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大賢者の弟子は、忘れられた魔法を拾いに行く  作者: Atelier Lotus文庫
第二章 最初の魔法

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第9話 朝になれば、旅人

 酒場には、もう二人しか残っていなかった。灯りを落とした店内は静かで、片づけの終わった卓に酒瓶と二つの杯だけが残っている。


 エリアスとマレーネは、向かい合ったまましばらく笑っていた。


「あとは、その夜をどうするか、か」


「口に出すのね」


「分かってることを隠しても仕方ないだろ」


「そういうところ、本当に遠慮がないわね」


「嫌い?」


 マレーネは答えず、杯を持ち上げた。


 残っていた酒を少し飲んで、杯を置く。


「嫌いなら、こんな時間まで二人で飲んでないわよ」


「それもそうだ」


 エリアスも残った酒を飲み干した。


 酔いはあるし、気分もいい。それでも自分たちが何を話しているか、二人とも分かっていた。


 数日前、エリアスは宿に入るなり泥の魔法について質問を始めた。それから町を歩き回り、泥を見ては帳面へ書き込んだ。雨の日には困っている人を助け、今日も一日中泥に触っていた。


「何?」


 マレーネが言った。


「いや。俺、ここに来てから泥ばっかりだなと思って」


「今さら?」


「もっと格好いい魔法を調べてるところを見せたかった」


「昨日は十分格好よかったじゃない」


「お」


「嬉しそうな顔しないの」


「褒められたからな」


「調子に乗るから言わなきゃよかった」


 そう言いながら、マレーネは笑っている。


 エリアスは椅子を立ち、卓を回って彼女のそばへ行った。マレーネは席を離れない。


「近いわよ」


「近づいたからな」


「本当に口説くのね」


「何日も前から口説いてるつもりだった」


「泥の話ばっかりしてたじゃない」


「それとこれは両立する」


「器用なのか不器用なのか分からないわね」


 エリアスは笑った。


 今度はマレーネも立つ。


 距離は、さっきより近くなった。


「明日になったら、本当に行くの?」


「たぶん」


「止めても?」


「止める?」


 尋ねると、マレーネは少し考えるような顔をした。


「止めない」


「だろうな」


「私には宿があるもの。あなたには旅がある」


「ああ」


「だから」


 マレーネの指先が、エリアスの胸元へ触れた。


「今夜くらいは、いいんじゃない?」


 エリアスはその手を取った。


「俺もそう思う」


「迷わないのね」


「美人にそこまで言われて迷ったら、たぶん一生後悔する」


「ほんと、そういう人」


「今さらだろ」


 マレーネが顔を上げる。


 エリアスは少しだけ待った。マレーネが自分を見上げたままなのを確かめ、顔を寄せる。


 唇が重なった。


 短く触れて離れると、目が合った。


「どうする?」


 エリアスが聞いた。


「何が?」


「ここで終わる?」


「あなた、そこで聞くの?」


「聞くだろ」


「じゃあ答えるけど」


 マレーネが今度は自分から顔を寄せた。


 さっきより長いキスだった。


 唇が離れたあとも、彼女の腕はエリアスの首へ回ったままだ。


「これで分かった?」


「かなり」


「なら、もう聞かないで」


「分かった」


 エリアスは彼女の腰へ腕を回した。


 身体が触れる。


 笑っていたマレーネの表情が少しだけ変わる。


 近い。


 酒の匂いと、彼女の髪から漂う匂いが混じる。


 もう一度、唇を重ねた。


 今度はどちらも急いで離れなかった。


 しばらくして、マレーネがエリアスの胸を軽く押した。


「ここ、酒場よ」


「誰もいない」


「そういう問題じゃないの」


「じゃあ部屋?」


「自分で言わせるの?」


「言ってほしい」


「面倒な男ね」


 そう言いながら、マレーネはエリアスの手を取った。


「行くわよ」


 二階へ上がる。


 階段を進む途中でも、握った手は離れなかった。


 エリアスの部屋へ入ると、扉が閉まる。


 一瞬だけ、静かになる。


 酒場とは違う。


 ここには、本当に二人しかいない。


 エリアスが振り返ると、マレーネは扉の前に立ったままこちらを見ていた。


「まだやめられるぞ」


「それ、あなたに返すわ」


「俺はやめない」


「私も」


 答えはそれで十分だった。


 エリアスが手を伸ばす。


 マレーネも近づく。


 抱き寄せると、彼女の身体が素直に腕の中へ収まった。


 唇を重ねる。


 何度か離れては、また触れる。


 笑う余裕も、軽口を交わす余裕も、まだ残っていた。


「旅人って、みんなこんななの?」


「俺以外の旅人とは寝ないでくれ」


「急に勝手ね」


「今夜だけは」


「明日にはいなくなるくせに」


「だから今夜だけ」


 マレーネが笑った。


「そういうことなら許す」


 肩へ触れていた彼女の手が、服の留め具へかかる。


 エリアスもその意味を取り違えなかった。


 外套が椅子へ落ち、マレーネの髪をまとめていたものが外れた。髪が肩へ流れる。


「やっぱり美人だな」


「今言う?」


「今だから言う」


「ほんとに口が止まらないわね」


 その口を塞ぐように、またキスをされた。


 エリアスは笑いながら彼女を抱き寄せる。


 やがて二人は寝台へ腰を下ろした。


 そこから先は、言葉を交わすより互いに触れている時間の方が長くなった。ラーデンでの最後になるかもしれない夜を、二人は自分たちで選んだ。


     ◯


 朝。


 エリアスが目を覚ますと、すぐ隣にマレーネがいた。


「……おはよう」


「おはよう」


 先に起きていたらしい。


 昨日まで後ろでまとめられていた髪が、今は無造作に肩へ落ちている。


 エリアスは少し眺めた。


「何?」


「いや。いい朝だなと思って」


「その顔だと、天気の話じゃなさそうね」


「もちろん」


「朝から元気ね」


「後悔してる?」


 マレーネは鼻で笑った。


「するくらいなら、最初から来てないわよ」


「よかった」


「あなたは?」


「してない」


「でしょうね」


 それで昨夜についての話は終わった。


 恋人になるとも、ここへ残るとも、次にいつ会うとも言わなかった。それでも、昨夜をなかったことにする必要はない。


 しばらくしてエリアスは寝台を出た。


 服を整え、旅鞄を開く。


 中へ最初の論文をしまう。


 泥離し。


 ラーデンで見つけた、小さな生活魔法。


 魔法式だけでは説明できなかった魔法。粘る土があり、人々が働き、毎日泥に困るからこそ、この形が残った。


 一つ目だ。


「それ、大事そうね」


「ああ」


「泥の論文なのに?」


「泥の論文だからだよ」


「まだ言うのね」


「たぶん一生言う」


 マレーネが笑った。


 一階へ下りる頃には、彼女はもう宿の女主人へ戻っていた。


 朝食を出し、客へ声をかけ、帳場を確認する。昨日までと同じ仕事だ。


 エリアスも黒パンと卵を食べ、荷物を背負う。


「じゃあ」


「行くのね」


「ああ」


 マレーネは引き留めなかった。


「次は、もっとすごい魔法を見つけられるといいわね」


「別にすごくなくてもいい」


「そうだったわね」


「知らなければ、それで十分だ」


 エリアスは笑った。


「世話になった」


「こっちこそ。町まで助けてもらったし」


「それはそれ」


「泥離しは?」


「それもそれ」


「昨夜は?」


 エリアスは少し笑う。


「それは、かなりよかった」


「馬鹿」


 マレーネも笑った。


「元気でね、エリアス」


「ああ。マレーネも」


 それだけだった。


 エリアスは宿を出る。


 朝のラーデンでは、いつものように馬車が動き始めていた。


 車輪には、また赤褐色の泥がつく。


 御者が何でもない顔で手を向ける。


 泥が、ぼとりと落ちた。


 数日前はただ珍しいと思った。今は、あの小さな魔法がなぜここにあるのかを知っている。同じ光景が、前より面白く見えた。


 エリアスは旅鞄を背負い直した。


 鞄には最初の論文がある。背後には数日過ごした町があり、前にはまだ知らない魔法がある。


「さて」


 エリアスは街道へ足を向けた。


 次は、どんな魔法だろう。


 そう考えながら、一人でラーデンをあとにした。



 

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。


エリアスとマレーネがこの夜、もう少しだけ何をしていたのか。


本編では描写を省いた成人向け部分を、ノクターンノベルズにて別作品として掲載しています。


『大賢者の弟子は、旅先の夜を拾っていく』


第1夜「今夜の証を、旅人に」


18歳以上で、続きが気になる方はそちらもお楽しみください。


なお、成人向け部分を読まなくても、本編の物語には問題なく続けていただけます。

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