第7話 雨が道を崩す
雨は、弱まる気配を見せなかった。
宿の窓を叩く音は次第に大きくなり、通りを流れる水はもう浅い川のようになっている。赤褐色の泥を巻き込んだ濁った水が、町の低い方へ向かって勢いを増していた。
エリアスは窓際から動かず、その流れを追っていた。
「マレーネ。馬車溜まりの先に何がある?」
「厩と倉庫。その向こうに排水路があるわ」
「排水路?」
「町の外へ水を逃がすための。雨が降れば、いつもそこへ流れるのよ」
エリアスは眉を寄せた。
「いつも、か」
「何?」
「いや」
水量も多いが、それだけではない。泥を含んだ水が一方向へ集中している。昨日から町中を歩いたおかげで、地面の傾きも大まかには分かっていた。
ラーデンの低い側へ水が集まり、そこから排水路へ抜ける。
本来なら、それで問題ないはずだ。
入口の扉が勢いよく開いた。
「マレーネ!」
ずぶ濡れになった男が飛び込んでくる。
「馬車溜まりがまずい! 水が引かねえ!」
「排水路は?」
「見に行った奴がいる! でも途中から泥が溢れて――」
男が言い切る前に、エリアスは立ち上がっていた。
「見に行く」
「ちょっと、エリアス」
「水が引かないなら、詰まってるか、流しきれてない」
「だからって――」
「俺なら何とかできるかもしれない」
それだけ言って、扉へ向かう。
泥離しを教えてもらうことも、研究に協力してもらうことも今は関係ない。人が困っていて、自分にできることがある。なら、やる。
「私も行く」
振り返ると、マレーネが外套を引っ掴んでいた。
「宿は?」
「客を上に移してから行く。あんたは先に行って」
「分かった」
「無茶しないでよ」
「それ、俺に言う?」
「昨日から泥に夢中な人には言うわよ」
こんなときでも、その調子だった。
エリアスは笑って外へ出た。
雨が身体を叩く。
通りを走り出してすぐ、状況が想像以上だと分かった。
水は脛近くまで来ている場所もある。
町の人間たちは、荷物を高い場所へ運び、馬を厩へ移し、店先へ流れ込む水を板や土嚢で防いでいた。
泥離しも使われている。
車輪へまとわりついた泥を剥がす。
濡れた荷箱の底から泥を落とす。
足を取られそうになった場所で、靴へついた塊を素早く外す。
ちゃんと役に立っている。
ただし、今起きている問題そのものを止める魔法ではない。
それでいい。
用途が違う。
エリアスはそのまま馬車溜まりへ向かった。
「おい!」
怒鳴り声が飛ぶ。
一台の荷馬車が大きく傾いていた。
片側の車輪がぬかるみへ沈み、さらに地面の端が崩れ始めている。馬が怯えて暴れようとしていた。
「押さえろ!」
「無理だ、地面が抜ける!」
「荷を下ろせ!」
「近づくな! そっちも崩れるぞ!」
人の声と馬の嘶きが雨音に重なり、足元には濁った水が押し寄せてくる。
エリアスは一度だけ周囲を見回した。
馬車のそばには馬と御者、逃げ遅れた二人。左手に厩、その奥に倉庫がある。右から流れ込む水は低い方へ抜けきらず、ここに溜まっていた。
まず馬車だ。
「全員、離れて!」
「何だあんた!」
「いいから!」
エリアスが手を向ける。
沈みかけた車輪の下へ、魔力を通す。土を無理に持ち上げず、水を含んで崩れた層を探り、その下に残る比較的固い部分へ力を通した。
沈下が止まった。
「え?」
御者が目を見開く。
「馬を外して!」
「でも車が――」
「今は持つ!」
言いながら、もう片方の手を水へ向けた。
水を消す必要はない。逃げ道を作ればいい。
足元を流れていた水の一部が曲がり、町の外側へ走り始める。
「そっちじゃない!」
エリアスは叫んだ。
「左へ馬を出すな! 地面が緩い! こっちへ!」
御者たちが慌てて馬具を外す。
怯えた馬が首を振った。
エリアスは風を使った。
強く吹きつけるのではなく、馬の顔へ当たる雨だけを逸らした。視界を遮っていた水滴が減ると、馬の動きが少し落ち着いた。
「今!」
男たちが馬を引き出す。
続いて御者が離れる。
人が安全圏へ出たのを確認してから、エリアスは馬車へ向けていた力を少しずつ抜いた。
車輪が再び沈む。
だが、もう巻き込まれる人間はいない。
「次は水だな」
視線を奥へ向ける。
排水路の方から、別の男が走ってきた。
「駄目だ! 詰まってる! 泥と枝で入口が塞がってる!」
「場所は?」
「あっちだ!」
エリアスは走った。
排水路へ近づくほど水が深くなる。
途中、倉庫の壁際へ濁流が当たり始めていた。
このままなら、まずそちらがやられる。
「エリアス!」
後ろから声がする。
マレーネだった。
数人の住民と一緒に、荷物を別の建物へ移している。
「何してる!」
「見れば分かるでしょう! 濡れたら困る荷物を上へ逃がしてるの!」
「宿は?」
「客は二階! 店の子に任せた!」
「なら、その倉庫から離して!」
「分かった!」
返事が早い。
指示を聞いてすぐ動く。
こういうところがいい。
エリアスは一瞬だけそう思って、それどころではないと前へ向き直った。
排水路の入口はすぐに見つかった。
普段なら幅のある水路なのだろう。
今はその手前に泥と枝、それに流されてきた木片が絡みつき、半分以上が塞がっている。
「なるほど」
これでは水が町側に溜まる。だが、詰まりをまとめて吹き飛ばせば下流の人が危ないし、水路を傷めるかもしれない。
エリアスは魔力を広げた。
水の流れを読む。
詰まりの奥まで続く水路の幅を確かめ、圧力のかかる場所と泥の量、木片の位置を探る。
「……そこだな」
まず枝を浮かせる。
風で持ち上げ、横へ落とす。
次に大きな木片。
土に埋まっている部分だけを緩め、同じように外へ出す。
まだ水は流れない。
泥が残っている。
エリアスは少し考え、笑った。
「泥離しじゃ、これは無理だな」
量が違いすぎる。靴や車輪の泥を落とす魔法に、町じゅうから流れ込んだ泥を任せるものではない。
「仕事が違う」
地面へ手を向けた。
土魔法で泥の塊を崩しすぎない程度に持ち上げ、水魔法で内部の水分を一方向へ寄せる。
粘りが弱まったところへ風を差し込み、まとめて脇へ押し出す。
一度。
二度。
三度。
最後の塊が外れた瞬間、音が変わった。
ごう、と水が排水路へ吸い込まれる。
「来たぞ!」
「下がれ!」
エリアスが叫ぶ。
溜まっていた水が一気に動く。
ただ流すだけでは危ない。
水路へ入りきらない分を、別の浅い溝へ分ける。
右へ、左へ。勢いの強い流れを削り、弱い方へ分ける。崩れそうな地面は土で締め、建物へ向かう水は逸らす。すべて同時に調整した。
派手な光も爆発もない。
だが、町中へ広がっていた濁流が、目に見えて動きを変えた。
「……何だ、あれ」
誰かが呟いた。
エリアスは聞いていなかった。
目の前の流れだけを見る。
水量が落ちる。
馬車溜まりの水位も下がり始める。
地面はまだ酷い状態だが、これ以上崩れる勢いではない。
ようやくエリアスは息を吐いた。
「これなら大丈夫」
「大丈夫って……」
近くにいた男が、呆然と水路を見た。
「あんた、何者だ?」
エリアスは濡れた前髪をかき上げた。
「エリアス」
「名前じゃなくて」
「魔法使い」
「見れば分かる!」
少し離れたところで、マレーネが笑った。
「この人、ずっとこんな調子よ」
「酷くない?」
「今の答えで何が分かると思ったの?」
言われてみればその通りだ。
エリアスは肩をすくめた。
「アウローラで魔法を学んだ。大賢者アドルフ・ヴァイスの弟子だよ」
周囲が静かになった。
「……大賢者?」
「最後の弟子」
今度は別の男が呟く。
エリアスは少しだけ胸を張った。
「まあ、そのくらいはできる」
「そのくらいって」
マレーネが呆れた顔をする。
だが、その目は昨日までとは少し違っていた。
「本当にすごい魔法使いだったのね」
「本当に、は余計だな」
「だって昨日は朝から晩まで泥の話しかしてなかったじゃない」
「今日も途中まで泥の話だった」
「威張らないの」
雨はまだ降っている。
それでも、さっきまでの危険な流れは消えていた。
町の人間たちも、ようやく動きを緩め始める。
倒れた荷物を起こす。
馬を落ち着かせる。
濡れた床を拭く。
泥離しで車輪や靴についた泥を落とす。
いつもの生活へ戻すための作業が始まった。
エリアスはその光景を見た。
自分は大量の水と崩れかけた地面に対処した。町の人たちは泥離しを使って、いつもの生活へ戻している。どちらにも、それぞれの役目があった。
「エリアス」
呼ばれて振り返る。
朝、馬車溜まりで質問した男が立っていた。
「さっきは助かった」
「怪我人は?」
「いない。馬も大丈夫だ」
「ならよかった」
男は一度頷き、それから泥だらけの車輪を見た。
「昨日から、泥離しのこと聞いて回ってたんだってな」
「今日も」
「そんなに知りたいのか?」
「かなり」
「変わってるな」
「よく言われる」
男は笑った。
「だったら、明日ちゃんと教えてやるよ」
エリアスが目を瞬く。
「いいのか?」
「別に隠すようなもんじゃない。親父に教わった使い方ならな」
横にいた別の男も口を挟んだ。
「俺のも見せてやる。車輪相手なら、あいつより俺の方がうまいぞ」
「何だと?」
「実際そうだろ」
さっきまでの緊張が嘘のように、二人が言い合いを始める。
エリアスの口元が緩んだ。
「じゃあ、両方見せてくれ」
「まだ調べるの?」
マレーネの声。
「ああ」
「町があんなことになった直後なのに?」
「それとこれは別だろ」
エリアスは当然のように答えた。
助けたかったから助けた。泥離しを知りたいから、明日も学ぶ。それだけだ。
マレーネはしばらく彼を見て、それから小さく笑った。
「ほんと、変な人」
「昨日より?」
「だいぶ」
「また評価下がった?」
「さあね」
そう言って、彼女は先に歩き出す。
エリアスもその背中を追った。
明日は、泥離しを使う側から教わる。
見ているだけでは分からなかった部分まで、自分で試せる。
雨で濡れた町の中で、エリアスはもう次のことを考えていた。




