表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
最凶公爵令嬢は微笑まない―誰も、彼女の季節を止められない―  作者: 玉響すばる


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

42/43

最終話 春は、劇的には来ない。

 ある朝ふと風が柔らかくなり、庭の土が少しだけ湿り気を帯び、枝先に小さな色が差しているのを見て、ようやく人は気づく。


 ああ、季節が変わったのだと。


 それと同じように、人もまた、ある日突然まったく別人になるわけではない。


 痛みが消えるわけでもない。

 過去が美談になるわけでもない。

 ただ、前なら同じところで止まっていたはずの自分が、少し違う足の出し方をしている。


 その時、ようやく何かが終わり、何かが始まっていたのだと知る。


 アシュベルン公爵邸の朝は静かだった。


 窓から差し込む光は、冬の白さではなく、わずかに温度を帯びた春先の色をしている。庭ではまだ本格的な花は咲いていないが、低木の端に小さな芽吹きが見え始めていた。


 レティシアは書斎でその日の書類を整理していた。


 領地の春季巡回日程。

 修繕予算の再配分。

 新たな交流先となる家門との簡易な往復書簡。


 机の上に並ぶそれらは、どれも未来に関するものだ。

 王城の断罪劇も。

 婚約解消も。

 聖女を巡る混乱も。


 もうそこにはない。


「お嬢様」


 セバスチャンが控えめに入室する。


「本日のご予定でございますが、午前は旦那様と領地巡回の最終確認、午後は侯爵家よりの面談が一件」


「ええ、分かったわ」


 レティシアは短く頷いた。


 その声にも、顔にも、あの件を引きずる色はもうない。

 忘れたのではない。

 無かったことにしたのでもない。


 ただ、それを自分の今日の中心に置く必要がなくなっただけだ。


「王城からは」


 セバスチャンが一瞬だけ言い淀み、それから続ける。


「北部施策の実施第一報が届いております。小規模施設への補助手当と薬材中継の整理、まずは予定どおり進んでいるようです」


「そう」


 レティシアは紙へ視線を落としたまま答える。


 それで終わりだった。


 以前なら、その報告に何らかの感情が動いたかもしれない。

 だが今は違う。


 エドガルドがどう学んだか。

 何を変えたか。

 それはもう、自分の評価や感情の材料ではない。


 彼が自分で引き受けるべき、彼自身の人生の続きなのだ。


「お嬢様は、本当に」


 セバスチャンが少しだけ柔らかい声で言う。


「前へ進まれましたな」


 レティシアはそこで初めて小さく笑った。


「私は最初から前へ進むしかないもの」


 その言葉は、強がりではない。

 事実だ。


 止まって相手を見続けることは、相手に自分の時間を渡し続けることでもある。

 レティシアはそれをしない。

 だから、強い。


 一方、王城ではエドガルドが北部施策の初動報告に目を通していた。


 通した制度は、やはり細部でずれる。

 中継判断権の明文化には反発もある。

 看護補助手当は、現場ごとに使い方の差が出る。

 それでも以前よりは、明らかに流れが見える。


「ここを修正しろ」


 彼は文官へ一枚の紙を返した。


「補助手当の使途報告が粗い。次月から様式を統一する」


「承知いたしました」


 文官が退いたあと、エドガルドはしばらく一人で座っていた。


 窓の外は明るい。

 王城の石壁も、冬の終わりとともにどこか色がやわらいで見える。


 彼はこの数か月で、自分が何を失ったのかを何度も考えた。


 レティシアとの婚約。

 王太子としての未熟さを隠せると思っていた幻想。

 フィオナを守る側でいられるという、甘い自己像。


 そのどれも戻らない。


 だが同時に、失ったからこそ見えたものもある。


 事実より先に役を選ばないこと。

 感情を持つことと、その感情を公の判断へ混ぜることは別だということ。

 善意だけでは場は持たず、仕組みだけでも人は救えないこと。


 それらは、痛みを通ってようやく身についた。


「殿下」


 文官が再び入室する。


「午後の公文確認でございます」


「ああ」


 エドガルドは紙を受け取る。


 以前の彼なら、もっと早く結果を欲しがった。

 変わったと認められたかった。

 周囲の目に、自分の修正がどう映るかを気にしたかもしれない。


 今もまったく気にしないわけではない。

 けれど、それより先に“同じことを繰り返さない”方が重くなった。


 それで十分だと、少しずつ思えるようになっている。


 別邸では、フィオナが朝の光の中で一冊の帳面を開いていた。


 もう返書ではない。

 誰かへ見せるための文章でもない。


 そこには、自分のための整理が少しずつ書き溜められていた。


 施設で見た不足。

 自分にできること。

 自分にできないこと。

 必要とされたい気持ち。

 役に立ちたい気持ち。

 見返したい気持ち。

 それでも、なお残るもの。


 字は綺麗ではない。

 途中で消した跡もある。

 考えが揺れたままの行もある。


 だがそれでよかった。


 整っていないからこそ、今の自分に近い。


 女官が茶を運んでくる。


「フィオナ様、本日はお返事を書かれますか」


 フィオナは少し考えてから首を横に振った。


「今日はいいわ」


「かしこまりました」


 以前なら、何も動かない自分が不安だった。

 今は違う。


 すぐに何かしなければ、自分の価値が消えるとは前ほど思わない。

 もちろん不安はある。

 まだ弱い。

 まだ揺れる。

 だが少なくとも、“すぐ次へ飛びつかないと空っぽになる”という切迫感は少し薄れていた。


 それは小さいが、決定的な違いだった。


 机の上には、ヴァルメル夫人からの文面もある。

 施設との縁はまだ切れていない。

 再訪の可能性も、学ぶ余地もある。


 だが今のフィオナは、それを“すぐ自分を救ってくれる未来”としては見ていなかった。


 もし行くなら、今度は前より現実を知るために行きたい。

 自分がどう見られるかではなく、何が要るのかを見るために。


 その願いは、まだ完全ではない。

 でも、前よりは確かに自分のものに近づいていた。


「……わたくし、ちゃんと見たいのね」


 誰に聞かせるでもなく、そう呟く。


 必要とされたい気持ちは残っている。

 認められたい気持ちも、たぶん消えない。

 でもそれだけではない何かが、ようやく混ざりものの中から浮かび始めていた。


 王妃宮では、その日の報告を受けた王妃が、珍しく少し長く沈黙していた。


「落ち着きましたね」


 側仕えがそう言うと、王妃は小さく頷く。


「ええ。少なくとも、誰かの反応だけで上下する段階からは少し離れたわ」


「殿下の方も」


「そうね」


 王妃は静かに笑う。


「まだ未熟よ。二人とも。けれど、未熟なままでも前よりましな選択はできるようになってきた」


 それで十分なのだと、彼女は思う。


 人は完成しない。

 王太子も。

 元聖女も。

 公爵令嬢でさえも。


 ただ、前より少し自分を疑えるようになる。

 前より少し相手の現実を見られるようになる。

 前より少し、物語の中心を“自分がどう見られるか”から外せるようになる。


 それが成長なのだろう。


 夕方、アシュベルン公爵邸では領地巡回の最終確認が終わり、レティシアが庭へ出ていた。


 低い木々のあいだに、小さな花が一輪だけ咲いている。

 まだ季節の先触れのようなものだ。

 けれど確かに、冬とは違う。


 レティシアはその花をしばらく見つめ、それから静かに歩き出した。


 後ろには誰もいない。

 声もない。

 ただ、風の匂いだけが少し変わっている。


 それでよかった。


 断罪劇も。

 婚約解消も。

 王太子も。

 元聖女も。


 全部、自分の人生の一部ではあった。

 だが、今はもう中心ではない。


 中心に置かなくなったものは、ようやく過去になる。

 過去になったものは、もう自分を支配しない。


 王城で。

 別邸で。

 公爵邸で。


 それぞれの場所にいる三人は、もう同じ傷の上には立っていなかった。


 エドガルドは、自分の未熟さを実務で削り始めている。

 フィオナは、混ざりものの願いを持ちながら、それでも現実を見ようとしている。

 レティシアは、自分の季節と領分を前へ進めている。


 誰も完全ではない。

 誰も綺麗ではない。

 それでも、それぞれが前とは違う習慣を残し始めた。


 それが、この物語の答えだった。


 最凶公爵令嬢は、権力に媚びず、靡かず、頼らず、我が道を行く。

 その道の途中で、王太子は自分の未熟さを知り、元聖女は自分の願いの混ざりものを知った。


 誰かが誰かを完全に救ったわけではない。

 誰かが誰かを完全に打ち倒したままでもない。


 ただ、それぞれがもう、相手を自分の人生の中心に置かなくなった。


 春は、劇的には来ない。


 けれど気づけば、冬の終わりは確かに過ぎている。


 物語もまた同じだ。

 大きな叫びではなく、前と違う毎日が始まった時、静かに終わる。


 そしてその終わりの先で、人はようやく自分の人生を生き始めるのだ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ