第8話 最初の論文
翌朝、雨は上がっていた。
ラーデンの空にはまだ雲が残っていたが、昨日のような重さはない。住民たちは朝早くから泥を掻き出し、濡れた荷物を干し、傾いた柵や板を直していた。エリアスはその中を、妙に機嫌よく歩いていく。
「じゃあ、約束どおり教えてくれ」
「朝一番でそれかよ」
馬車溜まりで、昨日の男が呆れた顔をした。
「忘れられる前にな」
「忘れねえよ。一晩しか経ってないだろ」
「魔法の話は早い方がいい」
「昨日あれだけ働いたのに元気だな」
「魔法を使ったくらいで寝込んでたら、師匠に笑われる」
エリアスは帳面を開いた。
「それで、どうやる?」
「どうって……」
男は困ったように頭を掻いた。
「泥がついてるところを見るだろ」
「ああ」
「そこへ魔力を入れて、こう……剥がす」
「その『こう』を詳しく」
「だから、こうだよ」
車輪へ手を向ける。
泥が、ごそりと落ちた。
「分からん」
「俺も説明できん」
「もう一回」
「何回やるんだよ」
「分かるまで」
「昨日町を助けた魔法使いとは思えねえな」
「それとこれとは別だ」
男は笑いながら、また泥離しを使った。エリアスは今度こそ見逃さないよう、魔力の流れへ意識を集中させる。
芯になっているのは水魔法だ。水を生み出すのではなく、泥に含まれる水分を捉え、車輪との境目へ薄く魔力を走らせる。そうして、泥がまとわりつく力を弱めていた。
「もっと強くやったら?」
「落ちるぞ」
「じゃあ、強い方がいいんじゃないか?」
「馬鹿。泥だけじゃなくて車輪までびしょびしょにしてどうする」
「なるほど」
「なるほどって、お前、本当に分かってなかったのか?」
「理屈は今分かった」
「理屈?」
男が首を傾げる。
エリアスは帳面へ書き込んだ。
強すぎれば余計な水分まで動かしてしまい、弱すぎれば泥が残る。作用する範囲と強さを、対象に合わせなくてはならない。
「次、俺がやる」
「できるのか?」
「たぶん」
「たぶんで俺の車輪使うなよ」
エリアスは別の板切れへ泥を塗りつけた。
「これならいいだろ」
「用意いいな」
「朝、宿の裏で拾った」
指先を向ける。
昨日まで観察していた魔力の流れを、自分の中で組み直す。水分を捉え、接触面へ沿わせ、剥がす。
魔力を流した瞬間、泥が落ちた。
「……濡れたな」
「びしょびしょじゃねえか」
板には水分が残っている。
「強すぎた」
「だから言っただろ」
「もう一回」
「楽しそうだな、お前」
「ああ」
否定する理由がなかった。
次は魔力量を落とす。今度は半分ほどしか剥がれなかった。
「弱い」
「見りゃ分かる」
「もう一回」
「好きにしろ」
三度目、四度目と微調整を繰り返す。やがて泥だけがまとまって落ち、板には余計な水分がほとんど残らなくなった。
「これだな」
「……もうできたのか?」
「仕組みさえ分かればな」
「昨日から散々見て回ってたもんな」
「見るのと使うのは違う」
エリアスは満足して帳面へ書き込んだ。
だが、これで終わりではない。むしろここからだった。
馬車用の加減が分かったなら、次は厩の革の馬具、洗濯場の布、宿の靴や床だ。それぞれ同じ泥離しなのに、魔力の使い方はわずかに違った。
「布なら、これくらい」
洗濯場の女が実演する。
「もっと強くしたら?」
「昨日も言ったでしょう。傷むよ」
「どこまでなら平気?」
「そんなの布によるよ」
「古い布と新しい布で違う?」
「そりゃ違うさ」
「厚さは?」
「違うに決まってるだろう」
「濡れ具合は?」
「……あんた、本当に細かいね」
女が呆れた顔をする。
「必要だからな」
「こっちはそんなこと考えて使ってないよ」
「それが知りたいんだ」
「考えてないことを?」
「ああ」
女はますます変な顔をした。
だが、実際に使わせてもらうと、その意味がよく分かった。
住民たちは理論を言葉にできない。しかし、使い方は身体に染みついている。古い布には弱く、厚い革なら少し強く、車輪なら多少荒くても構わない。靴は素材を見て加減する。
誰も数値を知っているわけではない。それでも失敗しないのは、長く使ううちに身体がちょうどいい加減を覚えているからだろう。
「面白いな」
エリアスが呟く。
「また言ってる」
横にいたマレーネが笑った。
「だって面白いだろ」
「朝から泥ばっかり触ってる男を見てる私の方が面白いわよ」
「俺を研究してる?」
「今のところはね」
「結果が出たら教えてくれ」
「変な魔法使い。以上」
「早いな」
「三日もあれば十分」
言いながら、マレーネは自分の靴へ泥離しを使った。
エリアスはその魔力を見て、すぐに気づく。
「昨日より弱い」
「また分かるの?」
「靴の泥が薄いからだろ」
「たぶん」
「その『たぶん』を、俺が書く」
「そんなものまで?」
「そういうものほど、書かないと消える」
言ってから、エリアスは首をひねった。今の言い方では少し違う。
「……というより、書かないと説明できないな」
「何が?」
「泥離しが、なんでこういう魔法なのか」
宿へ戻ると、エリアスはそのまま卓を借りた。
昼食もそこそこに、紙を広げる。
最初は魔法式だけを書こうとしていた。水魔法を基礎とし、対象へ付着した泥の内部、あるいは接触面の水分へ干渉し、作用範囲を限定して泥の付着を弱める。使い手ごとに魔力量や作用位置へ差がある。
術式はそこまで書ける。だが、なぜ水で丸ごと洗い流さず、対象ごとに細かく使い分けるのか。その答えには、ラーデンのことも必要だった。
雨を含むと強く粘る赤褐色の土があり、街道を多くの馬車が通る。馬具や衣服、荷箱には毎日のように泥がつく。大量の水で洗うより、少ない魔力で泥だけを剥がす方が早い。
そうした使い方が、親から子へ、仕事仲間から若手へ、理論ではなく使い方そのものとして伝わってきた。
「……術式だけじゃ駄目か」
エリアスは筆を止めた。
魔法を説明するなら、使われている場所や暮らしまで書く必要がある。でなければ、この形が残った理由が抜け落ちる。
それはアウローラで魔法式だけを眺めていても分からなかったことだった。
エリアスは新しい紙を取り、書き直した。
魔法式、発動条件、用途、土地の泥との関係、使い手による差、伝わり方。
分からないことは、分からないと書いた。最初に誰が作り、いつ生まれたのかは、誰も知らない。推測で埋めず、今分かることを記録する。
日が傾く頃、最後の一行を書き終えたエリアスは筆を置き、紙束をそろえて、しばらく眺めた。
「……一つ目」
思わず笑った。
噂を拾って町へ来て、見て、聞いて、自分でも使った。旅に出て、ようやく一つ書けた。
大魔法でも、失われた秘術でもない。
泥を落とすための、小さな魔法。
それが最初だった。
「終わった?」
顔を上げると、マレーネが料理を運んできていた。
「ああ」
「朝からずっと書いてたわね」
「途中で飯も食った」
「食べながら書いてたでしょう」
「食ったことには変わらない」
「じゃあ今度は、ちゃんと食べなさい」
卓へ湯気の立つ皿が置かれた。肉と根菜を煮込んだ料理だった。香草の匂いが立ち、黒パンまで添えられている。
「酒もある?」
「あるわよ」
「完璧だな」
「何が?」
「魔法が一つ増えた。論文もできた。飯がある。酒もある」
「安上がりに幸せね」
「いい人生だろ」
「女は?」
不意に言われて、エリアスはマレーネを見る。
彼女は何でもない顔で酒を注いでいた。
「いたらもっといい」
「でしょうね」
「美人ならなおいい」
「欲張り」
「そこは否定しない」
マレーネが笑った。
その夜は、昨日の片づけを終えた町の人間たちも何人か酒場へ集まった。
誰かがエリアスへ酒を奢る。
別の誰かが料理を寄越す。
「あんたのおかげで倉庫が助かった」
「馬もな」
「排水路まで直しやがって」
「飲め飲め」
「遠慮しないぞ」
「知ってる!」
エリアスは本当に遠慮しなかった。
エリアスは食べ、飲み、泥離しの話をして、また飲んだ。
昨日の騒ぎを笑い話にできる程度には、町の日常は戻っていた。
やがて一人、二人と帰り、酒場が静かになった。
最後の客を見送ったマレーネが、入口の扉を閉めた。
「よく飲んだわね」
「奢りだったからな」
「そういうところ、素直よね」
「奢られた酒を断る方が失礼だろ」
「便利な理屈」
マレーネは空いた椅子へ座った。
今日は仕事を終えたらしい。
二人の間に、少しだけ静かな時間ができる。
「明日も調べるの?」
「いや。泥離しはひとまず終わり」
「じゃあ、もう行く?」
「たぶんな」
マレーネは頬杖をついた。
「やっぱり旅人なのね」
「旅人だからな」
「ここに来たときから分かってたけど」
「残念?」
「ずいぶん自信あるのね」
「少しくらいは」
「昨日、町を丸ごと助けたから?」
「いや」
エリアスは笑った。
「俺が男前だから」
「そこまで言えるの、ある意味すごいわ」
「否定する?」
「どうしようかしら」
マレーネは笑っていた。
だが、そのまま視線を逸らさなかった。
エリアスも逸らさない。
酒のせいだけではない。
何日か一緒に町を歩き、泥の話をして笑った。雨の中では、それぞれにできることをした。最初に会った日より、互いがどんな人間かを知っている。
「明日、出るの?」
「朝になって決める」
「曖昧ね」
「旅なんてそんなものだろ」
「じゃあ今夜は?」
エリアスは一瞬だけ黙った。
マレーネの目が笑っている。
冗談だけではない。
それくらいは分かった。
「今夜?」
「まだ寝るには早いでしょう」
「確かに」
「もう一杯飲む?」
「それもいいけど」
「けど?」
エリアスは少し身を乗り出した。
「酒以外でもいい」
マレーネは目を細める。
「やっぱり、そういう人なのね」
「最初から隠してない」
「知ってる」
彼女も少しだけ距離を縮めた。
「私も、嫌いじゃないわ」
どちらからともなく笑う。
エリアスはもう、聞き違える心配をしなかった。
互いに何を考えているかは、十分伝わっている。
あとは、その夜をどうするか。
それを決めるだけだった。




