第10話 洗濯物の風
ラーデンを出て三日目の昼過ぎ、エリアスは街道から少し外れた農村へ入った。背中の旅鞄には、着替えと筆記具、それから一つだけ以前にはなかったものが入っている。
ラーデンの泥離しについてまとめた論文だった。魔法式だけでなく、発動条件、実際の使われ方、土地の土との関係も書いた。分からなかったことは、分からないまま残してある。
仕上げたときは満足したものの、町を出て半日もしないうちに、もう次のことを考えていた。
「今度は何があるかな」
知らない魔法を見つけ、使っているところを見て、どうしてその形になったのかを調べる。
そんなことを考えながら村の中を歩いていたエリアスの足が、不意に止まった。
道の両側に、洗濯物が並んでいた。
白い布。色の褪せた上着。子ども用らしい小さな衣服。長い紐に何枚も吊られ、昼の陽を受けて揺れている。
ただし、風はほとんどなかった。
それなのに、一軒の家の洗濯物だけが、ゆっくりと同じ向きへ膨らんでいる。
「……ん?」
軒先に立っていた女が、指先を軽く動かした。
弱い風が生まれる。
だが、吹きつけてはいない。
風は布と布の間を縫うように入り込み、重なりかけた裾をそっと離し、そのまま奥へ抜けていった。
エリアスは洗濯物から、女の指先へ目を移した。
「今の、もう一回やってもらっていい?」
女が怪訝そうに振り返った。
「何を?」
「風の魔法」
「これ?」
女はさっきと同じように手を動かした。
また、細い風が流れる。
強くない。水気を吹き飛ばすような使い方ではなく、布が絡まない程度に間を開け、風の通りにくいところへ空気を送り込んでいる。
「乾かしてるのか?」
「そりゃ洗濯物だからね」
「いや、そうじゃなくて。風で一気に水を飛ばすんじゃないんだな」
「そんなことしたら布が絡むでしょうが」
当然のことを聞くな、という顔をされた。
エリアスは少し笑った。
「名前は?」
「布あおぎ」
「そのままだな」
「他に何て呼べっていうのよ」
それもそうだった。
女に礼を言って歩き出したが、十歩も進まないうちにまた止まった。
別の家でも、洗濯物が揺れている。
今度は紐が家の壁沿いに張られていた。風は一方向へ流すのではなく、壁に沿わせてから外へ逃がしている。
さっきとは少し違う。
「兄ちゃん、洗濯物がそんなに珍しいか?」
庭先で籠を抱えていた男に笑われた。
「洗濯物じゃなくて、風」
「ああ、布あおぎか」
「ここでもそう呼ぶのか。さっきの家とは流し方が違うな」
「そりゃ干し方が違うんだから、同じじゃ困るだろ」
また当然の顔をされた。
泥離しのときもそうだった。
使う側にとっては、必要だから使う。使いやすいように使う。ただそれだけだ。けれど、その中に自分の知らない魔法がある。
少し先では、畑から戻ってきた男が馬の脇に立っていた。馬の毛には細かな藁と土埃が付いている。
男が手を払うと、ごく弱い風が馬の身体を撫でた。藁くずだけがふわりと浮き、地面へ落ちる。
馬は気にした様子もない。
「……同じ風魔法か?」
用途は違う。洗濯物でもない。
だが、強い風を起こすのではなく、必要なところだけへ弱く通すという点は似ている。
一つ見つければ、次が目に入る。
次を見れば、その隣も気になる。
エリアスは村の真ん中で立ち止まった。
「待て。こういうの、もしかしてどこにでもあるのか?」
ラーデンに特別な一つがあったのではなく、自分が今まで見ようとしていなかっただけだとしたら。
村の家々を見る。
洗濯物。畑。家畜。薪の山。干された野菜。
どれもただの暮らしに見える。
急に全部が怪しく見えてきた。
「……面白いな」
口元が勝手に緩んだ。
◯
村の宿は、小さな食事処を兼ねていた。
夕方、エリアスは窓際の席に座り、煮込んだ豆と燻製肉をつつきながら帳面を開いていた。
布あおぎ。
弱い風で布同士を離す。干し方によって流し方が違う。
そう書いて、余白へ何を足すか考えながら顔を上げる。
窓の向こうでは、昼に見た洗濯物がまだ揺れていた。
「ずいぶん熱心に見てるのね」
声がして、エリアスは横を向いた。
少し離れた席に女が座っていた。旅向きの服装で、椅子の脇には荷物がまとめて置かれている。村人らしい気安さで店の主人と言葉を交わしていたところを見ると、初めて来た客ではなさそうだった。
そして、美人だった。
エリアスは帳面から完全に顔を上げた。
女はその反応を見逃さなかったらしい。
「今度はこっち?」
「何が?」
「さっきまで洗濯物しか見てなかったのに」
「美人がいれば見るだろ」
「堂々と言うのね」
呆れたような声だったが、口元は笑っている。
「エリアス」
「聞いてないけど」
「これから聞くかもしれない」
女は一拍置いてから吹き出した。
「リディア。これで満足?」
「かなり」
「分かりやすい人」
リディアは杯を持ち上げた。
店の主人が「また明日は北の方か」と声をかけると、彼女は「昼までには出るつもり」と答える。
「行商人?」
「そう。日用品を積んで、この辺の村を順番に回ってる」
「じゃあ、この先の村にも詳しい?」
「ものによるわね。何を探してるの?」
エリアスは帳面を持ち上げた。
「魔法」
「魔法?」
リディアの視線が帳面と窓の外を往復する。
「まさか、さっきから見てた洗濯物?」
「正確には洗濯物の間を通してる風」
「……あなた、洗濯物を見ながら酒を飲んでるの?」
「酒もちゃんと見てる」
「そういう話じゃないわよ」
リディアは肩を揺らして笑った。
エリアスも杯へ口をつける。軽い酒だった。少し酸味があり、豆の煮込みによく合う。
「布あおぎって、この辺じゃ普通なのか?」
「普通ね。私も何度も見てる」
「他の村でも?」
「使い方が同じかは知らないけど、似たようなのならあるわよ」
エリアスは杯を置いた。
「似たようなの?」
「洗濯だけじゃないわ。料理だって畑仕事だって、村ごとにやり方が違うでしょう」
リディアは何でもないことのように続けた。
「魔法だって同じじゃない?」
エリアスは帳面へ目を落とした。
布あおぎ一つを調べたら次の土地へ行くつもりだったが、行く先々にも別の使い方がありそうだ。
「この先、どっちへ行く予定?」
「北の小さな集落。その次は街道沿いを東へ」
「俺もそっちへ行こうかな」
リディアが眉を上げた。
「私についてくる気?」
「それも悪くないけど、今は魔法」
「今は、ね」
「そこ重要」
また笑われた。
エリアスは帳面へ新しい線を引いた。
一つの村に腰を据えて、一つの魔法を調べるのも面白い。だが今は、この農村地帯を歩いて、布あおぎのような魔法をもっと見たい。
洗濯、料理、畑、家畜。暮らしの数だけ使い方があるとしたら、紙がいくらあっても足りないかもしれない。
「一つ探すどころじゃないな」
「何が?」
「こっちの話」
エリアスは笑って帳面を閉じた。
窓の外では、夕方の弱い風に洗濯物が揺れている。昼前なら、ただ干してある布として通り過ぎただろう。今はあの家の干し方も、風の通り道も気になる。
明日は次の集落へ行こう。誰も珍しいと思っていない魔法が、また見つかるかもしれない。
どうやら旅鞄の紙は、思っていたより早く減りそうだった。




