第21話 名もなき恩人、崩れ落ちる意識
少女を背負い、山道を彷徨っていた。
夜の森は、思いのほか冷たかった。木々のざわめきが、まるで追手の足音のように耳を掠める。背中に感じる少女の弱々しい体温だけが、私を現実に繋ぎ止めていた。
方角も分からない。土地勘もない。ただ、麓へ、麓へと、本能的に足を進め続けるしかなかった。
どれほど歩いただろうか。
全身が鉛のように重く、意識が薄れかけた、その時だった。
「そこで止まれ!」
前方の茂みから、複数の灯りと共に鋭い声が飛んできた。武装した男女が、こちらに得物を向けている。
「お嬢様を背負っている……! まさか、犯人の一味か!?」
「違う、待ってくれ……この方は、無事だ」
私が声を絞り出すと、灯りの一つがこちらに近づき、月愛の顔を照らした。
「お嬢様……! ご無事だったか……!」
安堵の声と共に、緊張が一気にほどけていく。
彼らは、黒金家が総出で放った捜索隊だったらしい。
「事情は屋敷で聞く。ついてきてくれ」
そう促され、私はようやく彼らの後についていくことができた。
麓に見えてきた大きな屋敷。
捜索隊の一人が先に駆け込むと、程なくして、一人の男性が血相を変えて飛び出してきた。
「月愛!」
娘を抱きしめ、心底安堵した様子のその人物に、後から駆けつけた捜索隊の一人が声をかける。
「隆盛様! お嬢様は、この方が助けてくださったようです!」
男性──隆盛と呼ばれたその人は、それから私に向き直った。
その視線が、月愛を背負った見知らぬ青年の姿に注がれる。
「……見たところ、まだ若いようだが。君が、娘を助けてくれたのか?」
「はい。行き掛かり上ではありますが」
私は事の経緯を説明した。
霧島の山中、朽ちた摂社、八人の紫陣営の刺客。
自分が何者なのか、今はまだはっきりと答えられないこと。
そして、それでも助けたいと思ったこと。
隆盛さんは、しばらく私の顔をじっと見つめていたが、やがて豪快に笑った。
「たった一人で、紫の刺客を八人も退けたというのか。その若さで、その胆力。並の人間には出来んことだ」
意識を取り戻した月愛が、掠れた声で私を見上げた。
握られた手に、僅かな震えが伝わってきた。
安堵からくる震えだけではない。そんな気がした。
「あなたが……助けてくれたのね。ありがとう。ねぇ、お名前を聞いてもいい?」
その問いかけには、単なる礼儀以上の何かが滲んでいた。
まるで、「命の恩人」という肩書きの向こうにいる、私自身を知りたがっているような。
その問いに、私は一瞬、答えに詰まった。
かつての「高野山陵」という名前が、なぜか、もう自分のものではないような、そんな違和感があった。
「……今の私には、これといった名前が、ないんです」
「そんな……! 命の恩人に、名前がないなんて」
月愛は、心底困ったような顔をした。
それから、少し考え込むように黙り、やがてまっすぐに私を見つめた。
「……この子を、うちで引き取れないだろうか」
隆盛さんが、静かにそう切り出した。
「身寄りがないなら、なおさらだ。娘の命の恩人を、他家に渡す気にはなれん。それに──」
隆盛さんは、月愛の方をちらりと見た。
その一瞬、視線の奥に、娘を喜ばせたいという親心とは別の何かが──ほんの微かに、宿っていた気がした。
「月愛、お前もそれでいいな?」
「……はい。ぜひ」
月愛は、まだ意識が朦朧としているはずなのに、はっきりとそう頷いた。
「良かった……」
そう呟いた瞬間だった。
張り詰めていた糸が切れるように、視界が急速に暗転していく。
『ああ、これは……もう、限界、か……』
安堵と共に、意識を保つ力そのものが、砂のようにこぼれ落ちていくのが分かった。
最後に聞こえたのは、月愛の悲鳴のような声。
「ちょっと、あなた……!? 誰か、早く!」
その声を最後に、私の意識は深い眠りの底へと沈んでいった。




