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最凶公爵令嬢は微笑まない―誰も、彼女の季節を止められない―  作者: 翡翠


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第23話 空いた穴を埋めるものが希望とは限らない

 人は失ったものをそのまま抱えてはいられない。


 胸に空いた穴を、何かで埋めようとする。

 新しい役割。

 新しい関係。

 新しい居場所。


 それ自体は悪いことではない。

 問題は、その埋めるものを選ぶ時の目が、傷によって曇っていることだ。


 別邸の朝、フィオナは久しぶりに少しだけ早く目を覚ました。


 眠れなかったからではない。

 夢見が悪かったわけでもない。


 むしろ逆だった。


 昨夜、エレノア・ヴァルメルの言葉を反芻しているうちに、胸の奥へ久しぶりに“次”の感覚が生まれていたのだ。


 王城だけが世界ではない。

 地方には、自分の力を必要とする者がいる。

 聖女としての価値は、王太子に選ばれていることとは別の場所にもある。


 その考えは、フィオナの中でひどく甘く響いた。


 まだ何も決まっていない。

 具体的な話もない。

 それでも、人は出口の形だけでも見えると、目の前の苦しさを少し軽く感じる。


 寝台から起き上がった彼女は、机の上の旅行記へ目をやった。


 昨夜までは、ただ時間を潰すために開いていた本だ。

 だが今朝は、そこに書かれていた地方の町や小さな礼拝堂の描写が、初めて“自分と無関係ではない景色”として見えた。


「……地方」


 小さく呟く。


 それだけで、胸の中にかすかな熱が灯る。


 王城へ戻ることだけが道ではない。

 社交界へ戻ることだけが価値ではない。

 なら、自分は別の場所で必要とされればいい。


 その発想は、一見すると健全な方向転換にも見えた。


 だが実際には、まだ危うい継ぎ目の上にあった。

 なぜならそれは、自分の内側から出た確かな意志というより、“今の痛みから逃れるために差し出された言葉”へ強く引っ張られているだけだからだ。


「フィオナ様」


 女官が静かに入室する。


「朝のお茶をお持ちしました」


 以前なら、その声音の温度や言い回しに意味を探したかもしれない。

 けれど今朝のフィオナは違った。


「ありがとう」


 短くそう返してから、自分で少し驚く。


 女官も一瞬だけ目を上げた。

 だがすぐに、いつものように礼をして下がろうとする。


「待って」


 フィオナが呼び止める。


「昨日の……あの婦人。また来る予定はあるの?」


 女官は慎重に答えを選んだ。


「現時点では承っておりません」


「そう……」


 落胆が顔に出る。

 だが完全な絶望ではない。


 それが危うかった。


 人は、一度でも“自分を理解してくれる相手がいる”と感じると、その相手の不在すら次の期待材料に変えてしまう。まだ関係は続くかもしれない。また来てくれるかもしれない。次はもっと具体的な話が聞けるかもしれない、と。


 希望は、不在によってさえ強化されることがある。


 王城ではその頃、王妃が別邸側から上がってきた訪問記録へ目を通していた。


 エレノア・ヴァルメル。

 地方教会との繋がりあり。

 ルミエール家遠縁。

 面談時間、およそ一時間半。


 王妃は記録を机へ置き、指先で軽く端を整えた。


「監視は続けなさい」


 側仕えへそう告げる。


「ただし、今の時点で露骨に止める必要はありません」


「よろしいのですか」


「ええ」


 王妃の声は静かだった。


「今ここで“外との接触まで遮る”形にすれば、かえって別の物語を生みます。あくまで静養先であり、幽閉ではない。その線は守らねばなりません」


 それは統治として正しい判断だった。


 切り分けは必要。

 だが切り分けが露骨すぎれば、今度は処遇の非情さが別の争点になる。

 だから王妃は、常に“外からどう読まれるか”の幅を見ている。


「教会側の意図は」


「まだ断定はしません」


 だが王妃の内心では、ある程度見えていた。


 聖女の名残を持つ娘。

 王城からは距離を置かれたが、まだ癒やしの力を持つ。

 その存在に価値を見出す者は、必ず現れる。


 問題は、その価値が本人の立て直しへ向くのか、別の勢力の看板へ向くのかだ。


「殿下には」


「まだ伝えなくてよろしいでしょう」


 王妃は即答した。


「今の殿下は、自分の修正で手一杯です。ここへ余計な感情判断を入れれば、また視野が狭まります」


 これもまた、以前の王妃なら言わなかったかもしれない。

 だが今は、エドガルドを“未熟なまま感情で動く王太子”から引き離すことを優先していた。


 エドガルド自身は、その時、地方施療院補助の文言調整に向き合っていた。


「この条文だと、名目だけの施療院も補助対象に滑り込みます」


 文官の指摘に、彼はすぐに頷く。


「実績要件を追加しろ。年間受け入れ人数だけではなく、常駐者数と薬材管理簿も確認対象へ入れる」


「承知いたしました」


 短いやり取りだった。


 だがこれも、少し前とは明らかに違う。

 以前なら、“良い施策なのだから細かいことを言うな”と苛立ったかもしれない。

 今は、善意の施策ほど抜け道を作ると歪むと分かっている。


 人は痛い失敗をすると、世界を疑い深く見るようになることがある。

 それは苦い変化だ。

 だが統治や実務においては、時に必要な苦味でもある。


「殿下」


 文官がひと呼吸置いて言う。


「地方教会付属施設の扱いですが、王妃殿下のご意向もあり、別枠の確認経路を設けた方がよろしいかと」


 エドガルドは一瞬だけ眉を動かした。


「王妃殿下が?」


「はい。教会系統は独自の人脈と資金流れがございますので」


「……そうだな」


 短く応じる。


 そこにフィオナの影を直接重ねるほど、今の彼は短絡ではなくなっていた。

 ただ、教会という言葉に一瞬だけ胸の奥がざわついたのは事実だった。


 自分がまだ整理し切れていないものはある。

 けれど、それをその場の判断に混ぜないよう抑えることも、少しずつ覚え始めている。


 アシュベルン公爵邸では午後、レティシアが届いた招待状や返書をまとめて確認していた。


 婚約解消後の社交的再接続は順調だ。

 以前より慎重だが、以前より軽んじられない。

 その状態は、彼女にとって悪くない位置だった。


「お嬢様」


 セバスチャンが別邸側の追加報告を差し出す。


「王妃宮は、教会関係者との接触を把握しつつ、今は静観の構えのようです」


「妥当ね」


 レティシアは報告書へ目を落とす。


「止めすぎれば、フィオナに“王城に閉じ込められている”という物語を与えるもの。王妃殿下はそのあたりをよく分かっていらっしゃる」


「お嬢様は、教会側がどう動くと」


「二つでしょうね」


 彼女は淡々と答える。


「本当に施療や保護の場を提示するか。あるいは“王城が切った聖女”という物語性そのものに価値を見出して近づくか」


「後者なら厄介ですな」


「ええ。でも前者であっても、フィオナ本人が未整理のまま移れば危ういわ」


 そこが本質だった。


 場所を変えれば立て直せるとは限らない。

 むしろ、自分の傷を整理しないまま新しい役割へ飛びつけば、その役割ごと壊しかねない。


「空いた穴を、役割で埋めようとしすぎると危険なのよ」


 レティシアは静かに言う。


「自分の価値をまた外へ預けることになるから」


 それはフィオナがこれまで繰り返してきたことでもある。

 守られることで価値を得る。

 必要とされることで自分を保つ。

 それ自体は誰にでもある欲求だ。

 だが、それしか土台がない人間は、その関係が崩れた瞬間に丸ごと揺らぐ。


「では、立ち直るには」


 セバスチャンが問う。


 レティシアは少しだけ考えた。


「“何かの役に立つ私”ではなく、“何もなくても私”という感覚が必要でしょうね」


 そして小さく肩をすくめる。


「でも、それを身につけるのは難しいわ。誰だって、自分の価値を分かりやすい形で確認したいもの」


 夕方、別邸ではフィオナが昨日より落ち着かない時間を過ごしていた。


 エレノアがまた来る保証はない。

 けれど頭の中では、地方施療院や教会の景色が何度も形を変えて浮かんでいた。


 そこでは自分が必要とされるかもしれない。

 王城のように“静養していろ”ではなく、“来てほしい”と言われるかもしれない。


 そう思うだけで、胸が少しだけ軽くなる。


 同時に、別の感情も生まれていた。


 もし本当にそういう場所があるなら、自分は王城に戻れなくてもいいのではないか。

 いや、むしろ王城や社交界が、自分を失ったことを後から知るのではないか。


 その発想には、希望と復讐心が混ざっていた。


 人は傷ついた時、新しい道を純粋な再出発として選ぶとは限らない。

 しばしばそこには、「自分を見捨てた相手に後悔させたい」という暗い熱が混ざる。


 フィオナにも、それがあった。


「……わたくしは、まだ終わっていない」


 誰に聞かせるでもなく、そう呟く。


 だがその言葉の内訳は、まだ本人にも整理できていない。

 生き直したいのか。

 認められたいのか。

 復讐したいのか。

 失ったものを別の形で取り返したいのか。


 たぶん全部だ。


 だから危うい。


 希望の顔をした手ほど、美しく見える。

 とくに、失った者には。


 けれど美しさと安全は別だ。

 そのことを、フィオナはまだ知らない。

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