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大賢者の弟子は、忘れられた魔法を拾いに行く  作者: Atelier Lotus文庫
第二章 最初の魔法

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第7話 雨が道を崩す

 雨は、弱まる気配を見せなかった。


 宿の窓を叩く音は次第に大きくなり、通りを流れる水はもう浅い川のようになっている。赤褐色の泥を巻き込んだ濁った水が、町の低い方へ向かって勢いを増していた。


 エリアスは窓際から動かず、その流れを追っていた。


「マレーネ。馬車溜まりの先に何がある?」


「厩と倉庫。その向こうに排水路があるわ」


「排水路?」


「町の外へ水を逃がすための。雨が降れば、いつもそこへ流れるのよ」


 エリアスは眉を寄せた。


「いつも、か」


「何?」


「いや」


 水量も多いが、それだけではない。泥を含んだ水が一方向へ集中している。昨日から町中を歩いたおかげで、地面の傾きも大まかには分かっていた。


 ラーデンの低い側へ水が集まり、そこから排水路へ抜ける。


 本来なら、それで問題ないはずだ。


 入口の扉が勢いよく開いた。


「マレーネ!」


 ずぶ濡れになった男が飛び込んでくる。


「馬車溜まりがまずい! 水が引かねえ!」


「排水路は?」


「見に行った奴がいる! でも途中から泥が溢れて――」


 男が言い切る前に、エリアスは立ち上がっていた。


「見に行く」


「ちょっと、エリアス」


「水が引かないなら、詰まってるか、流しきれてない」


「だからって――」


「俺なら何とかできるかもしれない」


 それだけ言って、扉へ向かう。


 泥離しを教えてもらうことも、研究に協力してもらうことも今は関係ない。人が困っていて、自分にできることがある。なら、やる。


「私も行く」


 振り返ると、マレーネが外套を引っ掴んでいた。


「宿は?」


「客を上に移してから行く。あんたは先に行って」


「分かった」


「無茶しないでよ」


「それ、俺に言う?」


「昨日から泥に夢中な人には言うわよ」


 こんなときでも、その調子だった。


 エリアスは笑って外へ出た。


 雨が身体を叩く。


 通りを走り出してすぐ、状況が想像以上だと分かった。


 水は脛近くまで来ている場所もある。


 町の人間たちは、荷物を高い場所へ運び、馬を厩へ移し、店先へ流れ込む水を板や土嚢で防いでいた。


 泥離しも使われている。


 車輪へまとわりついた泥を剥がす。


 濡れた荷箱の底から泥を落とす。


 足を取られそうになった場所で、靴へついた塊を素早く外す。


 ちゃんと役に立っている。


 ただし、今起きている問題そのものを止める魔法ではない。


 それでいい。


 用途が違う。


 エリアスはそのまま馬車溜まりへ向かった。


「おい!」


 怒鳴り声が飛ぶ。


 一台の荷馬車が大きく傾いていた。


 片側の車輪がぬかるみへ沈み、さらに地面の端が崩れ始めている。馬が怯えて暴れようとしていた。


「押さえろ!」


「無理だ、地面が抜ける!」


「荷を下ろせ!」


「近づくな! そっちも崩れるぞ!」


 人の声と馬の嘶きが雨音に重なり、足元には濁った水が押し寄せてくる。


 エリアスは一度だけ周囲を見回した。


 馬車のそばには馬と御者、逃げ遅れた二人。左手に厩、その奥に倉庫がある。右から流れ込む水は低い方へ抜けきらず、ここに溜まっていた。


 まず馬車だ。


「全員、離れて!」


「何だあんた!」


「いいから!」


 エリアスが手を向ける。


 沈みかけた車輪の下へ、魔力を通す。土を無理に持ち上げず、水を含んで崩れた層を探り、その下に残る比較的固い部分へ力を通した。


 沈下が止まった。


「え?」


 御者が目を見開く。


「馬を外して!」


「でも車が――」


「今は持つ!」


 言いながら、もう片方の手を水へ向けた。


 水を消す必要はない。逃げ道を作ればいい。


 足元を流れていた水の一部が曲がり、町の外側へ走り始める。


「そっちじゃない!」


 エリアスは叫んだ。


「左へ馬を出すな! 地面が緩い! こっちへ!」


 御者たちが慌てて馬具を外す。


 怯えた馬が首を振った。


 エリアスは風を使った。


 強く吹きつけるのではなく、馬の顔へ当たる雨だけを逸らした。視界を遮っていた水滴が減ると、馬の動きが少し落ち着いた。


「今!」


 男たちが馬を引き出す。


 続いて御者が離れる。


 人が安全圏へ出たのを確認してから、エリアスは馬車へ向けていた力を少しずつ抜いた。


 車輪が再び沈む。


 だが、もう巻き込まれる人間はいない。


「次は水だな」


 視線を奥へ向ける。


 排水路の方から、別の男が走ってきた。


「駄目だ! 詰まってる! 泥と枝で入口が塞がってる!」


「場所は?」


「あっちだ!」


 エリアスは走った。


 排水路へ近づくほど水が深くなる。


 途中、倉庫の壁際へ濁流が当たり始めていた。


 このままなら、まずそちらがやられる。


「エリアス!」


 後ろから声がする。


 マレーネだった。


 数人の住民と一緒に、荷物を別の建物へ移している。


「何してる!」


「見れば分かるでしょう! 濡れたら困る荷物を上へ逃がしてるの!」


「宿は?」


「客は二階! 店の子に任せた!」


「なら、その倉庫から離して!」


「分かった!」


 返事が早い。


 指示を聞いてすぐ動く。


 こういうところがいい。


 エリアスは一瞬だけそう思って、それどころではないと前へ向き直った。


 排水路の入口はすぐに見つかった。


 普段なら幅のある水路なのだろう。


 今はその手前に泥と枝、それに流されてきた木片が絡みつき、半分以上が塞がっている。


「なるほど」


 これでは水が町側に溜まる。だが、詰まりをまとめて吹き飛ばせば下流の人が危ないし、水路を傷めるかもしれない。


 エリアスは魔力を広げた。


 水の流れを読む。


 詰まりの奥まで続く水路の幅を確かめ、圧力のかかる場所と泥の量、木片の位置を探る。


「……そこだな」


 まず枝を浮かせる。


 風で持ち上げ、横へ落とす。


 次に大きな木片。


 土に埋まっている部分だけを緩め、同じように外へ出す。


 まだ水は流れない。


 泥が残っている。


 エリアスは少し考え、笑った。


「泥離しじゃ、これは無理だな」


 量が違いすぎる。靴や車輪の泥を落とす魔法に、町じゅうから流れ込んだ泥を任せるものではない。


「仕事が違う」


 地面へ手を向けた。


 土魔法で泥の塊を崩しすぎない程度に持ち上げ、水魔法で内部の水分を一方向へ寄せる。


 粘りが弱まったところへ風を差し込み、まとめて脇へ押し出す。


 一度。


 二度。


 三度。


 最後の塊が外れた瞬間、音が変わった。


 ごう、と水が排水路へ吸い込まれる。


「来たぞ!」


「下がれ!」


 エリアスが叫ぶ。


 溜まっていた水が一気に動く。


 ただ流すだけでは危ない。


 水路へ入りきらない分を、別の浅い溝へ分ける。


 右へ、左へ。勢いの強い流れを削り、弱い方へ分ける。崩れそうな地面は土で締め、建物へ向かう水は逸らす。すべて同時に調整した。


 派手な光も爆発もない。


 だが、町中へ広がっていた濁流が、目に見えて動きを変えた。


「……何だ、あれ」


 誰かが呟いた。


 エリアスは聞いていなかった。


 目の前の流れだけを見る。


 水量が落ちる。


 馬車溜まりの水位も下がり始める。


 地面はまだ酷い状態だが、これ以上崩れる勢いではない。


 ようやくエリアスは息を吐いた。


「これなら大丈夫」


「大丈夫って……」


 近くにいた男が、呆然と水路を見た。


「あんた、何者だ?」


 エリアスは濡れた前髪をかき上げた。


「エリアス」


「名前じゃなくて」


「魔法使い」


「見れば分かる!」


 少し離れたところで、マレーネが笑った。


「この人、ずっとこんな調子よ」


「酷くない?」


「今の答えで何が分かると思ったの?」


 言われてみればその通りだ。


 エリアスは肩をすくめた。


「アウローラで魔法を学んだ。大賢者アドルフ・ヴァイスの弟子だよ」


 周囲が静かになった。


「……大賢者?」


「最後の弟子」


 今度は別の男が呟く。


 エリアスは少しだけ胸を張った。


「まあ、そのくらいはできる」


「そのくらいって」


 マレーネが呆れた顔をする。


 だが、その目は昨日までとは少し違っていた。


「本当にすごい魔法使いだったのね」


「本当に、は余計だな」


「だって昨日は朝から晩まで泥の話しかしてなかったじゃない」


「今日も途中まで泥の話だった」


「威張らないの」


 雨はまだ降っている。


 それでも、さっきまでの危険な流れは消えていた。


 町の人間たちも、ようやく動きを緩め始める。


 倒れた荷物を起こす。


 馬を落ち着かせる。


 濡れた床を拭く。


 泥離しで車輪や靴についた泥を落とす。


 いつもの生活へ戻すための作業が始まった。


 エリアスはその光景を見た。


 自分は大量の水と崩れかけた地面に対処した。町の人たちは泥離しを使って、いつもの生活へ戻している。どちらにも、それぞれの役目があった。


「エリアス」


 呼ばれて振り返る。


 朝、馬車溜まりで質問した男が立っていた。


「さっきは助かった」


「怪我人は?」


「いない。馬も大丈夫だ」


「ならよかった」


 男は一度頷き、それから泥だらけの車輪を見た。


「昨日から、泥離しのこと聞いて回ってたんだってな」


「今日も」


「そんなに知りたいのか?」


「かなり」


「変わってるな」


「よく言われる」


 男は笑った。


「だったら、明日ちゃんと教えてやるよ」


 エリアスが目を瞬く。


「いいのか?」


「別に隠すようなもんじゃない。親父に教わった使い方ならな」


 横にいた別の男も口を挟んだ。


「俺のも見せてやる。車輪相手なら、あいつより俺の方がうまいぞ」


「何だと?」


「実際そうだろ」


 さっきまでの緊張が嘘のように、二人が言い合いを始める。


 エリアスの口元が緩んだ。


「じゃあ、両方見せてくれ」


「まだ調べるの?」


 マレーネの声。


「ああ」


「町があんなことになった直後なのに?」


「それとこれは別だろ」


 エリアスは当然のように答えた。


 助けたかったから助けた。泥離しを知りたいから、明日も学ぶ。それだけだ。


 マレーネはしばらく彼を見て、それから小さく笑った。


「ほんと、変な人」


「昨日より?」


「だいぶ」


「また評価下がった?」


「さあね」


 そう言って、彼女は先に歩き出す。


 エリアスもその背中を追った。


 明日は、泥離しを使う側から教わる。


 見ているだけでは分からなかった部分まで、自分で試せる。


 雨で濡れた町の中で、エリアスはもう次のことを考えていた。


 

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