第22話 翡翠の名前、一年分の想い
一年。
その月日を、私はほとんど知らない。
まぶたの向こうに、白い光を感じた。瞳を開けると、そこには見知らぬ天井があった。木の香りに混じって、微かに薬草のような匂いが漂っている。
目を覚まして最初に感じたのは、柔らかな布団の感触だった。
窓の外には、見覚えのある稜線──桜島が見えた。ただし、以前見た時よりも、随分と近い。
傍らの椅子には、一人の女性が背筋を伸ばして静かに控えていた。眠っているようには見えない、隙のない佇まいだった。
──黒金家に仕える「七番」の侍女、黒崎撫子さん。
その人物のことを、私は後になって知ることになる。
私が目を開けていることに気づくと、彼女は僅かに目を見開いた。それから、落ち着いた所作で立ち上がった。
「……お目覚めになられましたか」
そう静かに告げると、彼女は音を立てずに部屋を後にした。
しばらくして、息を切らした月愛が部屋に飛び込んできた。制服姿のまま、鞄すら下ろしていない。
「……本当に、目が覚めたのね……!」
学業の合間を縫って、幾度となくこの部屋に顔を出していたのだろう。
その瞳には、隠しきれない疲労と安堵が滲んでいた。
「一年も、こうして眠ったままだったのよ。学校が終わるたびに、屋敷の用事の合間を縫って、様子を見に来ていたの……。ここのお世話係の皆が、ずっと付きっきりで看てくれていたわ」
「……ありがとうございます。ご迷惑を、おかけしました」
「迷惑だなんて、思ったこと、一度もないわ」
月愛は、涙を堪えるように笑った。
私は、自分の手を見下ろす。
指先が、小さい。
記憶にあった青年の体つきは、もうどこにもなかった。
慌てて視線を巡らせ、近くに置かれた鏡を手に取る。
映っていたのは──記憶にある自分とは、似ても似つかない顔だった。
艶やかな蒼黒髪、翡翠色の瞳、そして左目の下の泣きぼくろ。
『……嘘だろ』
見間違えようがなかった。
あの日、水たまりに映っていた「混ざり合っている途中」の顔ではない。
この目元も、頬の線も──幼さはあっても、紛れもなく雪さんの面影を宿していた。
まるで、雪さんの子供時代を、男の子として描き直したような。
そんな錯覚すら覚える顔だった。
「な、なんだこれ……! 美少年にも程があるだろ、これ!?」
思わず口をついて出た素の反応に、部屋の空気が一瞬止まった。
月愛が、きょとんとした顔で私を見ていた。
「あ……いえ、その、失礼しました……」
慌てて取り繕いながらも、鏡の中の自分から目が離せなかった。
これが、今の自分。
実感が追いつかないまま、私はしばらく、その「見知らぬ美少年」を凝視し続けていた。
「そういえば……」
月愛が、何かを思いついたように顔を上げた。
「あなた、まだ名前がなかったわよね。……あなたのその瞳、とても綺麗な翡翠みたいな色をしているの。だから──」
少し照れたように、けれど迷いのない声で、彼女は続けた。
「『翠』っていうのはどうかしら。今のあなたに、ぴったりだと思うの」
その名前を、私はゆっくりと口の中で繰り返してみた。
──翠。
不思議と、しっくりきた。
かつての「高野山陵」という名前よりも、今の自分には、よほど馴染む響きだった。
「……いい名前だと、思います」
私がそう答えると、月愛は花が咲くように笑った。
「良かった! 今日から、あなたは翠よ」
けれど──胸の奥に灯る翡翠色の熱だけは、あの夜と変わらず、静かに息づいたままだった。
ここは、市内の本邸ではなく、霧島にある別邸だと、後から聞かされた。
療養のため、隆盛さんと数名のお世話係が、この一年、付きっきりで世話をしてくれていたのだという。
月愛が、そっと私の手を握った。
「これから、よろしくね」
そう言って微笑む月愛の目の下には、うっすらとした隈が見えた。
後になって知ったことだが、月愛はこの一年、毎日欠かさず、私の回復具合を書き留めたノートを付けていたのだという。
それは、自分のために傷つき倒れた人を前に、あの時何もできなかったという悔しさが、そうさせたのかもしれない。
目に見える変化を記録することだけが、彼女にできる、せめてもの償いだったのだろう。
『……こんなにも、案じてもらえていたんだ』
そのノートの存在を知った時、私はようやく、この一年、決して一人ではなかったのだと実感した。
その短い一言に、少しずつ、実感が追いついてくる。
この世界に、ようやく自分の居場所ができたのだと。
けれど──ふと、扉の外の廊下に、一瞬だけ人の気配を感じた。
覗いてみると、そこには誰もいない。
ただ、微かに、床板の軋む音だけが、遠ざかっていくのが聞こえた気がした。
『……気のせい、だろうか』
一年ぶりに開いたこの世界は、優しさに満ちていた。
けれど、その優しさの奥底に、何かが静かに息を潜めている──そんな予感だけが、拭いきれずに残っていた。




