事実がわからない以上、どちらの立場に立つこともできない。
私は輪の中心に歩み寄り、二人の間に割って入った。
じろり、と空色の目が私を睨み付ける。
続けて若草色が、案じるように見下ろした。
「アメリア。危ないから、下がってろ」
「邪魔をするならお前も只じゃ済まないぞ、フォーゲル」
互いに私を案ずるだけの理性はあるらしい。それならば話は早い。
私は「何があったかは想像が付くけど」と前置きをして、ディートハルトを見上げた。
「何があったのかしら?」
「っ……その様子だと、お前も知っているようだな」
野良犬め、と罵るディートハルト。
ギルベルトがカッとなり、半歩前に出る。が、それを片手で制した。
見上げると、困惑したギルベルトの顔が見える。
私はお手本のような笑みを浮かべた。
「大丈夫よ、ギルベルト。ディートハルトのそれは、ただの愛称だわ」
「……アメリア」
そんな呼び方を受け入れるな、と言いたげな声。しかし、彼が
宥めるようにギルベルトの肩を軽く叩き、私はディートハルトに向いた。
さて、問題はこちらだ。
「取り敢えず、一旦落ち着いてくれないかしら」
胸元で左手を天井に向けているディートハルト。
きっと先ほどまで、彼の手のひらにはお得意の火炎系魔術があったことだろう。
その証拠に、残火が彼の指先でパッパッと火花を散らしている。
睨め付けるような目が私を見下ろし、眉間の縦皺を深くした。
「落ち着けだと……?」
動物の唸り声のように低い声が、教室内に響き渡る。
これは相当怒っているな、と今更ながらに感じ取った。
「これが落ち着いていられるかっ! お前も知っていたようだが、その男は根も葉もない噂で、我が一族を侮辱した! 万死に値するっ!」
吠えるような声。ビクッと周囲の人間が肩を竦めた。
私もビリビリと鼓膜を刺激するそれに顔を顰める。
ディートハルトの冷たい眼差しが、私とギルベルトを飛び越える。
睨みつける先は、先ほど友人に介抱されていた彼だろう。
確かに流言に惑わされる愚か者は救いようがない。
だが、今回に限って言えば、必ずしも嘘であるとは限らないのだ。
勿論、だからと言って侮辱していい理由にはならない。
が、同時に他者を傷付けても良い理由にもならない。
ふう、と肩を落とし、私は「わかったわ」と頷いた。
「なら、好きなだけ暴れなさい。私が全力で止めてあげるから」
「はんっ……お前が? どうやって?」
ディートハルトが挑発的に笑う。
きっとエルフリーデから私の魔術刻印の属性を聞いているのだろう。
彼の手に魔力が集まるのを感じながら、私は一歩、前に出た。
ギルベルトが心配そうな声をあげるけれど、引くわけにはいかない。
私は彼の手首を掴み、ずいっと更に近付いた。
ディートハルトが不可解そうに口元を歪めるのを見て、私も切り札を切る。
「こうするのよ」
風の魔術を発動。
渦巻いていたディートハルトの炎が、私の風で瞬く間に吹き荒れる。
きゃあ、と誰かの悲鳴が響いて、何人かが教室から飛び出した。
「なっ……!?」
熱が肌の表面を焼き、髪が熱風で煽られる。
キツく編んでおいて良かった。そうでなければボサボサになっていただろう。
思わぬ形で魔術が広がり、慌ててディートハルトは魔術を解いた。
たちまち霧散する魔力。炎が風にかき消され、一瞬で教室に静寂が戻る。
ふんっと義弟を真似て鼻を鳴らせば、ディートハルトがわなわなと震え出した。
「っ何を考えてるんだ、お前は……!」
「死なば諸共よ。私の風じゃどう足掻いても貴方を止められない。なら、貴方の覚悟を試すまで」
校舎を全焼させる覚悟はおありかしら?
私の問いかけに、ディートハルトは大きく脱力した。
深い深いため息を聞いて、私は勝利を確信する。
「……お前は、バカだ」
「ええ、そうね。そんなバカを自陣に引き込んだのは、貴方よ」
頭を抑え、再び嘆息するディートハルト。
そんな彼の理性と良識に、私も内心安堵の息を漏らした。
良かった。怒りよりもクラスメートの命を優先してくれて。
これで、どうにか今回のイベントは無事に乗り越えられそうだ。
駆け付けた教師にがっつりお説教を受けた男子たち。
担任のローラントは「まあ、そういう年頃だしな」の一言で片付けたらしい。
「よかったわ。あそこで怒りを優先させていたら、将来とんでもない暴君が誕生していたかもしれないもの」
「嫌味は寄せ。その時はお前も共犯だ」
長時間に渡るお説教と、反省文の提出を求められたディートハルト。
勿論、発端となった男子学生にはより思い処罰が下ったらしい。
そして、当然のように私とギルベルトも怒られた。
反省文こそなかったが、そりゃもう、しっかりと。
私とギルベルトは仲裁しただけなのに……!
なんて、言葉は受け入れられず、懇々と叱られた。
正直、全然納得なんてしていない。
だが、それは一旦置いておこう。
教室が焦げてしまったため、新学期早々の自習である。
その時間を利用し、私はディートハルトと共に教室を抜け出した。
やってきたのはいつもの空き教室。
もちろん、二人きりではない。
先ほどの件で完全にディートハルトを警戒しているギルベルト。
そして、心配と好奇心を半々に乗せたニコラが、勉強道具を片手についてきた。
「お前は知っていたのか、あのくだらない噂を」
二人の外野がいようと、彼は気にしないらしい。
険のある眼差しで私を睨み付け、話を掘り返した。
「知っていたわ。事前にエルフリーデから情報が入っていたの」
「っ……あの、女狐め!」
ディートハルトが机を叩き、私は気にせず問題集を解き続ける。
自習時間である以上、お喋りをしても勉学の手を止める気はない。
「何故すぐに俺に言わなかったっ!」
「相談したところで、人の口に戸は立てられないと思ったのが一つ」
フンッと鼻を鳴らしたディートハルト。
否定ができなかったのだろう。眉間の皺を深くして、続きを問いかける。
「もう一つは?」
私は視線をほんの少しだけ彼に向けた。
勉強することを諦め、体ごとこちらに向けているディートハルト。
まあ、彼の心情的には勉強なんて手がつかないのだろう。
私も姿勢を正し、彼の顔を真正面から見つめた。
「貴方に言っても解決しないと思ったからよ」
カッとなったディートハルトが椅子を蹴飛ばして立ち上がる。
怒気を纏った彼が、地を這うような声で「もう一度言ってみろ」と言った。
「貴方に言っても解決しないと思ったからよ」
「…………第二ラウンドをお望みのようだな」
ピリピリと周囲に魔力が充満し始め、ニコラが慌て始める。
私はゆっくりと立ち上がり、静かにディートハルトの名を呼んだ。
「だって、貴方……その噂の真偽を確かめる気がないでしょう?」
「確かめるまでもない! お前までもがノイマンの名を侮辱するかっ!」
「いいえ。でも、ルイスのことを思うなら、彼の出自や親御さんのことを明確にするのは、必要なことだと思うわ」
噂が従者クラスまで広まれば、彼もまた傷付くことになるだろう。
周囲が彼に対して持つ偏見の目を、更に強めることになるかもしれない。
そんな時、主人であるディートハルトが毅然としていれば問題はないのだが……。
ご覧の通りだ。
私の知る彼よりは大人びているが、それでもまだ彼は十代の子供だ。
他人の悪意に反応しない、強靭な精神は持ち合わせていない。
正直、スルースキルの高さは人生経験の厚みだ。子供にはまだ難しいだろう。
奥歯を食いしばるディートハルト。
彼はそのまま大股で闊歩し、教室を出て行った。
「……良かったのか?」
ギルベルトが静かに問いかけてくる。
私は「ええ」と頷き、再び座席についた。
「頭の冷やし方を学んだ方が良いでしょう。……国を背負って立つのなら、この先どんな流言流布があるかわからないもの」
これも経験だわ、と私は冷たく突き放す。
ほんの少し早くなった心臓を落ち着かせるよう、私は再びペンを走らせた。
そして、ディートハルトに許可証の話をし忘れた。
そう気付いたのは、終業のチャイムがなってからだった。




