第9話 朝になれば、旅人
酒場には、もう二人しか残っていなかった。灯りを落とした店内は静かで、片づけの終わった卓に酒瓶と二つの杯だけが残っている。
エリアスとマレーネは、向かい合ったまましばらく笑っていた。
「あとは、その夜をどうするか、か」
「口に出すのね」
「分かってることを隠しても仕方ないだろ」
「そういうところ、本当に遠慮がないわね」
「嫌い?」
マレーネは答えず、杯を持ち上げた。
残っていた酒を少し飲んで、杯を置く。
「嫌いなら、こんな時間まで二人で飲んでないわよ」
「それもそうだ」
エリアスも残った酒を飲み干した。
酔いはあるし、気分もいい。それでも自分たちが何を話しているか、二人とも分かっていた。
数日前、エリアスは宿に入るなり泥の魔法について質問を始めた。それから町を歩き回り、泥を見ては帳面へ書き込んだ。雨の日には困っている人を助け、今日も一日中泥に触っていた。
「何?」
マレーネが言った。
「いや。俺、ここに来てから泥ばっかりだなと思って」
「今さら?」
「もっと格好いい魔法を調べてるところを見せたかった」
「昨日は十分格好よかったじゃない」
「お」
「嬉しそうな顔しないの」
「褒められたからな」
「調子に乗るから言わなきゃよかった」
そう言いながら、マレーネは笑っている。
エリアスは椅子を立ち、卓を回って彼女のそばへ行った。マレーネは席を離れない。
「近いわよ」
「近づいたからな」
「本当に口説くのね」
「何日も前から口説いてるつもりだった」
「泥の話ばっかりしてたじゃない」
「それとこれは両立する」
「器用なのか不器用なのか分からないわね」
エリアスは笑った。
今度はマレーネも立つ。
距離は、さっきより近くなった。
「明日になったら、本当に行くの?」
「たぶん」
「止めても?」
「止める?」
尋ねると、マレーネは少し考えるような顔をした。
「止めない」
「だろうな」
「私には宿があるもの。あなたには旅がある」
「ああ」
「だから」
マレーネの指先が、エリアスの胸元へ触れた。
「今夜くらいは、いいんじゃない?」
エリアスはその手を取った。
「俺もそう思う」
「迷わないのね」
「美人にそこまで言われて迷ったら、たぶん一生後悔する」
「ほんと、そういう人」
「今さらだろ」
マレーネが顔を上げる。
エリアスは少しだけ待った。マレーネが自分を見上げたままなのを確かめ、顔を寄せる。
唇が重なった。
短く触れて離れると、目が合った。
「どうする?」
エリアスが聞いた。
「何が?」
「ここで終わる?」
「あなた、そこで聞くの?」
「聞くだろ」
「じゃあ答えるけど」
マレーネが今度は自分から顔を寄せた。
さっきより長いキスだった。
唇が離れたあとも、彼女の腕はエリアスの首へ回ったままだ。
「これで分かった?」
「かなり」
「なら、もう聞かないで」
「分かった」
エリアスは彼女の腰へ腕を回した。
身体が触れる。
笑っていたマレーネの表情が少しだけ変わる。
近い。
酒の匂いと、彼女の髪から漂う匂いが混じる。
もう一度、唇を重ねた。
今度はどちらも急いで離れなかった。
しばらくして、マレーネがエリアスの胸を軽く押した。
「ここ、酒場よ」
「誰もいない」
「そういう問題じゃないの」
「じゃあ部屋?」
「自分で言わせるの?」
「言ってほしい」
「面倒な男ね」
そう言いながら、マレーネはエリアスの手を取った。
「行くわよ」
二階へ上がる。
階段を進む途中でも、握った手は離れなかった。
エリアスの部屋へ入ると、扉が閉まる。
一瞬だけ、静かになる。
酒場とは違う。
ここには、本当に二人しかいない。
エリアスが振り返ると、マレーネは扉の前に立ったままこちらを見ていた。
「まだやめられるぞ」
「それ、あなたに返すわ」
「俺はやめない」
「私も」
答えはそれで十分だった。
エリアスが手を伸ばす。
マレーネも近づく。
抱き寄せると、彼女の身体が素直に腕の中へ収まった。
唇を重ねる。
何度か離れては、また触れる。
笑う余裕も、軽口を交わす余裕も、まだ残っていた。
「旅人って、みんなこんななの?」
「俺以外の旅人とは寝ないでくれ」
「急に勝手ね」
「今夜だけは」
「明日にはいなくなるくせに」
「だから今夜だけ」
マレーネが笑った。
「そういうことなら許す」
肩へ触れていた彼女の手が、服の留め具へかかる。
エリアスもその意味を取り違えなかった。
外套が椅子へ落ち、マレーネの髪をまとめていたものが外れた。髪が肩へ流れる。
「やっぱり美人だな」
「今言う?」
「今だから言う」
「ほんとに口が止まらないわね」
その口を塞ぐように、またキスをされた。
エリアスは笑いながら彼女を抱き寄せる。
やがて二人は寝台へ腰を下ろした。
そこから先は、言葉を交わすより互いに触れている時間の方が長くなった。ラーデンでの最後になるかもしれない夜を、二人は自分たちで選んだ。
◯
朝。
エリアスが目を覚ますと、すぐ隣にマレーネがいた。
「……おはよう」
「おはよう」
先に起きていたらしい。
昨日まで後ろでまとめられていた髪が、今は無造作に肩へ落ちている。
エリアスは少し眺めた。
「何?」
「いや。いい朝だなと思って」
「その顔だと、天気の話じゃなさそうね」
「もちろん」
「朝から元気ね」
「後悔してる?」
マレーネは鼻で笑った。
「するくらいなら、最初から来てないわよ」
「よかった」
「あなたは?」
「してない」
「でしょうね」
それで昨夜についての話は終わった。
恋人になるとも、ここへ残るとも、次にいつ会うとも言わなかった。それでも、昨夜をなかったことにする必要はない。
しばらくしてエリアスは寝台を出た。
服を整え、旅鞄を開く。
中へ最初の論文をしまう。
泥離し。
ラーデンで見つけた、小さな生活魔法。
魔法式だけでは説明できなかった魔法。粘る土があり、人々が働き、毎日泥に困るからこそ、この形が残った。
一つ目だ。
「それ、大事そうね」
「ああ」
「泥の論文なのに?」
「泥の論文だからだよ」
「まだ言うのね」
「たぶん一生言う」
マレーネが笑った。
一階へ下りる頃には、彼女はもう宿の女主人へ戻っていた。
朝食を出し、客へ声をかけ、帳場を確認する。昨日までと同じ仕事だ。
エリアスも黒パンと卵を食べ、荷物を背負う。
「じゃあ」
「行くのね」
「ああ」
マレーネは引き留めなかった。
「次は、もっとすごい魔法を見つけられるといいわね」
「別にすごくなくてもいい」
「そうだったわね」
「知らなければ、それで十分だ」
エリアスは笑った。
「世話になった」
「こっちこそ。町まで助けてもらったし」
「それはそれ」
「泥離しは?」
「それもそれ」
「昨夜は?」
エリアスは少し笑う。
「それは、かなりよかった」
「馬鹿」
マレーネも笑った。
「元気でね、エリアス」
「ああ。マレーネも」
それだけだった。
エリアスは宿を出る。
朝のラーデンでは、いつものように馬車が動き始めていた。
車輪には、また赤褐色の泥がつく。
御者が何でもない顔で手を向ける。
泥が、ぼとりと落ちた。
数日前はただ珍しいと思った。今は、あの小さな魔法がなぜここにあるのかを知っている。同じ光景が、前より面白く見えた。
エリアスは旅鞄を背負い直した。
鞄には最初の論文がある。背後には数日過ごした町があり、前にはまだ知らない魔法がある。
「さて」
エリアスは街道へ足を向けた。
次は、どんな魔法だろう。
そう考えながら、一人でラーデンをあとにした。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
エリアスとマレーネがこの夜、もう少しだけ何をしていたのか。
本編では描写を省いた成人向け部分を、ノクターンノベルズにて別作品として掲載しています。
『大賢者の弟子は、旅先の夜を拾っていく』
第1夜「今夜の証を、旅人に」
18歳以上で、続きが気になる方はそちらもお楽しみください。
なお、成人向け部分を読まなくても、本編の物語には問題なく続けていただけます。




