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大賢者の弟子は、忘れられた魔法を拾いに行く  作者: Atelier Lotus文庫
第二章 最初の魔法

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第5話 泥を離す魔法

 ラーデンが見えてきた頃には、雨はすっかり上がっていた。


 街道の先に低い屋根が並んでいる。城壁も塔もなく、旅人や荷馬車の行き交う道に沿って広がる小さな宿場町だった。


「ここか」


 エリアスは少しだけ歩調を速めた。


 道はところどころ濡れていて、靴の底には赤褐色の泥がまとわりついている。ラーデンへ近づくほど粘りが強く、一度踏み込むと妙に重かった。


 エリアスの頭にあるのは靴よりも、商人から聞いた魔法のことだった。この町の住民が、よそでは見かけない魔法を使っているという。


 分かっているのは、それだけ。


 何に使う魔法で、誰が使うのか。商人たちは見たことすら忘れかけていた。だからこそ気になる。


 町へ入ったら宿を取って、それから聞き込みをするつもりだった。だが、少し先でエリアスの足が止まった。


 少し先に荷馬車が停まっている。御者らしい男が、赤い泥のこびりついた車輪へ手を向けた。


 かすかに魔力が動き、次の瞬間、泥がぼとりと落ちた。


「……ん?」


 男は気にする様子もなく、反対側の車輪へ回る。


 もう一度。


 魔力が動き、泥が剥がれる。


 水をぶつけたわけでも、風で吹き飛ばしたわけでもない。土そのものを崩したようにも見えなかった。


「ちょっと待って」


 思わず声が出た。


 御者が振り返る。


「なんだ?」


「今の、もう一回やってくれない?」


「は?」


「魔法。今の魔法」


 男は車輪を見てから、エリアスを見た。


「泥を落としただけだぞ」


「それが見たい」


 怪訝そうな顔をされた。


 まあ、そうなる。


 それでも男は肩をすくめ、まだ泥の残っている部分へ手を向けた。


 今度は見逃さない。


 水の系統だ。けれど水を生み出して洗っているわけではない。作用する範囲が妙に狭く、泥の表面ではなく、車輪と泥が接するあたりへ魔力が滑り込んでいる。そこに含まれる水分へ触れているらしい。


 ごそり、と泥が剥がれた。


「……面白い」


「そうか?」


「ああ」


 即答すると、御者はますます分からないという顔をした。


「こんなの、どこでもやるだろ」


「俺は初めて見た」


「ああ、旅の人か」


 男はそれだけ言って仕事へ戻った。


 エリアスはしばらく、その場に立っていた。


 あった。本当にあった。使う本人が説明するほどのものだと思っていない魔法を、自分は知らなかった。


 口元が勝手に緩む。


「いいな」


 伝説の秘術でも大魔法でもない。ただ泥が落ちる。その当たり前さがいい。


 町の中へ入ると、同じ光景はすぐに見つかった。


 店先で女が靴の泥を落とす。荷物を運ぶ少年が、箱の底についた汚れを剥がす。厩の前では男が馬具をきれいにしている。


 誰も気にしていない。エリアスだけが足を止め、何人かの魔力の動きを追った。


「なるほど……少し違うな」


 使い方にも差があるらしい。


 今すぐ聞いて回りたいが、その前に宿だ。旅鞄は重いし、腹も減っている。


「魔法は逃げない。たぶん」


 自分に言い聞かせ、街道沿いの宿へ入った。


 一階は食堂と酒場を兼ねているらしい。まだ夕食には早いが、奥から煮込み料理の匂いが漂ってくる。


「泊まり?」


 声をかけられて振り向く。


 カウンターの向こうに女がいた。


 髪を後ろでまとめ、袖を肘までまくっている。よく動く人間らしい引き締まった身体つきで、表情には愛想と気の強さが同居していた。


 そして、普通に美人だった。


 エリアスは一瞬だけ目を留めた。


 旅に出てよかった、と早くも思った。


「泊まり。できれば数日」


「数日?」


「調べたいものが見つかった」


「この町で?」


「この町で」


 答えながら近づくと、女が足元を見た。


「ああ。ちょっと待って。そのまま歩かれると床が大変なのよ」


 エリアスの靴には、赤い泥がかなり残っている。


「悪い」


「動かないで」


 女が軽く手を向けた。


 魔力が動く。


 エリアスの目が見開かれた。


 泥の奥へ細く魔力が入る。靴の革にはほとんど触れず、水分のある場所だけを拾うように作用が走った。まとわりついていた泥が、まとめて落ちる。


「それだ」


「え?」


「今の魔法。何ていう?」


 質問が早すぎたらしい。


 女はしばらくエリアスの顔を見た。


「……泥離し?」


「泥離し」


「名前っていうほどのものじゃないけど。みんなそう呼んでるわね」


「誰に習った?」


「母親」


「魔法式は?」


「知らない」


「発動するとき、どこを意識してる?」


「泥」


「泥のどこ?」


「泥は泥でしょ」


 女が笑い出した。


「ちょっと待って。あなた、泊まりに来たんじゃないの?」


「泊まりに来た」


「部屋の話、一つもしてないけど」


「あとでいい」


「よくないわよ」


 言いながらも、女は楽しそうだった。


 そこでようやく、自分が宿の入口で泥について質問を連発していることに気づいた。部屋も取らずに、ずいぶん妙な客だろう。


「悪い。俺、エリアス」


「そういう問題?」


「名前も知らずに泥の話を続けるよりはいいだろ」


 女はまた笑った。


「マレーネ。ここで宿と酒場をやってる」


「よろしく、マレーネ」


「はいはい。まず部屋を決めましょうね、魔法使いさん」


 部屋は二階で、値段も寝台も悪くない。


 旅鞄を置くと、エリアスはすぐ一階へ戻った。


「早いわね」


「腹減った」


「魔法じゃないの?」


「それも聞きたい。でも飯は食う」


「ちゃんと人間なのね」


「失礼だな」


 出てきたのは、豆と刻んだ肉を煮込んだ熱い料理だった。黒パンを浸して食べると、歩いた身体に塩気がちょうどいい。


「うまい」


「それはよかった」


 マレーネは仕事をしながら、ときどき質問へ答えた。


 泥離しは子どもの頃、母親から習った。町では使える人が珍しくなく、魔術師へ習いに行くようなものでもない。だが、使い方の細部となると答えは途端に曖昧になった。


「どうやって使ってるかって言われてもねえ」


「そこが知りたいんだよ」


「泥がついてたら、こう、落とすの」


「だから、その『こう』を知りたい」


「面倒な人ね」


 そう言いながら、マレーネは笑っている。


 魔法が見つかり、飯もうまい。話していて楽しい美人もいる。来て早々、かなりの当たりだった。


 食事のあと、エリアスは帳面を開いた。


 水系統。作用範囲は狭く、泥を押し流してはいない。接触面か、泥の内部の水分へ干渉している可能性がある。


 まだ足りない。


 一人見ただけでは分からないし、マレーネの使い方だけが町の標準とも限らない。


「なあ」


「今度は何?」


「明日、もう少し見て回りたい」


「泥離しを?」


「そう」


「本当に好きねえ、そういうの」


「知らない魔法だからな」


「大したものじゃないわよ」


「それは見てから決める」


 マレーネは一度目を丸くした。


「分かった。そこまで気になるなら、私一人に聞くより町の連中を見た方が早いわ」


「やっぱり使い方、違う?」


「さあ。でも御者も使うし、厩の人も使うし、洗濯してる人たちも使う。私より詳しい人もいるんじゃない?」


 エリアスは帳面を閉じた。


 急ぐ旅でもない。明日は町を歩き、使い手による違いを見よう。


「じゃあ、何日か泊まる」


「最初から数日って言ってたでしょう」


「今、ちゃんと決めた」


「はいはい」


 エリアスは笑い、残っていた酒を飲み干した。


 知らない魔法は、本当にあった。


 しかも、思っていたよりずっと地味だ。


 町の人間にとっては、泥を落とすだけの魔法。


 それでも、自分は知らなかった。


 今はそれだけで十分だった。


 明日は町を歩こう。


 使っているところを見て、話を聞く。


 最初の一つは、思っていたよりずっと小さな魔法だった。


 だからこそ、面白かった。

 

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