第3話 聖女は涙では救われない
翌朝の王都は、静かな熱に浮かされていた。
表通りのカフェでは給仕たちが声を潜め、貴婦人たちは朝の茶会で扇を口元に当て、役人たちは出仕早々に同僚の顔色を窺う。話題は一つしかない。
昨夜、王城で起きた断罪劇。
王太子エドガルドが公衆の面前で婚約破棄を宣言し、最凶公爵令嬢レティシア・アシュベルンを断罪しようとしたこと。だがその場で提示された証拠は偽物と看破され、逆に王太子の側近たちが拘束されたこと。さらに“聖女”フィオナに対しても、虚偽申告の疑いが持ち上がったこと。
人は確定した真実より、刺激の強い途中経過を好む。
ゆえに噂は爆発的に広がった。
そしてその頃、渦中の一人であるフィオナ・ルミエールは、王城内に与えられている客室で、震える指先を握り締めていた。
「どうして……どうして、こんなことに……」
白いレースのカーテン越しに差し込む朝の光が、床に細い影を落としている。整えられた調度、上質なベッド、花の香りを焚き込めた室内。半年前まで子爵家の娘として慎ましく暮らしていた頃には、想像もできなかった部屋だった。
だが今、その豪奢さは少しも彼女を慰めない。
昨夜から何度も繰り返し思い出してしまうのは、レティシアの紅い瞳だった。
怒りも、嫉妬も、憎しみもなかった。ただ、すべてを見透かしたうえで淡々と事実を告げる、あの目。
あれは、フィオナがこれまで向けられてきたどんな視線とも違った。
哀れみでもない。敵意でもない。
価値の査定だった。
自分がどの程度の人間なのか、どこまで見抜かれているのか、逃げられる余地があるのか。それを一瞬で測られたような感覚が、胸の内側に冷たく残っている。
「フィオナ様」
控えめなノックのあと、侍女が室内へ入ってきた。
「お召し物をお持ちいたしました。……その、朝食は」
「いらないわ……」
フィオナは小さく答えた。泣き腫らした目元を隠すように俯く。
「殿下は?」
その問いに、侍女は一瞬だけ言葉を詰まらせた。
「本日は、政務にてお取り込み中とのことで……」
その瞬間、フィオナの胸にじわりと不安が広がった。
昨日までなら、エドガルドは朝一番に顔を見せてくれた。たとえ短い時間でも、優しい声で「大丈夫だ」と言ってくれた。彼がそう言うだけで、自分は守られているのだと信じられた。
だが今日は来ない。
いや、来られないのだろうか。
昨夜の一件で、彼自身も追い詰められているから。
「……そう」
フィオナは絞り出すように言った。
「でしたら、あとで伺うと伝えて」
「かしこまりました」
侍女が退室したあと、フィオナはゆっくりと顔を上げた。鏡台に映る自分の姿は、我ながらひどかった。目は赤く腫れ、頬は青白い。
だが、それでもまだ大丈夫だと思いたかった。
自分は悪くない。
自分はただ、怖かっただけだ。
レティシアのような恐ろしい女に睨まれ、殿下の婚約者として冷たい視線を向けられたら、誰だって委縮する。少し泣いてしまったことがあったとしても、それは仕方のないことだ。周囲が勝手に話を大きくしただけ。そう、全部、自分のせいではない。
その理屈を何度も心の中で反芻する。
だが、人間の認知は面白いもので、自分に都合のよい解釈を繰り返すほど、逆に違和感は濃くなる。
本当に悪くないのなら、なぜ殿下は来ないのか。
本当に誤解だけなら、なぜ監査官や騎士団長まで動いたのか。
本当に自分が守られる側なら、なぜ昨夜の会場で誰も助けてくれなかったのか。
そうした問いが、言い訳の隙間からじわじわと染み込んでくる。
だがフィオナは、その問いを真正面から見なかった。
見てしまえば、自分が壊れるからだ。
代わりに彼女が選んだのは、もっと単純で、もっと短絡的な答えだった。
――レティシアが悪い。
あの女が、全部壊したのだ。
あの女さえいなければ、殿下は今も優しかった。あの女さえ黙って断罪されていれば、自分は可哀想な聖女のままでいられた。
思考がそこへ着地した瞬間、フィオナの心は一時的に安定した。
自責より他責の方が、人はずっと楽だからだ。
「……そうよ」
鏡の中の自分へ言い聞かせるように、フィオナは小さく呟く。
「わたくしは悪くない。だって、本当に怖かったもの」
その一方で、アシュベルン公爵邸では朝食の席が静かに整えられていた。
長い食卓の上には、焼き立てのパン、温かなスープ、香草を使った卵料理、果物の盛り合わせが並ぶ。だが広い食堂に座るのは、アルベルト公爵とレティシアの二人きりだ。
「今朝の新聞には何も載っておりません」
食後の紅茶を注ぎながら、セバスチャンが報告する。
「当然ですわね」
レティシアはバターを薄く塗ったパンを口に運びながら、平然と答えた。
「新聞に正式な情報が落ちるには、まだ早いもの。ですが、社交界の方が先に広がる」
「火消しは入るだろう」
向かいの席で公爵が言う。
「王城内の事実関係を整理する前に、噂だけが独り歩きするのを嫌う者は多い」
「ええ。だからこそ有効です」
レティシアはカップを持ち上げる。
「正式発表は制御できても、貴族たちの印象は制御しづらい。しかも昨夜は目撃者が多すぎました。王家が一方的な説明で塗り替えるには、観客が多すぎる」
これは認知科学的にも合理的だ。
人は自分が直接見聞きした情報に強く引っ張られる。たとえ後から訂正が入っても、最初の印象を完全には捨てない。いわゆるアンカリングである。
昨夜の観客たちは、レティシアが堂々と反撃し、側近たちが拘束される場面を目撃した。その印象は、今後どんな王家の説明が出ても消えない。
「本日の予定は」
公爵の問いに、レティシアは迷いなく答える。
「午前中は家におります。午後に来客があるでしょうから」
「王城からか」
「おそらく。使者をよこして様子を探るはずです。謝罪ではなく、探りですわ」
「謝罪は期待していないのだな」
「する理由がありませんもの。人は自分の誤りを認める時、相応のコストを払う覚悟が必要です。殿下にも、その周辺にも、それはないでしょう」
公爵は満足げに頷いた。
その時、食堂の外から控えめな足音が近づく。侍従が入室し、恭しく一礼した。
「旦那様、お嬢様。王城より使者が参っております」
「ほら、ご覧なさい」
レティシアは紅茶を置き、微笑んだ。
「予想どおり」
応接間へ通された使者は、王太子付きではなく、王妃宮に属する文官だった。
それだけでメッセージは明確だ。
王太子の問題として単独処理するのではなく、王家全体の火消しとして動き始めたのである。
文官は緊張を滲ませながらも、礼を失しないよう慎重に言葉を選んだ。
「昨夜は、誠に……混乱した場となりました」
「混乱、ですか」
応接間のソファに腰かけたレティシアは、露骨に皮肉を挟むことなく問い返す。だが、その一言だけで相手に語彙の選び直しを強いるには十分だった。
「失礼いたしました。不適切な事態でございました」
「そのようですわね」
正面に座る文官は、一瞬だけ喉を鳴らした。
目の前の令嬢は、美しく、若く、声音も穏やかだ。だが、下手な言い回しをすればその場で切り捨てられるという確信がある。これは威圧ではない。相手の頭の中で、自動的にリスク計算が始まっている状態だ。
「王妃殿下は、昨夜の件について深く憂慮されております。まずはアシュベルン家に対し、王家として遺憾の意をお伝えしたいと」
「遺憾」
レティシアはその語をゆっくり繰り返した。
「便利な言葉ですわね。謝罪にも、責任にも、補償にも繋がらない」
文官の顔が引きつる。
「もちろん、事実関係の精査が済み次第、改めて――」
「でしたら、その精査が済んでからお越しになるべきでしたわ」
レティシアは柔らかな笑みを崩さない。
「何も定まっていない段階で“遺憾”だけを持って来られても、こちらは反応のしようがありませんもの」
これは交渉の初動として正しい。
中途半端な曖昧表現にこちらが感情的に反応すれば、相手は「ひとまず話を受けた」という既成事実を作れる。だから受けない。評価しない。保留する。主導権を渡さないためには、それが最も合理的だ。
文官は慎重に言葉を継いだ。
「加えて、王妃殿下はレティシア様にもご心痛があったことと案じておられます。できれば近日中に、一度、お茶の席を――」
「お断りいたします」
即答だった。
文官は目を見開いた。
「……理由を伺っても」
「今わたくしが王家と親しげにお茶をすることに、どのような意味がございますの?」
レティシアは首を傾げる。
「昨夜、王太子殿下は多くの貴族の前で、わたくしに婚約破棄と断罪を言い渡されました。そこに王家としての整理がなされぬまま、わたくしだけが王妃殿下と和やかにお茶をする――それは何を示すのかしら」
文官は答えられない。
答えは明らかだからだ。王家にとって都合のよい“和解演出”になる。つまり、レティシアが王家の火消しに協力したことになる。
それを彼女は、最初から見抜いていた。
「わたくしは感情論で怒っているのではありません」
レティシアの声は静かだった。
「ただ、整理されるべき順序があると言っているだけです。王家が先に行うべきは、被害を受けた側へ曖昧な茶席を勧めることではなく、昨夜の公式見解を明らかにすることではなくて?」
文官は深く頭を下げた。
「……ごもっともです」
「でしたら、本日はそれで十分ですわ。王妃殿下には、わたくしもまた王家の正式なお言葉をお待ちしているとお伝えください」
使者が去ったあと、応接間に残ったのはレティシアとセバスチャンだけだった。
「見事にお断りになりましたな」
「当然でしょう」
レティシアは足を組み替える。
「ここで曖昧な茶会に応じれば、“レティシア様もご理解くださった”という物語に変換されるだけですもの」
「相手の筋書きを拒否したと」
「ええ。人は物語に乗った瞬間、自分の解釈権を失うわ」
その頃、王城ではフィオナがようやくエドガルドとの面会を許されていた。
だが、そこで彼女が見たのは、昨夜までの優しい王太子ではなかった。
書類の積まれた机の前で立ち尽くすエドガルドは、明らかに苛立っていた。寝不足なのか、目の下には薄く隈ができている。
「殿下……」
フィオナが涙ぐんだ声で呼びかける。
普段なら、その一声で彼は振り向き、気遣いの言葉をくれた。だが今日は違った。
「フィオナ。昨夜のことだが」
その声音は硬い。
それだけで、フィオナの胸は嫌な音を立てた。
「お前、本当にレティシアから脅されたのか?」
彼女の呼吸が止まる。
それは、今もっとも聞かれたくない問いだった。
「ど、どういう意味ですか……?」
「そのままの意味だ。お前は確かに、何度も怯えていた。だが、監査官のところには、お前が自分から噂を流していたという証言も届いている」
「そんなの、嘘です……!」
フィオナは反射的に涙をこぼした。
「わたくし、怖かっただけです! 殿下だけが頼りで、だから……!」
だがその言葉を口にした瞬間、彼女は気づいてしまう。
それが、昨夜までなら通用した言い方だということに。
今のエドガルドは、すでに周囲から詰められている。自分が守っていたはずの相手のせいで、立場を危うくしているかもしれないと疑い始めている。そんな相手に、「頼りは殿下だけでした」は重い。
守る快感を刺激する言葉が、今は責任の押しつけに聞こえる。
人は自分に余裕がある時ほど他人を救いたがり、余裕を失うほど自己保全に走る。
エドガルドもまた、その例外ではなかった。
「……少し、頭を冷やせ」
結局、彼が絞り出したのはそれだけだった。
「殿下……」
「今はこれ以上話せん」
フィオナは唇を震わせた。
泣けば守られると思っていた。怯えれば、相手が譲歩すると信じていた。だが今、涙は何も動かさない。
その現実が、ようやく彼女の足元を崩し始める。
そして彼女はまだ気づいていない。
ここから先、自分を本当に追い詰めるのは、レティシアの怒りではなく、自分自身の選択の積み重ねだということに。
王都の空は晴れていた。
だが、その水面下ではすでに、次の波が静かに広がり始めている。
最凶公爵令嬢はまだ動いていない。
それでも、周囲は勝手に崩れ始めていた。




