第12話 微笑みの奥、揺れる姉の瞳
東京での目的を終え、本来なら日帰りで帰ってくるはずだった私と桔梗さん。しかし、向こうで突然巻き込まれた事件のせいで帰る時間が遅くなり、家に連絡したところ、義父と連絡がついた。「泊まってきなよ」と許可も出たため、結局、東京に一泊することになった……。
その後、朝方の飛行機で鹿児島へと戻ってきた私と桔梗さんは、寄り道もせず真っ直ぐお屋敷(家)へと向かったのだが……。
門をくぐった瞬間、私は微かな違和感を覚えた。
いつもの屋敷の匂い──磨き込まれた床板と、庭の金木犀の香りが、今日はどこか薄い。まるで、誰かが息を潜め、その香りごと隠しているかのように。
いつもなら聞こえてくるはずの庭師の作業音も、使用人たちが行き交う気配もない。屋敷全体が、まるで息を潜めているかのように静まり返っている。
「桔梗さん、何か……」
「……私も、今、同じことを思っておりました」
桔梗さんの声にも、僅かな緊張が滲んでいた。
玄関に近づくと、目の前には、この屋敷のご令嬢である私の義姉、黒金月愛が立ちはだかっていた。どうやら、このままでは中に入れそうにない。
義姉は私より二つ年上の十二歳で、黒金家の長女。
漆黒の美しい髪はとても長く、腰まで届きそうなほど。はっきりとした目鼻立ちに、金色の瞳を宿した力強い目が印象的で、蠱惑的な雰囲気を醸し出す美少女だ。性格は理性的で思いやりがあり、物怖じしない、真っ直ぐで優しい少女でもある。
そんな優しい優しい義姉が、《何故》か目の前にいる。
本来なら、母様と一緒に内政の仕事をしているはずの、この日、この時間帯に。
『あれ……幻覚かな……?』
ふと疑問に思い、自分の頬を摘まんでみると、痛みがあった。
後ろにいる桔梗さんを見てみると、彼女も驚愕した表情を浮かべていた。どうやら、この状況を知らなかったようだ。
月愛姉の後ろには、この屋敷で働く使用人たちがずらりと待機しており、皆、顔を伏せて私たちと目を合わせようとしない。
その中の数人と目が合うと、気まずそうに視線を逸らされた。
まるで、月愛姉の逆鱗に触れる前の、小さな嵐の予兆を肌で感じ取っているかのように。
──いつもなら、誰かしら笑顔で出迎えてくれるはずなのに。
そして、月愛姉のすぐ後ろには、使用人たちを束ねるメイド長の一人である鳳蝶さんもいた。
助けを求める意味も込めて彼女にも視線を送ると、目を逸らされた……。
その一瞬の仕草に、私は小さな引っ掛かりを覚えた。
いつもの鳳蝶さんなら、こんな時こそ気を利かせて助け舟を出してくれるはずなのに。
『嘘でしょ……!』
ただ事ではないこの状況を打開すべく、私は行動に出た。
「姉さん、ただいま。家に入りたいんだけど……」
「翠くん、おかえりなさい。桔梗と《二人》でどこに行ってたの?」
「今日は天気も良かったし、お外にお散歩に行ってたんだよ」
月愛姉には特殊な能力があり、彼女と話す際には慎重に言葉を選ばなければならない。
特に、姉の虫の居所が悪い時には……。
「ふーん、お外にお散歩ね……。ねぇ、翠くん、今日《桜島》は何回噴火したかしら?」
桜島とは、錦江湾にある鹿児島のシンボル。北岳(御岳)の高さは1,117メートル、面積は約80平方キロメートル、周囲は約52キロメートル。北岳と南岳の二つの主峰から成る複合火山である。
《噴火》と聞いて驚くかもしれないが、桜島はほぼ毎日、小規模な噴火を繰り返しており、鹿児島県民の生活の一部となっている……。
この質問をするということは、私たちの外出を怪しんでいるのだと推察できるが……。
姉よ、甘い! 今日の噴火回数はすでに把握済みなのだ!!! なんたって、帰りの飛行機の中でアナウンスされていたのだから!(ドヤァ☆)
「今日の噴火は三回だったよ! 突然どうしたの?」
私は『そんなこと知ってますよぉ~』と心の中でドヤ顔をしながら、自信満々に答えた。
そして、
「姉さんこそ、何でこの時間に家にいるの? 確か……昨日と今日は美夜義母様と一緒にお仕事……」
月愛姉に質問しようとした瞬間、一瞬で距離を詰められ、耳元で囁かれた。
「翠くん……、私が家にいちゃいけないの?」
その言葉に、私の声は遮られた。
「そっ、そんなわけないじゃないですか……。ここはあなたのお家……。いつ何時帰ってきても、何の問題もないじゃないですか……」
そう答えると、顎に手を添えられ、顔と顔が超至近距離に……。
鼻と鼻がくっつくかくっつかないかという距離で見つめられ、私は顎クイされていた……。
私と姉上を後ろから見たら、キスしているんじゃないかと思われるほどの距離感だ……。
案の定、後ろで待機していた使用人たちの中から「きゃーっ」と黄色い声が上がりかけたが──すぐに、気まずそうに押し殺された。
いつもなら、この温度差のおかしさに、思わず笑ってしまうところだ。
けれど今は──違う。誰も、笑えない。
『姉上の瞳、凄く綺麗だ……』
金色に輝く瞳に見つめられ、瞬きするのを忘れるほど魅入られてしまう。
私は心の中でそう思いつつ、次第に意識が朦朧としていく中で、
「翠くん……私、昨日の《夜》には家にいたわよ……」
「……」
姉の瞳の奥に、ほんの一瞬だけ、怒りとは違う色が見えた気がした。
──怖がっているような、確かめずにはいられないような、そんな色。
「翠くん、もう一度聞くね……。桔梗と二人でどこに行ってたの???」
その声の語尾が、ほんの僅かに震えていた。
いつもの月愛姉なら、絶対に見せない揺らぎだった。
「……」
姉の問いに何も答えられずにいると、月愛姉のもう片方の手が私の肩にパッと置かれた──いや、掴まれた。
徐々に力が加えられ、私の肩からは、聞こえてはいけないミシミシという音が鳴り始めていた……。
『えっ……。詰んでますね、これ……』
そう覚悟を決めかけた、その時だった。
月愛姉の視線が、ほんの一瞬──私の背後、屋敷の奥へと逸れた。
ほんの一瞬。
けれど、私はそれを見逃さなかった。
いつもの月愛姉なら、絶対に見せない種類の目だった。
まるで、何かを──確かめているような。




