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最凶公爵令嬢は微笑まない―誰も、彼女の季節を止められない―  作者: 翡翠


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第7話 最凶公爵令嬢は逃げ道ごと提示する

 追い詰めるだけでは、人は時に開き直る。


 本当に効くのは、逃げ道を見せた上で、そのどちらを選んでも痛みが伴う状況を作ることだ。


 選択しているつもりで、実際には盤上を歩かされている。


 それに気づけない者ほど、深く沈む。


 アシュベルン公爵家の書斎では、その日の午後、静かな筆記の音が続いていた。


 重厚な机の上に広げられた上質な便箋へ、レティシアが自ら文面を書きつけている。向かいには父アルベルト公爵。少し離れた位置にはセバスチャンが控え、必要な資料を淡々と差し出していた。


「文面はこれで十分かと」


 レティシアが羽根ペンを置く。


 アルベルト公爵は差し出された書面を受け取り、素早く目を通した。


 内容は簡潔だった。


 王城夜会において、王太子エドガルドが公衆の面前で婚約破棄および断罪を宣言したこと。

 その際に提示された書証に真正性の疑義が生じ、加えて王太子側近に対し監査および拘束が行われたこと。

 よってアシュベルン家としては、事態を私的な行き違いとして処理することは不可能であり、王家としての正式な見解および対応を求めること。

 なお、王家が一定期間内に公的整理を行わない場合には、婚約関係の解消および経緯について、アシュベルン家として独自に公表する用意があること。


 怒りも罵倒もない。


 ただ事実と手順だけが整然と並んでいる。


 だからこそ重かった。


「良いな」


 公爵は短く言った。


「情緒に流れておらん。反論の余地も少ない」


「こちらが感情的だと、向こうは“お家騒動”へ落とし込めますもの」


 レティシアは淡々と返す。


「ですが、これは政略婚の処理不備であり、王家の統治上の瑕疵です。そこを文面でもずらさせないことが重要ですわ」


 まさにその通りだった。


 争点を定義した者が、交渉を支配する。


 王太子と公爵令嬢の痴話喧嘩に見せれば王家が有利になる。だが、王家が公爵家との婚約を杜撰に扱い、公文書偽造疑惑まで伴う統治問題を起こしたと定義されれば、王家は逃げにくくなる。


 レティシアは最初からそこを押さえていた。


「期限は三日でよろしいですか」


 セバスチャンが確認する。


「ええ」


 レティシアは即答した。


「長すぎれば握り潰しの時間を与える。短すぎれば“誠意ある整理の余地を与えなかった”と言われる。三日がちょうどいいわ」


 この判断にも理由がある。


 人は期限がないと先送りする。逆に期限が短すぎると、相手は被害者意識を持ちやすい。三日というのは、“考える時間はあったのに、動かなかったのはそちら”と位置づけるのに適した長さだった。


 アルベルト公爵は文面を机へ置いた。


「陛下宛、王妃宛、王太子宛。それぞれ送る」


「はい」


「ただし中身は微妙に変える」


 レティシアが言葉を継ぐ。


「陛下には統治上の整理を求める形で。王妃殿下には王家の対外的信用維持の観点から。殿下には、あくまで当事者として自ら説明責任を果たす余地を残す形で」


 アルベルト公爵は娘を見た。


「殿下だけ少し柔らかいな」


「ええ。その方が苦しいですもの」


 レティシアの口元に、ごく薄く笑みが浮かぶ。


「真正面から責めれば、人は防御姿勢を取るだけです。でも“まだ自分で立て直せますよ”という顔をして選択肢を渡せば、自尊心が邪魔をして、かえって誤る」


 これは行動経済学でいう選択設計に近い。


 人は合理的に最善を選ぶのではなく、自分の自己像を保てる選択を選びやすい。エドガルドのように、自分を高く見積もっている人間ほどその傾向が強い。だからこそ、“まだ王太子として責任ある対応ができます”という形を与えると、その選択肢を受け取るだけで屈辱に感じ、かえって半端な抵抗に出やすい。


 その半端さが、次の失点になる。


「では、出します」


 セバスチャンが一礼し、書状を受け取る。


 扉が閉まったあと、書斎には一瞬だけ静けさが落ちた。


 暖炉の火が小さく鳴る。


 アルベルト公爵はふと娘へ視線を向けた。


「お前は殿下がどちらを選ぶと思う」


「正式整理には踏み切れないでしょうね」


 レティシアは迷いなく答える。


「陛下と王妃殿下はそちらを望んでも、殿下ご本人が自分の失敗を政治問題として認めきれていませんもの」


「すると」


「中途半端に、私的接触か、限定的な弁明か、そのどちらかです」


 彼女の読みは明確だった。


 人が失敗した時、最もやりがちなのは「全面修正」ではなく「部分修正」だ。間違っていた全体像を変えるのではなく、枝葉だけ整えて何とか元へ戻そうとする。


 だが、局面が大きく変わった後の部分修正は、たいてい遅い。


「フィオナの方は」


「動くでしょう。しかも、殿下の判断を邪魔する形で」


 アルベルト公爵が眉を上げる。


「なぜそう思う」


「焦っているからですわ」


 レティシアは椅子の背に軽く体を預けた。


「今のあの子にとって一番恐ろしいのは、王家が“自分を切ることで収拾を図る”ことです。だから、殿下が正式整理へ傾けば傾くほど、自分から感情的に働きかけたくなる」


 これは自然な心理だった。


 立場の弱い者ほど、制度や手続より“個人的情”へ賭けたくなる。ルールの世界では不利でも、感情の世界ならまだ入り込めると思うからだ。


 だが、それは同時に、手続を必要とする局面で最悪の一手にもなりうる。


 王城では、まさにその歪みが始まりつつあった。


 夕刻、エドガルドのもとへアシュベルン家からの書状が届けられる。


 執務室でそれを読み終えた彼の顔色は、目に見えて悪くなった。


「……脅しか」


 低く吐き出された言葉に、同席していた文官が静かに応じる。


「いいえ。手続です」


「これがか?」


「はい。むしろ、かなり礼を失しておりません」


 その一言が、エドガルドの神経をさらに逆撫でした。


 彼にとっては圧力だった。だが第三者の目から見れば、これは最後通牒ですらない。公の整理を求める、当然の通知に近い。


 つまり今、彼が感じている怒りは、相手の非礼に対してではなく、自分が現実を突きつけられた痛みに対する反応だった。


「三日だと?」


「はい」


「短すぎる!」


「むしろ妥当かと」


 文官は平然としている。


「すでに夜会から日も経っております。何の見解も出ぬ方が不自然です」


 エドガルドは書状を握り潰しかけて、寸前で止めた。紙に皺が寄る。


 王太子として育てられた彼には、かろうじて残っている理性もあった。ここで露骨に感情を爆発させても、自分に利はないと分かっている。だが分かることと、受け入れることは違う。


「……母上は何と」


「王妃殿下は、正式な整理の必要性をお認めです」


「陛下もか」


「はい」


 エドガルドは唇を強く結んだ。


 つまり、逃げ道は狭まっている。


 だがその時、彼の頭に真っ先に浮かんだのは、責任ある整理の方法ではなく、別のことだった。


 レティシアは、自分にここまで迫れる立場なのか。

 公爵家とはいえ、ここまで王家へ要求してよいのか。

 そして何より、なぜ自分がここまで譲らなければならないのか。


 その発想自体が、まだ彼が盤面を読めていない証拠だった。


 彼が失っているのは感情の優位ではなく、交渉上の主導権だ。そこを認めない限り、何を考えてもずれる。


 その夜。


 フィオナは、王太子付きの若い侍従から偶然を装って情報を得ていた。


 アシュベルン家から正式な書状が届いたこと。

 三日の期限が切られたこと。

 王妃も国王も、何らかの整理を求めていること。


 それを聞いた瞬間、彼女の背筋は冷えた。


「……そんな」


 手からティーカップが滑りそうになる。


 ついに来た。


 自分が恐れていた形で、事態が進んでいる。


 これは王家とアシュベルン家の話だ、と周囲が認識し始めた時点で、フィオナは“中心人物”から“原因の一つ”へ格下げされる。そうなれば一番切りやすいのは誰か。答えは明白だった。


 王太子を廃するわけにはいかない。王家そのものも簡単には傷つけられない。


 なら、外から入り込んだ聖女を切る。


 それが最も早い。


「いけない……」


 フィオナは立ち上がる。


 頭では分かっていた。


 今は動かない方がいい。余計なことを言わない方がいい。けれど理解と行動は別だ。人は自分の存在基盤が崩れそうになると、静かに待つことができなくなる。


 しかも彼女は、これまで「自分から感情を伝えれば誰かが動いてくれる」という報酬を繰り返し受けてきた。


 なら今回もそうする。


 その学習が、彼女を最悪の方向へ押していく。


 夜更け、フィオナは自らエドガルドの私室へ向かった。


 本来なら控えるべき時間帯であり、呼び出しもない。だが今の彼女には、そんな形式を気にする余裕がない。


 扉の前で侍従に止められそうになった時、彼女はすでに目に涙を溜めていた。


「お願いです……少しだけ、殿下に……」


 その表情に弱いのは、王太子だけではない。若い侍従は困惑しながらも、取り次ぎを拒みきれなかった。


 しばらくして扉が開く。


 室内へ通されたフィオナを、エドガルドは明らかに疲れた顔で見た。


「こんな時間に何だ」


 第一声から柔らかさがない。


 それだけでフィオナの胸は詰まったが、それでも引けなかった。


「殿下……お願いです。わたくしを、見捨てないでください」


 直球だった。


 理屈も順序もない。だが追い詰められた人間の言葉としては、むしろ自然だった。


 エドガルドは目を細める。


「急に何の話だ」


「アシュベルン家から書状が届いたのでしょう……? 皆、わたくしを切れば済むみたいに……そんな目で……」


 声が震える。涙が落ちる。


「わたくし、本当に怖かっただけなんです。殿下だけが頼りで、だから……!」


 ここで問題なのは、彼女が嘘をついていることではない。


 自分が怖かったのは本当なのだろう。頼ったのも本当だろう。


 だが今この局面で、それを王太子へぶつけることが何を意味するかを理解していない。


 それは“守ってほしい”という願いであると同時に、“あなたの責任で私を助けて”という要求でもある。


 余裕のある相手には甘えとして届くが、追い詰められている相手には負担としてしか届かない。


 エドガルドは沈黙した。


 その沈黙を、フィオナは拒絶の前触れとして感じ取る。


「殿下……?」


「……少し、黙れ」


 低い声だった。


 フィオナの目が見開かれる。


「今、私はそれどころではない」


 その一言は、彼女の胸を鋭く抉った。


 今までは違った。自分が涙ぐめば、何より優先してくれた。だが今は違う。“それどころではない”と切り捨てられた。


 自分の価値が、優先順位の上位から落ちたのだと、言葉にされずとも分かってしまう。


「それどころでは……?」


 フィオナの声音が掠れる。


「わたくしのことは、もうどうでもいいのですか」


 この問いもまた、典型的な誤りだった。


 相手が抱える問題を無視し、関心の有無だけで試す。恋愛では珍しくないが、政治的危機の最中に持ち込めば破壊力しかない。


 案の定、エドガルドの表情が険しくなる。


「そういう話ではないと言っている!」


 怒声に、フィオナの肩がびくりと震えた。


「お前は何も分かっていない。今どれだけの話になっていると思っている!」


「わ、わたくしだって、必死で……!」


「必死だから何だ!」


 言ってから、エドガルド自身も一瞬だけ表情を固めた。


 だがもう遅い。


 吐き出した苛立ちは戻らない。


 フィオナは完全に青ざめ、その場で数歩よろめいた。涙が零れる。けれど今度の涙は、守られるための武器ではない。ただの動揺だった。


「……出ていけ」


 最後に落とされた言葉は、冷たかった。


 フィオナは何か言おうとして、言葉を失い、結局そのまま部屋を飛び出した。


 回廊を走りながら、彼女の頭の中ではいくつもの感情がぐちゃぐちゃに混ざっていた。


 悲しい。苦しい。怖い。信じられない。

 でもそれ以上に、許せない。


 自分はこんなに必死なのに。

 こんなに傷ついているのに。

 なぜ誰も、自分を守ってくれないのか。


 その怒りは、もはやレティシアだけに向いてはいなかった。


 王太子にも。王妃宮にも。社交界の女たちにも。

 自分を見捨てるすべてに向かい始めていた。


 人は、被害者意識が極まると、世界全体を裏切り者に見始める。


 そこまで行けば、行動はさらに雑になる。


 そしてアシュベルン公爵邸では、その報せが翌朝には届いていた。


「昨夜、フィオナが殿下の私室へ押しかけたと」


 報告を受けたレティシアは、驚きもせずに書類を閉じる。


「ええ。口論になり、泣いて飛び出したようです」


 セバスチャンの報告に、彼女はごく静かに息を吐いた。


「予想より、少し早く壊れ始めたわね」


 その言葉に、冷酷さはなかった。


 あるのは、予定表の時刻が少し前倒しになったことを確認する程度の平静だけだ。


「では、次は」


「次は王家が判断を迫られる」


 レティシアは立ち上がる。


「殿下はフィオナを支えきれず、フィオナは殿下を支えることもできない。なら残るのは、制度としてどう切り分けるかだけよ」


 窓の外では、冬の空が高く晴れていた。


 何もかもが静かだった。


 けれど水面下では、もう止まらない。


 最凶公爵令嬢は、自ら怒鳴らない。


 ただ相手が、自分で踏み外す順番を見届けているだけだ。

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