第9話 薩摩魂、吼える
風を切る音とともに着地した二人は、間髪入れずに動き出した。
「翠様、下がっていてください!」
桔梗さんが叫ぶと同時に、私を庇うように前へ躍り出る。
その手には、いつの間にか抜き放たれた漆黒の短剣が握られていた。
──来る。
私がそう思うよりも早く、二発目の銃声が空気を裂いた。
狙いは、私。
「甘い」
キィンッ!!
桔梗さんの短剣が、まるで初めから軌道を知っていたかのように弾丸を弾き飛ばす。
金属同士がぶつかる甲高い音が響き、火花が一瞬だけロビーを照らした。
「弥生様はこちらに」
菊乃さんは弥生ちゃんを抱き寄せながら、片手で印を結ぶ。
床のタイルの隙間から瞬時に伸びた蔦が幾重にも編み込まれ、盾のように二人を覆った。
三発目の銃弾は、その青々とした蔦の壁にめり込んで止まる。
──二人とも、次元が違う。
私は頭の中で戦況を組み立て直す。
発砲の間隔、反響する音の方向、吹き抜けの上に連なるフロアの手すり。
「桔梗さん! 発砲は同じ建物内、上のフロアからです! 吹き抜け越し、16階あたりの柱の陰です! 距離と角度からして、もう次弾までに5秒はかかりません!」
「かしこまりました」
桔梗さんの返事と同時に、その姿がぶれる。
瞬きの間に、彼女はもう上階の手すりの上に立っていた。
「──遅い」
小さく呟いた声とともに、桔梗さんの短剣が閃く。
狙撃手が身を隠していたはずの装飾柱が、爆ぜるように砕け散った。
破片が吹き抜けの底へと舞い落ちる中、けれど──銃声は、止まなかった。
「もう一人!?」
私は思わず声を上げた。
今度は先程とは違う角度、反対側の上階から赤い点が照射される。
狙いは──弥生ちゃん。
弥生ちゃんに向けて……?
私の中で、何かが弾けた。
「──ふざけんなっ!!! 何も悪かこつしとらん子ば狙うとは、わっぜ許さんど!!! ぶっ飛ばしてやっど、このボケがぁぁぁ!!!」
普段の丁寧な口調はどこかへ消え失せ、鹿児島弁が奔流のように溢れ出す。
同時に、身体の奥底から魔力が制御を失ったかのように溢れ出すのを感じた。指先から、肌の表面から、まるで陽炎のように魔力が滲み出し、辺りの空気が揺らめく。
「翠様、お抑えください!! それ以上は──」
桔梗さんの声に、明確な焦りが滲んでいた。
けれど、その声はもう私の耳に届いていなかった。
視界の端で、自分の瞳が変わるのが分かった。
熱い。焼けるように、熱い。
パキンッ、と何かが弾けるような感覚と共に、世界の速度が変わる。
狙撃手の指が引き金にかかる、その一瞬。
私の視界の中で、その男の姿だけが──止まっていた。
いや、止められていた。私の瞳によって。
「弥生ちゃんには……指一本、触れさせない」
自分でも驚くほど、静かな声だった。
止まった男の周囲の空間が、ピシリ、ピシリと音を立てて軋み始める。まるで見えない氷に閉じ込められていくように、狙撃手の輪郭が薄れていく。
「菊乃さん、今のうちに!」
私の声に応じ、菊乃さんの蔓が、凍りついたように動けない男の潜む上階の手すり際へと一直線に伸びていく。
ドォンッ!!
轟音と共に、手すりごと蔦に飲み込まれる音が響いた。
そして──静寂。
視界が、元の色に戻る。
同時に、耳鳴りとともに、どっと疲労感が押し寄せた。
「翠様……」
桔梗さんが、私の顔を覗き込んだ。その顔は、安堵よりも先に、何かを堪えるような表情をしていた。
「……今のは、」
「後で、ご説明いたします。今は──」
桔梗さんは私の瞳を見つめ、僅かに息を呑んだ。
私の瞳の奥には、青く仄かに揺らめく魔力の残滓が、うっすらと滲んでいた。
それは紛れもなく"青"でありながら、どこか見慣れた青とは違う、異質な輝きを孕んでいた。
「……まさか」
桔梗さんの唇から、微かな声が漏れた。
それは驚きとも、確信とも取れる、抑えきれない響きだった。
「桔梗さん?」
「……いいえ、何でもございません。今は、それより──」
そう言って、桔梗さんは何かを振り切るように、いつもの穏やかな表情に戻した。だが、私の瞳から一瞬たりとも視線を逸らさなかったその目には、微かな警戒の色が残っていた。
「……終わりましたか」
我に返ったように、桔梗さんはいつもの声色に戻ってそう呟いた。
彼女の言葉に、私はまだ緊張を解けずにいた。
『本当に、これで終わり?』
私はふと、蔦に飲み込まれた上階の手すりを見上げる。
菊乃さんの蔓がゆっくりとほどけていくが、その奥には誰の姿もなかった。
けれど──なぜだろう。
蔦の隙間に、血の一滴も落ちていない。
まるで、最初から誰もいなかったかのように。
『……逃げられた?』
言葉にはしなかったが、その違和感は確かに、私の中に残った。
「すーちゃん、桔梗さん、こっちー!」
弥生ちゃんの明るい声で、私は我に返る。
その時、少し離れた場所から声が聞こえた。
「弥生様、遅くなり申し訳ございませんでした。お怪我はありませんでしょうか?」
「うん、大丈夫だよ! あそこにいるすーちゃんが一緒に居てくれたから怪我もしてないよ」
菊乃さんが弥生ちゃんの前に膝をつき、優しく頭を撫でる。
その光景を横目に見ながら、桔梗さんが私の方へ向き直った。
「翠様、ご無事でしょうか? 私、すごく、すごーくお探ししましたわ! どちらへいらっしゃっていたのですか。」
そう言った桔梗さんの目には、僅かに涙が滲んでいた。
先程までの戦闘の張り詰めた表情とは、まるで別人のように。
「……ごめんね、桔梗さん。心配かけて」
私がそう言うと、桔梗さんは首を振り、私をぎゅっと抱きしめた。
「ご無事なら、それで──それで、良いのです」
その腕の中で、私はさっき感じた違和感と、そして自分の瞳の奥に残った、あの"青"のことを、まだ誰にも言えずにいた。




