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最凶公爵令嬢は微笑まない―誰も、彼女の季節を止められない―  作者: 翡翠


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第2話 断罪の夜のあとで

 レティシア・アシュベルンが王城の大広間を後にしたあとも、会場のざわめきは収まらなかった。


 王太子エドガルドの側近たちがその場で拘束され、泣き崩れるフィオナを侍女たちが支え、貴族たちは扇の陰で怯えたように囁き合う。つい先ほどまで断罪されるはずだったのはレティシアの方だったというのに、いまや誰ひとりとして、彼女を追い詰められた側とは思っていなかった。


 それほどまでに、盤面は一瞬で覆されていた。


「殿下、お下がりください!」


「触るな!」


 怒声を上げたエドガルドが、差し出された騎士の手を振り払う。だが、その動きには先ほどまでの余裕も威厳もない。激情のままに振る舞う若者のそれでしかなかった。


「何かの間違いだ! 私の側近が公文書偽造などするはずがない! フィオナも被害者だ!」


 その言葉に、国王直属の監査官はわずかに眉を動かしただけだった。


「殿下。現時点では嫌疑でございます。しかし、押収された書類と証言の整合性は高く、看過できる段階ではありません」


「証言など、いくらでも捏造できるだろう!」


「はい。ですので、すべて精査いたします」


 冷ややかな返答だった。


 その声音に、エドガルドは自分がもう“王太子の言葉だけで人が従う場”にはいないことを、ようやく理解し始める。


「そ、それなら……っ、レティシアだ! あの女が仕組んだに決まっている!」


 会場の空気がぴたりと止まる。


 誰もがその名に反応した。だが、先ほどまでのように断罪の流れへ乗る者はいない。むしろ、今の言葉で自分の立場をさらに悪くしたのは、エドガルドの方だった。


 監査官は無表情のまま口を開く。


「仮にアシュベルン公爵令嬢が関与していたとしても、それは殿下の側近が偽造も収賄もしていないという証明にはなりません」


「な……」


「また、レティシア様を訴えるのであれば、それ相応の証拠が必要です。先ほどご提示された書簡は、現時点では真正性に重大な疑義がございます」


 横では騎士団長が、拘束された側近の一人から押収した鍵束と帳簿を確認していた。さらに財務卿も、別の側近の名を見て小さく息を吐く。


「この名は……先月の納税調査で不自然な免除申請が出ていた家だな」


 その一言だけで、周囲の貴族たちの視線が変わる。


 ただの恋愛沙汰ではない。王太子の周辺で、金と権力と偽造が絡んでいた。そう理解した瞬間、今まで娯楽として断罪劇を眺めていた者たちは、一斉に距離を測り始めた。


 誰が巻き込まれるか分からない。


 誰と親しかったことにされるか分からない。


 そして何より、この状況でアシュベルン家に敵対的な姿勢を見せるのは、あまりにも危険だった。


 一方、その頃。


 王城を出たレティシアは、夜気の漂う中庭を静かに歩いていた。赤い絨毯も、貴族たちのざわめきもない。冬の夜の空気は鋭く、吐く息は白い。だが彼女の歩みには一分の乱れもなかった。


 数歩後ろを、セバスチャンが一定の距離を保ってついてくる。


「お嬢様」


「何かしら」


「今夜の件、いささか派手に過ぎたかと存じますが」


 レティシアは足を止めず、淡々と返した。


「ええ。そうでなければ意味がないもの」


「見せしめ、でございますか」


「半分は正解ね」


 夜空を見上げれば、細かな雪がまだちらついている。白い結晶が、深紅のドレスの肩口に落ち、すぐに溶けた。


「今夜必要だったのは、殿下とフィオナを潰すことではないわ」


「……ほう」


「王都の貴族たちに教えることよ。アシュベルン家を軽く見て、“感情で動く小娘”を悪役に仕立てれば勝てるなどと考えた時点で、自分たちの方が先に首を絞めるのだと」


 セバスチャンは口元をわずかに緩めた。


「見事に伝わったかと」


「でしょうね」


 レティシアはようやく足を止めた。王城の正門前、夜の闇の中にアシュベルン家の紋章入り馬車が待機している。


「ただし、今夜はあくまで序章よ」


「と、申されますと」


「殿下の側近を数名拘束した程度で終わるなら、王家はすぐに内々で処理するでしょう。表向きの醜聞を嫌ってね」


 レティシアは振り返る。その紅の瞳は、まるで次の一手を盤上に置く直前の棋士のように冴えていた。


「だから明日からが本番よ。王家が握り潰したくても握り潰せないように、外から包囲する」


「すでに手は打っておられると」


「当然でしょう」


 セバスチャンは深く頭を垂れた。


「恐れながら、具体的には」


「まず財務卿には、側近たちの周辺家門について追加調査の口実を与えた。あの人は金の流れに不自然さがあれば、必ず最後まで掘るわ。自分の職責に忠実だから」


「はい」


「監査官には、王太子周辺の文書管理に不備があるという事実を渡した。国王直属の立場にある以上、王太子だからと見逃せない」


「騎士団長は」


「殿下より国王陛下に忠実な方よ。王太子の名を使って私兵のように動く側近連中など、内心では前から快く思っていなかったはず」


 セバスチャンは小さく息をつく。


「つまり今夜は、お嬢様が一方的に勝たれたのではなく」


「それぞれが自分の論理で動かざるを得ない状況を作っただけ。わたくし一人の力で全部を押し切るのは、下策だもの」


 行動経済学でいうなら、人は理念で動くのではなく、自分が損をしない選択肢に流れる。


 貴族も官僚も同じだ。


 忠誠心や正義感など、美しい言葉で語られるものほど当てにならない。だが、自分の立場を守るための合理的判断は、驚くほど再現性が高い。


 レティシアはそれを知っていた。


「それに」


 馬車へ乗り込む直前、彼女は淡く笑った。


「フィオナのような女は、一度“守られる快感”を覚えたら、自分から綻ぶものよ」


「今夜で終わりではないと」


「ええ。今夜のあの子は、恐怖より先に“なぜ自分が庇われなくなったのか”を考え始めているはず」


 セバスチャンはその言葉の意味を理解した。


 フィオナのような人間は、事実を直視して崩れるのではない。これまで機能していた方法が通じなくなった時、認知が歪み、次の一手を誤る。自分は悪くない、まだやれる、誰かが助けてくれる――そう信じたまま、さらに深く沈んでいく。


 人の破滅は、外から壊されるより、自分の思考の癖によって進行する方が早い。


 馬車の扉が閉まり、アシュベルン公爵邸への帰路につく。


 車内には柔らかな灯りがともされ、座席には上質な毛布が用意されていた。レティシアはそれに身を預けながら、ようやく一息ついた。


「お疲れではありませんか」


「多少はね。でも、退屈よりましよ」


 窓の外を流れていく王都の街並みは、すでに夜も遅く、静まり返っている。だが明日になれば、この街は今夜の噂で満ちるだろう。


 最凶公爵令嬢が断罪を返り討ちにした。


 王太子の側近が拘束された。


 聖女が虚偽申告をしていたらしい。


 人は確定情報より、刺激的な断片を好む。そして断片は、都合よく膨らむ。噂とはそういうものだ。


 だからこそ、レティシアは最初の印象を最優先した。


 今夜、貴族たちの脳に焼きついたのは、被害者らしく震える公爵令嬢の姿ではない。証拠の粗を瞬時に見抜き、王太子の壇上で微笑んだ“絶対に敵に回してはいけない女”の姿だ。


 その第一印象は、今後の政治的交渉において極めて強く作用する。


 人は最後まで論理で動かない。


 最初に抱いた印象を正当化するように、あとから理屈を積み上げる。


 それもまた、レティシアは知っていた。


 やがて馬車はアシュベルン公爵邸へと到着した。


 出迎えた使用人たちは一糸乱れぬ礼で主を迎える。誰一人として余計なことは聞かない。ただ、今夜の結果を目の前の空気だけで察していた。


「父上は」


「書斎にてお待ちでございます」


 玄関ホールでそう告げられ、レティシアは眉をわずかに上げた。


「まだ起きていらしたのね」


「旦那様は、お嬢様がお戻りになるまで休まれないと」


「律儀なこと」


 そう言いながらも、レティシアの歩調はほんのわずかに柔らかくなる。


 書斎の扉を開けると、重厚な机の向こうで一人の男が書類から顔を上げた。アシュベルン公爵、アルベルト・アシュベルン。鋭い灰色の眼を持つ壮年の男であり、王国でも指折りの実務家として知られている。


「遅かったな」


「夜会は茶番が長いものですわ」


 父娘の会話はあまりにも淡泊だった。だが、それは感情が薄いからではない。互いに余計な確認を必要としないだけだ。


 アルベルト公爵はペンを置いた。


「首尾は」


「上々ですわ。殿下の側近を数人、監査官と騎士団長の前で押さえました」


「フィオナは」


「まだ生かしてあります」


 その返答に、公爵は小さく鼻を鳴らす。


「生かして“ある”か」


「ええ。ああいう手合いは、潰すより泳がせた方が余罪が出ますもの」


 アルベルト公爵は椅子に深く腰掛け直した。


「王家はどう出る」


「まずは火消しでしょう。ですが、今回は無理です」


「理由は」


「殿下が皆の前で婚約破棄を口にしたからですわ」


 レティシアは父の机の前に立ち、静かに言葉を続ける。


「個室での破談なら、いくらでも揉み消せました。ですが、大広間で、貴族たちを観客にした断罪劇にしてしまった。あれで完全に私的な恋愛問題ではなく、王家と公爵家の対立として認識されました」


「なるほど」


「認知の枠組みが変わった以上、王家だけで“なかったこと”にはできません。周囲がそれを許さないからです」


 アルベルト公爵は満足げに目を細めた。


「よく見ている」


「見ていなければ、あの場には立ちません」


 少しの沈黙のあと、公爵はふと問いを変えた。


「怖くはなかったか」


 レティシアは一瞬だけ、父を見た。


 この男は、娘を甘やかすことはない。だが必要な問いは、必要な時にだけ口にする。


「怖い、ですか」


「お前が動じなかったのは分かっている。だが、人が大勢いる前で敵意を向けられるのは、快いものではないだろう」


 レティシアは静かに息を吐いた。


「不快ではありましたわ」


 それは、彼女にしては珍しく率直な言葉だった。


「ですが、恐怖というより、失望に近いものです。あれほど準備をして、あの程度なのかと」


 アルベルト公爵はふっと笑った。


「お前らしい」


「父上」


「何だ」


「わたくし、殿下との婚約がなくなって清々しております」


 その言葉に、公爵は今度こそはっきり笑った。


「奇遇だな。私もだ」


 書斎の空気が、ほんの少しだけ緩む。


 政略結婚に感情は不要だ。だが、それでも相手があまりに無能であれば話は別だった。エドガルドはアシュベルン家にとって、すでに“投資に値しない駒”となっていたのである。


「今後はどうされますか」


「まずは王家の出方を見る。そして必要なら、こちらから婚約解消を正式に叩きつける」


「先手は取らないのですね」


「相手に誤らせる余地を一度は残す。完全に潰すのは、そのあとでも遅くない」


 それは情けではなく、交渉術だった。


 人は選択肢を与えられた時の方が、自分で誤った判断をしやすい。追い詰めすぎれば覚悟を決めるが、中途半端な逃げ道を見せると、自分に都合のいい幻想へ賭けてくる。


 その性質を利用するのは、アシュベルン家の得意分野だった。


「では、明日には王城から何らかの使者が来るでしょうね」


「来るだろう」


「楽しみですわ」


 レティシアはようやく柔らかく微笑んだ。だがその笑みは、恋を語る令嬢のそれではない。


 狩人が、仕留め損ねた獲物の足跡を見つけた時の笑みだった。


 その夜。


 王都の各所ではすでに、断罪劇の噂が雪のように降り積もっていた。


 王太子が婚約破棄したらしい。

 だが逆に側近が捕まったらしい。

 聖女は嘘をついていたらしい。

 最凶公爵令嬢は笑っていたらしい。


 人から人へ、酒場からサロンへ、屋敷から屋敷へ。


 噂は歪み、膨らみ、尾ひれをつけながら広がっていく。


 そしてそのすべての中心にある名を、人々は半ば畏れながら口にした。


 レティシア・アシュベルン。


 最凶公爵令嬢。


 彼女の断罪は、まだ終わっていない。


 いや、正しくは――。


 今夜ようやく、始まったのだ。

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