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最凶公爵令嬢は微笑まない―誰も、彼女の季節を止められない―  作者: 翡翠


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第1話 最凶公爵令嬢は断罪を笑う

 王都に雪が降っていた。


 夜の帳がすっかり落ちたアシュベルン公爵邸は、外の寒気を寄せつけぬ静かなぬくもりに包まれている。磨き抜かれた大理石の床、重厚な赤絨毯、白銀の燭台に揺れる灯り。その中心で、ひとりの令嬢が優雅にティーカップを傾けていた。


 名を、レティシア・アシュベルン。


 王国三大公爵家の一つ、アシュベルン家の一人娘にして、次代の公爵家を支える才媛。燃えるような深紅の瞳と、月光を溶かしたような銀の髪を持つその美貌は、社交界でも広く知られていた。


 もっとも、彼女の名を口にする者たちは、称賛と同じくらいの恐れを込めて囁く。


 ――最凶公爵令嬢。


 そう呼ばれる理由は、単純だった。


 彼女に敵意を向けた者は、例外なく破滅してきたからだ。


 レティシアを侮辱した伯爵家の嫡男は、その三日後に一族ぐるみの脱税が発覚し、家督継承権を剥奪された。舞踏会の最中、彼女のドレスに故意にワインをこぼした侯爵令嬢は、その翌週には父親の不正融資が表沙汰となり、泣きながら領地へ引きこもった。


 誰も証拠は掴めない。


 だが、誰もが知っていた。


 レティシア・アシュベルンを敵に回してはならない、と。


「お嬢様」


 低く落ち着いた声とともに、一人の男が静かに一礼した。年配の執事、セバスチャンである。背筋は寸分の狂いなく伸び、その立ち姿からは長年公爵家に仕えてきた者だけが持つ威厳が滲んでいた。


「王城より招待状が届いております」


 銀盆の上に置かれた封書を差し出され、レティシアは視線だけを向ける。


「こんな時間に?」


「はい。急ぎのようでございます」


 レティシアはカップをソーサーに戻し、封書を受け取った。封蝋には王家の紋章。指先でそれを無造作に割り、中の紙へざっと目を走らせる。


 数秒後、彼女は小さく鼻で笑った。


「親睦会、ですって」


 その声音には、欠片ほどの愉快さもなかった。


「殿下主催の夜会とのことですが」


「ええ。表向きはね」


 レティシアは招待状をテーブルに置いた。その仕草は静かで優雅だったが、薄い紙片がまるで価値のない塵であるかのような冷たさがあった。


「実際は違うわ。これは親睦会ではなく、断罪劇の舞台装置よ」


 セバスチャンはわずかに目を伏せる。


「やはり、そのようにお考えになりますか」


「考えるまでもないでしょう」


 王都ではここ最近、一つの噂が急速に広がっていた。


 王太子エドガルドが、子爵家出身の少女に深く心を奪われているというものだ。


 少女の名は、フィオナ・ルミエール。


 平民にも分け隔てなく接する優しさと、稀有な治癒魔法の才を持つことから、王都ではすでに“聖女”のように扱われ始めている。純真無垢で、誰にでも笑顔を向け、涙を見せれば男たちは守るべき存在だと思い込む。そういう種類の女だった。


 そして、そのフィオナが社交界で怯えるたびに口にしたのが、決まって同じ名前だった。


 ――レティシア様が怖いのです。

 ――わたくし、何かお気に障ることをしてしまったのでしょうか。

 ――でも、わたくし……殿下のご迷惑にはなりたくなくて……。


 直接的な非難はしない。


 だが、そういう女に限って最も多くを語る。泣きそうな目、震える声音、周囲に判断を委ねる曖昧な言葉。それだけで、勝手に周囲が敵を作り上げるのだ。


 今回の標的は、レティシアだった。


「殿下は、ずいぶんと安い芝居を好むようになったものね」


「出席は見送られますか?」


 セバスチャンの問いに、レティシアは一拍だけ沈黙した。


 暖炉の火が小さく爆ぜる音が、やけに鮮明に響く。


「いいえ」


 やがて彼女は、静かに立ち上がった。


 黒を基調とした夜着の裾が揺れ、雪の夜よりなお冷たい空気が広間に広がったような錯覚を覚える。


「出席するわ」


「……よろしいのですか」


「むしろ好都合でしょう。わたくしを悪役に仕立て上げ、皆の前で見世物にしたいのであれば」


 レティシアは深紅の瞳を細めた。


「その舞台で、誰が最後に立っているか教えて差し上げるだけよ」


 セバスチャンは深く一礼する。


「かしこまりました。では、夜会用のご衣装を」


「一番目立つものを。そうね、黒ではなく深紅にしましょうか」


「承知いたしました」


「せっかく用意してくださった断罪劇ですもの」


 レティシアは、ほんのわずかに唇を吊り上げた。


「主役が地味では、興醒めでしょう?」


 その微笑みを見た瞬間、長年仕えてきたセバスチャンですら背筋に冷たいものが走るのを覚えた。


 王都の貴族たちが恐れる“最凶”の名は、伊達ではない。


 レティシアは決して感情的ではなかった。怒鳴らず、泣かず、喚かない。だが、一度自分を敵と定めた者には、逃げ道を残さない。盤上の駒を一つずつ潰すように、整然と、完璧に、容赦なく壊す。


 そして何より恐ろしいのは、彼女自身がそれを正義とも悪とも考えていないことだった。


 ただ当然の報いとして処理しているだけ。


 そこに迷いがないからこそ、人は彼女を恐れた。


 翌日、王城の大広間は華やかな光に満ちていた。


 天井から吊るされた巨大なシャンデリア、壁際を飾る金細工、甘い香水と酒の匂い、笑い声、ざわめき。貴族たちは皆、きらびやかな衣装をまといながら、それでも今夜の主題が舞踏でも歓談でもないことを知っていた。


 誰もが待っている。


 王太子による断罪の瞬間を。


「レティシア・アシュベルン様のご到着です」


 高らかな声が響いた瞬間、大広間の視線が一斉に入口へ向いた。


 そこに立っていたのは、深紅のドレスをまとったレティシアだった。


 鮮やかな赤は下品さとは無縁で、むしろ彼女の冷たい美貌を際立たせる。銀の髪はゆるやかに結い上げられ、首元にはアシュベルン家の紋章を象ったルビーの首飾り。まるで血と氷を同時に形にしたような姿に、場の空気が一瞬で張り詰めた。


「……来たぞ」 「本当に来るなんて」 「さすがに顔色一つ変えないのね……」


 囁き声が方々で漏れる。


 憐れみ。嘲笑。好奇心。敵意。

 そうした感情の一つひとつが、レティシアには驚くほどどうでもよかった。


 彼女は背筋をまっすぐ伸ばしたまま、大広間の中央へ進む。その足取りに一切の乱れはない。まるで断頭台へ向かう囚人ではなく、この城のすべてが自分のためにあると知っている女王のようだった。


 やがて、壇上に立つ王太子エドガルドが声を上げた。


「レティシア・アシュベルン!」


 広間のざわめきが止む。


 エドガルドは端正な顔立ちをしていた。金髪に青い瞳、鍛えられた体躯。確かに見目だけなら王太子として申し分ない。だが今、その表情に浮かんでいるのは高潔さではなく、自分が正義を執行するのだという薄っぺらい陶酔だった。


 その隣には、白いドレスに身を包んだフィオナがいる。いかにも儚げに俯き、今にも泣きそうな顔で胸元に手を当てていた。


 見事な構図だ、とレティシアは思う。


 愚かな王太子。可憐な被害者。悪役令嬢。


 安い恋愛劇の舞台としては、よくできている。


「お前の悪行は、もはや見過ごせぬ!」


 エドガルドが朗々と宣言する。


「これまでお前は、フィオナを執拗に脅し、社交界で孤立させ、さらには命を狙うような真似までしてきた! そのような邪悪な女を、私は王家の一員として迎え入れることはできん!」


 ざわっ、と大広間がどよめいた。


 何人かは最初から知っていた筋書きだろう。だが、知らなかった者たちもまた、この場の空気に呑まれ、真実より先に“断罪劇が始まった”という事実に酔い始めていた。


 人は集団になると、証拠より空気を信じる。


 それはレティシアにとって、とうに見飽きた光景だった。


「よって私はここに宣言する!」


 エドガルドは一歩前に出て、声をさらに張り上げる。


「レティシア・アシュベルン! お前との婚約を破棄する!」


 広間のあちこちから息を呑む音がした。


 ついにその言葉が出た。誰もが期待していた、断罪劇の頂点。王太子の婚約破棄宣言により、高慢な公爵令嬢は地に落ちる――そのはずだった。


 だが。


「……それで?」


 レティシアの返答は、あまりにも平坦だった。


 大広間が凍りつく。


 エドガルドも一瞬、言葉を失ったように目を見開く。


「何……?」


「お話は以上ですか、とお聞きしたのです」


 レティシアは小首を傾げた。仕草だけを見れば優雅ですらある。だがその瞳には、目の前の王太子を王家の継承者ではなく、騒がしいだけの無能な子供として見る冷たさがあった。


「ずいぶんと自信満々にお話しでしたけれど。証拠は?」


「証拠ならある!」


 苛立ちを露わにしたエドガルドが手を振ると、側近の一人が一通の書簡を掲げた。


「これだ! これはお前が配下の者へ命じ、フィオナを排除しようとした証拠の手紙だ!」


 ざわめきが再び広がる。


 レティシアはそれを一瞥しただけで言った。


「偽物ですわね」


 あまりにも即答だった。


「なっ……!」


「まず筆跡が違う。似せようとはしていますけれど、筆圧の癖が甘い。わたくしは語尾を払うとき、ここまで乱れません」


 レティシアは壇上から距離があるにもかかわらず、まるで手元で見ているかのように淡々と告げる。


「次に封蝋。確かにアシュベルン家の紋章を模していますが、使われている型が古い。半年前に更新したこともご存じないのね」


 王太子の側近の顔が強張った。


「さらに言えば、その紙に使われているインクは南方産。わたくしの執務室で用いているのは北方産ですわ。発色が微妙に違いますもの」


 大広間にいた貴族たちの間で、さっきまでの熱気が困惑へ変わっていく。


 断罪されるはずの女が、怯えるどころか証拠の粗を即座に指摘している。その事実が、何より空気を揺るがした。


 エドガルドは声を荒げる。


「苦し紛れの言い逃れだ!」


「いいえ、事実です」


 レティシアは一歩だけ前へ出た。


「そもそも、わたくしが本気で誰かを排除する気なら」


 深紅の瞳が細められる。


「手紙などという、これほど分かりやすい証拠を残すほど愚かではありません」


 空気が、完全に凍った。


 その一言は否定ではない。脅しでもない。ただ事実を述べただけのような声音だった。だからこそ恐ろしい。


 フィオナが小さく息を呑み、エドガルドの頬が引きつる。


 だがレティシアは構わず続けた。


「殿下。あなたは一つ、決定的に間違えております」


「何を……」


「わたくしを断罪するには、準備が足りません」


 その瞬間だった。


 大広間の扉が勢いよく開かれる。


 場違いなほど張り詰めた足音とともに現れたのは、王国第一騎士団長、王城財務卿、そして国王直属の監査官だった。どれも本来、この程度の夜会に顔を出す面々ではない。


 エドガルドが眉をひそめる。


「何事だ、無礼だぞ!」


 だが先頭の監査官は、王太子へ一礼しながらも、その声に一切の遠慮を含まなかった。


「エドガルド殿下。至急ご報告申し上げます。殿下の側近数名に、公文書偽造、収賄、及び虚偽申告に関する重大な嫌疑が生じました」


「……は?」


 場が一気に騒然となる。


「また、聖女フィオナ・ルミエール殿に関する複数の証言が提出されております。内容は、社交界において故意に虚偽の被害を訴え、特定人物を陥れようとした疑いについてです」


 フィオナの顔色が、一瞬で血の気を失った。


「ち、違います……っ、わたくし、そんな……」


「違わないわ」


 レティシアは静かに告げた。


 その声は、今にも泣き崩れそうなフィオナの震えた声より、よほど小さい。だが、大広間の誰もがその一言を鮮明に聞き取った。


「あなたはわたくしを恐れていたのではない」


 レティシアの紅い瞳がまっすぐフィオナを射抜く。


「わたくしを悪役に仕立てれば、自分が“守られる側”でいられると理解していた。違うかしら?」


 フィオナの唇が震える。


「そ、それは……」


「泣けば許される。震えれば庇われる。曖昧に言えば周囲が勝手に補完してくれる。実に効率的ね。自分の手を汚さずに敵だけを増やせるのだから」


「やめろ、レティシア!」


 エドガルドが怒鳴る。


 だがその怒声は、さきほどまでの威勢を失っていた。むしろ自分の足元が崩れ始めたことに対する焦りが滲んでいる。


 レティシアはようやく彼へ視線を移した。


「殿下も同じです」


「何だと?」


「可哀想な少女を救う正義の王太子。その役を演じるのは、さぞ気分が良かったでしょう」


 その言葉は鋭かった。だが、ただ刺すための毒ではない。相手の行動原理を正確に言い当てる、冷酷な診断だった。


「わたくしが気に入らなかったのではありません。ただ、あなたにとって都合が悪かったのです。アシュベルン家を御しきれぬことも、わたくしが媚びぬことも、自分の見たい物語に付き合わなかったことも」


 エドガルドの顔が赤くなり、次いで青くなる。


「黙れ……!」


「黙りませんわ。ここはわたくしの断罪の場なのでしょう? でしたら最後まで見届けなさいな」


 レティシアはそう言って、静かに微笑んだ。


 王都の貴族たちが最も恐れた、あの微笑みだった。


「あなた方は、わたくしを追い詰めたつもりでいた。けれど実際には、自分たちの立つ床板を削りながら踊っていただけですのよ」


 その瞬間、騎士団長の合図で数名の騎士が動いた。王太子の側近たちのもとへ向かい、その場で拘束を始める。


「なっ、何をする!」 「離せ! 俺は殿下の側近だぞ!」 「無礼者――!」


 悲鳴と怒号が響く中、誰ももうレティシアを断罪される側だとは思っていなかった。


 盤面は、完全にひっくり返っていた。


 そしてその中心に立つレティシアは、最後まで表情を崩さない。


「さて」


 彼女はゆっくりとドレスの裾を摘まみ、優雅に一礼した。


「茶番は終わりです。続きは、もっと然るべき場所でなさいませ」


 深紅のドレスが翻る。


 誰も引き止められないまま、レティシア・アシュベルンは大広間を後にした。


 その背を見送りながら、貴族たちはようやく悟る。


 この女は悪役ではない。


 正義でもない。


 ただ、敵に回してはならない存在だったのだ、と。


 そしてその夜、王都は新たな確信とともに彼女の名を囁くことになる。


 ――最凶公爵令嬢、と。

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