第11話 翡翠の瞳、仮面なき裁きを下す
桔梗さんに連れられ、私は薄暗い廊下を歩いていた。
つい先ほどまでの喧騒が嘘のように、ここは静まり返っている。
「翠様、こちらです」
桔梗さんがドアを開けると、消毒液の匂いが鼻をついた。
──ここでは、いつもの帽子はいらない。仮面を外したままの私で、彼と向き合う。
ベッドの上には、包帯を巻かれた元上司の姿があった。意識はあるようだが、まだ状況を飲み込めていないのか、焦点の合わない目で天井を見つめている。
「……お前は」
私に気づいた元上司が、かすれた声を漏らす。
私はいつもどおりの穏やかな声で口を開いた。
「はじめまして、とは言いませんね。お加減はいかがですか?」
「な、なんの用だ! 俺は──」
「大丈夫ですよ。取って食おうというわけではありません。ただ、少しだけ確認させてください」
私は静かにベッドへ近づく。
「お兄さんに対して行った数々の嫌がらせ。解雇予告通知書の件。それを隠すため、会社ぐるみで行われた隠蔽工作。──合っていますか?」
「……何を、」
「お答えいただかなくても結構です。私、こう見えて、嘘か本当かくらいは分かるので」
私はそう言って、彼の目を覗き込んだ。
視界がゆっくりと染まっていく。
私の瞳の奥で、何かが熱を帯びる感覚。翡翠色の光が、闇の中でも分かるほどに強く輝き始める。
──翠魂眼。
視えた。
彼の魂は、深く淀んだ濁った色をしていた。
嫉妬。保身。そして、自分より優れた部下への、どうしようもない劣等感。
「……ひどい色をしていますね」
私は思わず、そう呟いた。
「な、なんの話だ! 何が視えたって言うんだ!」
元上司が声を荒らげる。
私は答えず、ただ静かに微笑んだまま、彼の瞳を見つめ続けた。
「では、少しだけ──未来を、見てみましょうか」
世界が、反転した。
気がつくと、元上司は見慣れた会社の廊下に立っていた。
けれど、様子がおかしい。
すれ違う社員たちは、皆、彼を見るとあからさまに顔を背ける。
「……なんだよ、これ」
会議室のドアを開けると、そこには役員たちが並んでいた。
先頭に座る上長が、冷たい目で彼を見下ろす。
「君には辞めてもらう。会社としては、今回の件は君個人の暴走だったと発表する」
「そんな……! 指示したのはあなたじゃないですか!」
「証拠があるのかね? 君を庇う人間が、この会社に一人でもいると思うか?」
誰も、彼と目を合わせようとしない。
家族に電話をかけても、つながらない。友人だと思っていた同僚も、彼の連絡先をブロックしている。
たった一人、誰にも顧みられず、社会という檻の外に放り出されていく感覚。
それは、彼自身がかつてお兄さんに与えたものと寸分違わぬ孤独だった。
「──っ、あぁぁぁ!!」
元上司は悲鳴を上げ、ベッドの上で跳ね起きた。
荒い息、脂汗、震える手。彼は、今見た「未来」がまだ現実の続きであるかのように、必死に周囲を見回している。
「大丈夫ですよ。まだ現実には起きていません」
私は変わらぬ声で、そう告げた。
「今のは、私からの……ちょっとした忠告です。このまま何もしなければ、いずれあなたを待ち受ける未来ですよ」
「や、やめてくれ……もう、やめてくれ……」
涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔で、彼は懇願するように私を見た。
「今なら、まだ間に合いますよ」
私は彼の耳元で、そっと囁いた。
「ご自身の言葉で、全部話してください。あなたが受けた指示のことも、会社が隠そうとしたことも、全部。──そうすれば、あの未来は訪れません」
「わ、分かった……分かったよ……全部話す……全部、話すから……」
すすり泣きながら、彼は何度も頷いた。
「良かった」
私はそう言って、いつもの柔らかな笑みを浮かべた。
部屋を出ると、桔梗さんが静かに私の隣に並んだ。
その横顔に向けて、私は誰にも聞こえないくらいの声で、ぽつりと呟く。
「……これで、お兄さんの人生を壊した分は、ちゃんと返してもらいましたね」
その声には、自分でも驚くほど温度がなかった。
桔梗さんは何も言わず、ただ小さく頷いた。
けれど、その横顔に浮かんでいたのは、安堵でも、称賛でもなかった。
──まるで、初めて会う誰かを見るような、そんな眼差しだった。
──翌日。
『大手企業〇〇、パワハラ隠蔽で緊急会見』
『元社員への不当解雇、上層部の関与か』
『男性が起こした傷害事件、その背景に企業の闇』
ネットニュースのトップには、次々とその話題が並んでいた。SNSのタイムラインは、あっという間に会社名のハッシュタグで埋め尽くされていく。
上長は解任され、会社は謝罪会見を開いた。株価が急落したという速報も流れていた。
すべてが、まるで雪崩のように崩れ落ちていった。
私はスマホの画面をスクロールする手を止め、小さく息を吐いた。
「……この力、まだ使いこなせているとは言えないな」
見せた幻術はまだ荒削りで、視えた魂の色も断片的なものでしかなかった。
これが、もっと成長したら──いったい、どこまで視えて、どこまで見せられるようになるのだろう。
そんな漠然とした予感を抱きながら、私はスマホの画面を閉じた。
※第一章 完




