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最凶公爵令嬢は微笑まない―誰も、彼女の季節を止められない―  作者: 翡翠


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第8話 王家はようやく切り分けを始める

 組織が本気で危機対応に入る時、最初に行うのは真実の追求ではない。


 被害の切り分けだ。


 何を守り、どこを捨て、誰までを本体と見なし、誰から先を外縁とみなすか。その線引きが決まって、初めて事実整理が始まる。


 そして今、王家もまた、その段階へ入ろうとしていた。


 国王夫妻が使用する謁見棟の奥、私的会談用の小広間には、重い空気が満ちていた。


 上座には国王、そして王妃。向かいにはエドガルド王太子。周囲には最小限の文官と侍従のみ。外部へ漏らせない話をするための場であることは、誰の目にも明らかだった。


「昨夜の件は聞いている」


 最初に口を開いたのは国王だった。


 声量は大きくない。だが、抑えた声の方が怒りは深く伝わることがある。


 エドガルドは一瞬だけ目を伏せた。


「……フィオナが感情的になっただけです」


「その“だけ”で済まぬところまで来ている」


 国王の返答は即座だった。


「お前はまだ、問題の大きさを履き違えている」


 エドガルドの喉がわずかに動く。だがすぐに反論は出なかった。父王に面と向かって責められた経験が、彼にはそれほど多くない。甘やかされてきた者ほど、明確な叱責への耐性が低い。


 王妃が静かに言葉を継いだ。


「アシュベルン家からの書状は読みました。内容は穏当です。むしろ、あれだけの事態の後としては、かなり配慮されています」


 その一言は、エドガルドにとって不快だった。


 母ですら、自分の側に全面的には立っていない。


 その事実が、じわじわと自尊心を削る。


「母上まで、レティシアの肩を持つのですか」


「肩を持つのではありません。形式の話をしています」


 王妃の声には冷たさがあった。


「あなたは、形式を軽んじすぎました。婚約解消は私情で決めるものではない。まして多くの貴族を前に、証拠も粗いまま断罪劇にした。その時点で、これは恋愛ではなく政治です」


 その指摘は正しい。だが、正しい指摘ほど、準備のできていない相手には刺さりすぎる。


 エドガルドは視線を逸らす。


「私は……フィオナが傷ついていたから……」


「だから何です」


 王妃が遮った。


 きっぱりと、容赦なく。


「傷ついた者がいた。ならば守るべきでした。ですが守るためには、まず事実を固める必要がある。あなたはそれを飛ばし、自分が正義の側に立ったつもりで場を演出した。その結果、王家の信用とアシュベルン家との関係を同時に損ねました」


 エドガルドの顔色が悪くなる。


 彼にとって痛いのは、“失敗した”と言われることより、“正義のつもりだったものが自己陶酔だった”と突きつけられることだ。


 人は、行動そのものを責められるより、行動の動機が稚拙だったと見抜かれる方が傷つく。


 国王は机上の書状へ手を置いた。


「結論から言う」


 室内の空気がさらに張る。


「アシュベルン家に対しては、王家として正式な整理を行う。婚約については白紙とし、お前の夜会での発言は、王家として正式手続を経ない不適切なものだったと認める」


 エドガルドの目が見開かれる。


「父上!」


「まだある」


 国王は表情を変えなかった。


「王太子側近の不正疑惑については、監査官主導で調査を継続する。また、フィオナ・ルミエールについても、王家預かりの立場を見直す」


「それは……!」


 エドガルドが思わず一歩踏み出す。


 だがその瞬間、国王の視線が鋭く突き刺さった。


「ここで最も重要なのは、王家そのものを守ることだ。分かるな」


 言い換えれば、切り分けだ。


 王太子の失態、側近の不正、聖女の混乱、それらを一つの塊として抱えて沈むわけにはいかない。ならば王家本体と周辺要素を分離する。王太子はまだ王家の本体だが、その周辺は切れる。フィオナはまさにその典型だった。


 エドガルドはそれを理解した瞬間、初めて焦った。


「お待ちください! フィオナは……フィオナは悪意があったわけでは……!」


「悪意の有無は二次的です」


 王妃が静かに言う。


「問題は、王家の近くで混乱を増幅させたこと。そして現時点で、あなたもその人を支えきれていないことです」


 この言葉は冷酷に聞こえるかもしれない。だが組織論としては正しい。


 人はよく、「悪気がなかった」ことで救われると思い込む。だが高位の組織が見るのは動機より結果だ。結果として損害が広がるなら、悪意がなくても外される。


 エドガルドは拳を握りしめた。


 悔しい。納得できない。だが、論理で返せない。


 なぜなら彼自身、今のフィオナを支えきれていないことを分かっているからだ。昨夜、自分は彼女を追い返した。守れなかった。その事実がある以上、「切るな」と感情だけで主張しても弱い。


「……では、どうするおつもりですか」


 国王は一拍置いた。


「王家預かりは解く。王城外の静養先を与え、当面は公の場へ出さない」


 それは追放ではない。


 だが、実質的には舞台から降ろす処置だった。


 王家の庇護を完全に否定せず、しかし王城の中心からは外す。もっとも摩擦が少なく、もっとも意味の大きい措置である。


 エドガルドの唇が震える。


「……それでは、見捨てるのと同じではありませんか」


 王妃は息を吐いた。


「違います。これ以上、あなたの感情で抱え込ませないだけです」


 その言葉で、会談は実質終わった。


 エドガルドはなお何か言いたげだったが、もはやこの場の流れは変えられない。彼は遅すぎたのだ。もっと早く、自分の失点を政治として認識し、フィオナを個人的に庇うより先に整理へ動くべきだった。


 だが人は、自分の感情に名前をつけるのが遅い。


 遅れた理解は、たいてい局面に間に合わない。


 一方、フィオナはその日も王城内の部屋で落ち着かない時間を過ごしていた。


 誰もはっきり何かを言わない。だが侍女たちの態度、回廊ですれ違う者たちの視線、呼ばれるはずの場に呼ばれないこと。それらすべてが、じわじわと彼女へ事実を教えていた。


 自分は中心から遠ざけられつつある。


 だが、こういう時に限って、人は決定的な事実を自分で確かめずにいられない。


 夕方、彼女は再びエドガルドへ面会を求めた。


 だが返ってきたのは、短い伝言だけだった。


 ――殿下は本日お会いになれません。


 それだけ。


 昨日までなら、たとえ短くても理由が添えられた。気遣う言葉があった。だが今日はない。


 フィオナはその紙片を見つめたまま、しばらく動かなかった。


「……お会いになれません」


 口の中で繰り返す。


 冷たくて、遠い言葉だった。


 その時、扉がノックされる。


 入ってきたのは、王妃宮付きの年配侍女だった。礼は正しい。だが柔らかさがない。


「フィオナ・ルミエール様」


 呼ばれ方が、もう違う。


 聖女様ではない。


「王妃殿下よりお言葉を預かっております」


 フィオナの呼吸が浅くなる。


「しばらくご静養なさるのがよろしいでしょう、とのことです。城外の別邸をお使いいただけるよう整えております」


 言葉は丁寧だ。


 だが内容は明白だった。


 ここを出ろ。


 フィオナは顔から血の気が引くのを感じた。


「なぜ……」


 声が出ない。ようやく絞り出した一言は、それだけだった。


 侍女は目を伏せる。


「今はお心を落ち着けることが第一かと」


「違う……そうじゃない……」


 フィオナは首を振る。


「わたくしは、病気ではありません。静養なんて……そんなの、ただ遠ざけたいだけでしょう……?」


 侍女は答えなかった。


 否定しない沈黙ほど、雄弁なものはない。


 フィオナの胸の内で、何かが音を立てて崩れた。


 守られる立場。必要とされる存在。可哀想であるがゆえに価値があるという、これまで支えにしてきた自己像。その核が、今はっきりと切り離されようとしている。


 人は損失を利益の二倍以上強く感じるという。実際、フィオナにとって今起きているのは、新しい何かを失うことではない。やっと得た地位、注目、愛情、特別扱い、そのすべてを奪い返されることだった。


 だから理性が働きにくくなる。


「……嫌」


 掠れた声だった。


「嫌よ……そんなの……」


 侍女が一歩だけ近づく。


「ご準備は本日中に整います」


「嫌だって言ってるでしょう!」


 叫びだった。


 侍女がわずかに身を引く。その反応を見た瞬間、フィオナ自身も自分の声の大きさに驚いた。だが止まらない。


「どうしてわたくしが! 悪いのはレティシア様でしょう! あの人が黙っていればよかったのに! 殿下だって、最初はわたくしを信じてくださっていたのに!」


 その叫びは、ついに本音だった。


 傷ついていた。怖かった。そういう装いではなく、責任を誰かへ投げ返したいという剥き出しの衝動。


 侍女の表情が、そこで完全に変わる。


 哀れみも困惑も消えた。


 残ったのは、距離を取る者の顔だ。


「……失礼いたします」


 それだけ言い残し、侍女は下がった。


 扉が閉まった瞬間、フィオナはその場へ崩れ落ちた。


 自分でも分かっている。今のは悪手だった。だが、人は本当に追い詰められると、相手がどう受け取るかより、自分の苦しさを吐き出す方を優先してしまう。


 それが破滅を早めると分かっていても。


 翌朝、その報せはアシュベルン公爵邸にも届いていた。


 レティシアは朝の紅茶を口にしながら、淡々と報告を聞く。


「王妃宮付き侍女へ取り乱したそうです」


 セバスチャンの声に、レティシアは静かにカップを置いた。


「そう」


 反応は薄い。


 だがそれは興味がないからではない。予定された流れの一つとして受け取っているからだ。


「王家は切り分けを始めたわね」


「はい。静養の名目で城外へ移す方針のようです」


「妥当ですわ」


 レティシアは窓の外を見る。


 空は淡く晴れていた。


「殿下はまだ感情で迷っているでしょうけれど、陛下と王妃殿下は違う。王家を守るために、どこを外すか理解している」


 そこに怒りはない。


 むしろ、当然の計算として見ている。


「お嬢様は、フィオナ様を気の毒とはお思いになりませんか」


 珍しく、セバスチャンがそう尋ねた。


 レティシアは少しだけ考えた。


「気の毒、ね」


 そして、嘘のない声で答える。


「思わないわけではないわ。でも、それと判断は別よ」


 彼女は立ち上がる。


「人は誰だって、自分を守りたいもの。そこは否定しない。でも、自分を守るために他人を悪役へ仕立て、曖昧な言葉で周囲を動かし、それで立場を得ようとしたなら、崩れた時もまたその帰結を引き受けるしかない」


 その言葉は厳しい。


 だが冷酷なだけでもなかった。


 自分の行動の結果を自分で引き受ける。それは、レティシアが他人に求める以前に、自分へ課している原則でもある。


 だからこそ、彼女は強い。


 誰かに庇われることを前提に動かないからだ。


「さて」


 レティシアは机上の封書に手を伸ばした。


「王家が整理へ動くなら、こちらも次の段階へ進みましょう」


「次は」


「婚約解消の条件整理と、今後の対外説明の文面調整よ」


 彼女の声は澄んでいた。


 もう、誰かを感情で責める段階ではない。


 盤面はさらに進む。


 そしてその進行速度に、ついていけない者から脱落していく。


 最凶公爵令嬢は、誰かを突き落とすために走らない。


 ただ、自分だけは確実に次の一手へ進み続けるのだ。

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