第6話 この土地だから
翌朝、エリアスが一階へ下りると、マレーネはすでに働いていた。
「おはよう。よく眠れた?」
「ああ。飯ある?」
「起きて最初にそれ?」
「腹が減ってるからな」
「魔法じゃないのね」
「飯を食ったら魔法」
「はいはい」
昨日と同じ調子で返され、エリアスも卓についた。焼いた卵と黒パン、薄く切った燻製肉が出てくると、さっそく手を伸ばす。
「それで?」
マレーネが聞く。
「何が?」
「今日は泥離しを見て回るんでしょう?」
「そのつもり」
「本気だったのね」
「昨日から本気だよ」
「泥を落とすだけなのに」
「その泥を落とすだけの魔法を、俺は知らなかった」
エリアスがパンをちぎりながら答えると、マレーネは少し笑った。
「変な人」
「昨日も言われた気がする」
「今日はもっと変だと思ってる」
「評価が下がってないか?」
「面白さは上がってるから大丈夫」
何が大丈夫なのかは分からなかったが、悪い意味ではなさそうだった。
朝食を終えると、エリアスは帳面を持って町へ出た。
昨夜の雨で道はまだ湿っている。
ラーデンの赤褐色の土は、乾けば硬いのに、水を含むと妙に粘る。靴を取られるほどではないが、一度つけば簡単には落ちなかった。
宿の前で、さっそくマレーネが自分の靴へ手を向けた。
薄くついた泥が、ぽろぽろと剥がれる。
「待って」
「また?」
「今、昨日より弱く使っただろ」
マレーネが足を止めた。
「そう?」
「そう」
「分からないわよ、そんなの」
「俺には分かる」
「便利ねえ」
マレーネは意識していないらしい。だが昨日、厚くついた泥をエリアスの靴から落としたときより、明らかに使う魔力が少ない。
「薄いから?」
「たぶん」
「たぶん?」
「考えてやってないもの。これくらいならこれくらい、って感じ」
エリアスは帳面へ書き込んだ。
「それだよ」
「何が?」
「そういうのが知りたい」
「やっぱり変な人ね」
マレーネは呆れながらも、仕事へ向かう途中で馬車溜まりまで案内してくれた。
昨日見た御者とは別の男が、荷馬車の車輪についた泥を落としている。
エリアスは少し離れたところから魔力の流れを観察した。
マレーネより強く、大雑把だ。車輪を傷めない範囲で、泥がまとまって落ちればいいという使い方だった。
「すみません」
「ん?」
「その泥離し、誰に習った?」
「親父だな」
「親父さんは?」
「その親父じゃねえか?」
「いつ頃からこの町で使ってる?」
「知らん」
男はあっさり答えた。
「昔からだろ」
「昔って?」
「昔は昔だ」
「誰が最初に――」
「お兄さん」
横からマレーネが口を挟んだ。
「その聞き方だと、今日中に町を一周できないわよ」
「大事なところだろ」
「その人、荷物を運ぶ途中だから」
御者を見ると、苦笑されていた。
「悪い」
「別にいいけどよ。そんなの調べてどうするんだ?」
「魔法式を記録する」
「これを?」
「これを」
男は車輪を見下ろした。
「物好きだな」
今日だけで何度目だろう。
それでもエリアスは機嫌がよかった。
馬車溜まりを離れ、次は厩へ行く。
そこで使われていた泥離しは、さらに違った。
革製の馬具へ使うためか、作用が柔らかい。泥だけを浮かせるように剥がし、革には余計な水分を残さない。
「へえ……」
エリアスが食い入るように見ていると、厩の男が少し引いた。
「そんな珍しいか?」
「珍しい」
「普通だぞ」
「この町ではな」
口にしてから、「この町では」という言葉が引っかかった。昨日までは見たことのない魔法として面白がっていたが、同じ泥離しでも、宿と御者と厩では使い方が違う。術式の芯は似ているのに、魔力の入れ方も、作用させる場所も、強さも少しずつ違っていた。
次に向かった洗濯場では、それがさらに分かりやすかった。
数人の女たちが、大きな桶のそばで衣服を洗っている。
裾についた赤い泥へ魔法を使うと、布を引っ張ることも傷めることもなく、汚れだけがするりと離れた。
「それ、もっと強くやった方が早くない?」
エリアスが聞くと、年配の女が眉をひそめた。
「何言ってるの。そんなことしたら布が傷むじゃない」
「傷む?」
「強くやりすぎると、古い布なんかは駄目になるよ」
エリアスはすぐ帳面へ書き込んだ。
「じゃあ、服には弱く?」
「当たり前でしょう」
「誰に習った?」
「母親」
「その人は?」
「さあねえ。あたしが子どもの頃には、みんなやってたよ」
「術式を教えてもらったわけじゃない?」
「術式?」
今度は逆に聞き返された。
「こうやって、泥のところを狙ってやるだけ」
女は実演してみせる。
確かに、本人には「それだけ」のことなのだろう。
エリアスはしゃがみ込み、落ちた泥を指先でつついた。
まだ湿っていて、指につくと粘り、重い。
「ねえ」
後ろからマレーネの声がした。
「今度は泥そのものと話し始めるつもり?」
「それができたら便利なんだけどな」
「否定しないのね」
「魔法の研究に便利なら、泥とでも話す」
マレーネが吹き出した。
町を歩いているうちに、エリアスは何度も同じような答えを聞いた。
母親や父親から教わった。仕事を始めたとき、先輩に教わった。子どもの頃にはもう使っていた。誰が作ったかも、いつからあるかも知らない。ただ、泥がつけばこうする。それが町の人たちの答えだった。
昼を過ぎた頃、二人は通り沿いの店先で足を止めた。
店主が木箱の底についた泥を落としている。
エリアスはそれを見終えると、道端の土をつまんだ。
「昨日から思ってたけど、この土、変わってるな」
「そう?」
「雨を吸うとかなり粘る。なのに乾くと硬い」
「ああ、それならそうよ」
「気にならないのか?」
「ずっとこれだもの」
マレーネは当然のように言った。
「雨の日なんて放っておくと、靴も車輪も泥だらけ。乾いてから落とそうとすると面倒なのよ」
「水で洗えば?」
「できるけど、毎回そんなことしてられないでしょう。馬車の車輪なんて何台あると思ってるの」
言われて、エリアスは周囲を見た。
街道の荷馬車、宿へ入る旅人、厩へ引かれる馬、店先の荷箱、洗濯場へ運ばれる衣類。泥のつかないものを探す方が難しい。
「水もいるしな」
「そうね。洗うより、泥離しで落とした方が早いわ」
エリアスは手の中の土を見た。
エリアスの中で、見てきたものが一つにつながった。
泥離しは、妙な魔法なのではない。
普通の洗浄より作用範囲が狭く、泥の水分へ細かく干渉する。最初に見たときは、なぜそんな回りくどいことをするのかと思った。
だが、この町では違う。
水や魔力を大量に使わず、布や革や木を傷めず、毎日のようにつく粘る泥だけを落とす。
「……そういうことか」
「何が?」
「変なんじゃないんだ」
マレーネが首を傾げる。
「この土地で使うなら、これでいい。いや、これがいいんだ」
「だから何の話?」
「泥離し」
「まだ泥の話してたの?」
「ずっとしてる」
「知ってるわよ」
マレーネは呆れたように笑った。
エリアスも笑いながら、帳面を開いた。
魔法式だけを眺めても、作用が狭い理由や、使い手ごとに違う加減の意味は分からなかった。答えは、術式の外にもある。
粘る土の上を馬車が通り、人が働き、衣類や革を使う。毎日の面倒を少しでも楽にするうちに、この形の魔法が残ったのだろう。
「面白いな」
「またそれ?」
「昨日より面白い」
「泥しか見てないのに?」
「泥を見ないと分からなかった」
「本当に変な魔法使い」
「褒め言葉として受け取っとく」
「褒めてない」
「でも嫌いじゃないだろ?」
軽く返すと、マレーネは一瞬だけ黙った。
それから、エリアスを横目で見る。
「そういうことを平気で言うのね」
「美人にはな」
「泥の話をした直後に口説かれても、あんまり嬉しくないわよ」
「順番が悪かったか」
「かなりね」
それでもマレーネは笑っていた。
エリアスも気楽に笑い返す。
昨日は宿を切り盛りする美人だと思った。今日は、それだけではない。
朝から働き通しなのに、合間を見つけて町を案内してくれる。話は早いし、こちらが妙な質問をしても適当にあしらいながら付き合ってくれる。
話していて楽しい。容姿だけに惹かれているわけではなかった。
ふと、マレーネが空を見上げた。
「まずいわね」
「ん?」
つられて見上げる。
朝は明るかった空を、いつの間にか厚い雲が覆っていた。
風も湿っている。
「また降るな」
「降るどころじゃなさそう」
遠くで雷が鳴った。
町の人間たちも気づいたらしい。店先の荷物が取り込まれ、馬車溜まりでは御者たちが急いで荷を覆い始める。
マレーネも宿へ戻る方向へ歩き出した。
「エリアス、悪いけど続きはあと。宿の外に出してるものを片づけないと」
「手伝うよ」
「助かる」
二人が宿へ戻る頃には、大粒の雨が落ち始めていた。
すぐに雨脚が強くなる。
屋根を打つ音が、酒場の中まで響いた。
「結構降るな」
窓の外を見ながらエリアスが言う。
「この辺じゃ雨自体は珍しくないけど……ちょっと強いわね」
通りを流れる水が、赤い泥を巻き込み始めていた。
さっきまで人が歩いていた道が、みるみる濁っていく。
町の人たちは荷を上げ、馬を厩に入れ、戸を閉め、水が入りそうな場所を塞いでいた。雨への備えには慣れているようだ。
エリアスも最初は、そういうものなのだと思って見ていた。
だが、しばらくして眉を寄せる。
「マレーネ」
「何?」
「この町、低い方はどっちだ?」
「向こう。馬車溜まりの先」
エリアスは窓の外へ目を向けた。
流れていく水の量が増えている。
泥を含んだ濁流が、同じ方向へ集まり始めていた。
雨は、まだ強くなっていた。




