第5話 泥を離す魔法
ラーデンが見えてきた頃には、雨はすっかり上がっていた。
街道の先に低い屋根が並んでいる。城壁も塔もなく、旅人や荷馬車の行き交う道に沿って広がる小さな宿場町だった。
「ここか」
エリアスは少しだけ歩調を速めた。
道はところどころ濡れていて、靴の底には赤褐色の泥がまとわりついている。ラーデンへ近づくほど粘りが強く、一度踏み込むと妙に重かった。
エリアスの頭にあるのは靴よりも、商人から聞いた魔法のことだった。この町の住民が、よそでは見かけない魔法を使っているという。
分かっているのは、それだけ。
何に使う魔法で、誰が使うのか。商人たちは見たことすら忘れかけていた。だからこそ気になる。
町へ入ったら宿を取って、それから聞き込みをするつもりだった。だが、少し先でエリアスの足が止まった。
少し先に荷馬車が停まっている。御者らしい男が、赤い泥のこびりついた車輪へ手を向けた。
かすかに魔力が動き、次の瞬間、泥がぼとりと落ちた。
「……ん?」
男は気にする様子もなく、反対側の車輪へ回る。
もう一度。
魔力が動き、泥が剥がれる。
水をぶつけたわけでも、風で吹き飛ばしたわけでもない。土そのものを崩したようにも見えなかった。
「ちょっと待って」
思わず声が出た。
御者が振り返る。
「なんだ?」
「今の、もう一回やってくれない?」
「は?」
「魔法。今の魔法」
男は車輪を見てから、エリアスを見た。
「泥を落としただけだぞ」
「それが見たい」
怪訝そうな顔をされた。
まあ、そうなる。
それでも男は肩をすくめ、まだ泥の残っている部分へ手を向けた。
今度は見逃さない。
水の系統だ。けれど水を生み出して洗っているわけではない。作用する範囲が妙に狭く、泥の表面ではなく、車輪と泥が接するあたりへ魔力が滑り込んでいる。そこに含まれる水分へ触れているらしい。
ごそり、と泥が剥がれた。
「……面白い」
「そうか?」
「ああ」
即答すると、御者はますます分からないという顔をした。
「こんなの、どこでもやるだろ」
「俺は初めて見た」
「ああ、旅の人か」
男はそれだけ言って仕事へ戻った。
エリアスはしばらく、その場に立っていた。
あった。本当にあった。使う本人が説明するほどのものだと思っていない魔法を、自分は知らなかった。
口元が勝手に緩む。
「いいな」
伝説の秘術でも大魔法でもない。ただ泥が落ちる。その当たり前さがいい。
町の中へ入ると、同じ光景はすぐに見つかった。
店先で女が靴の泥を落とす。荷物を運ぶ少年が、箱の底についた汚れを剥がす。厩の前では男が馬具をきれいにしている。
誰も気にしていない。エリアスだけが足を止め、何人かの魔力の動きを追った。
「なるほど……少し違うな」
使い方にも差があるらしい。
今すぐ聞いて回りたいが、その前に宿だ。旅鞄は重いし、腹も減っている。
「魔法は逃げない。たぶん」
自分に言い聞かせ、街道沿いの宿へ入った。
一階は食堂と酒場を兼ねているらしい。まだ夕食には早いが、奥から煮込み料理の匂いが漂ってくる。
「泊まり?」
声をかけられて振り向く。
カウンターの向こうに女がいた。
髪を後ろでまとめ、袖を肘までまくっている。よく動く人間らしい引き締まった身体つきで、表情には愛想と気の強さが同居していた。
そして、普通に美人だった。
エリアスは一瞬だけ目を留めた。
旅に出てよかった、と早くも思った。
「泊まり。できれば数日」
「数日?」
「調べたいものが見つかった」
「この町で?」
「この町で」
答えながら近づくと、女が足元を見た。
「ああ。ちょっと待って。そのまま歩かれると床が大変なのよ」
エリアスの靴には、赤い泥がかなり残っている。
「悪い」
「動かないで」
女が軽く手を向けた。
魔力が動く。
エリアスの目が見開かれた。
泥の奥へ細く魔力が入る。靴の革にはほとんど触れず、水分のある場所だけを拾うように作用が走った。まとわりついていた泥が、まとめて落ちる。
「それだ」
「え?」
「今の魔法。何ていう?」
質問が早すぎたらしい。
女はしばらくエリアスの顔を見た。
「……泥離し?」
「泥離し」
「名前っていうほどのものじゃないけど。みんなそう呼んでるわね」
「誰に習った?」
「母親」
「魔法式は?」
「知らない」
「発動するとき、どこを意識してる?」
「泥」
「泥のどこ?」
「泥は泥でしょ」
女が笑い出した。
「ちょっと待って。あなた、泊まりに来たんじゃないの?」
「泊まりに来た」
「部屋の話、一つもしてないけど」
「あとでいい」
「よくないわよ」
言いながらも、女は楽しそうだった。
そこでようやく、自分が宿の入口で泥について質問を連発していることに気づいた。部屋も取らずに、ずいぶん妙な客だろう。
「悪い。俺、エリアス」
「そういう問題?」
「名前も知らずに泥の話を続けるよりはいいだろ」
女はまた笑った。
「マレーネ。ここで宿と酒場をやってる」
「よろしく、マレーネ」
「はいはい。まず部屋を決めましょうね、魔法使いさん」
部屋は二階で、値段も寝台も悪くない。
旅鞄を置くと、エリアスはすぐ一階へ戻った。
「早いわね」
「腹減った」
「魔法じゃないの?」
「それも聞きたい。でも飯は食う」
「ちゃんと人間なのね」
「失礼だな」
出てきたのは、豆と刻んだ肉を煮込んだ熱い料理だった。黒パンを浸して食べると、歩いた身体に塩気がちょうどいい。
「うまい」
「それはよかった」
マレーネは仕事をしながら、ときどき質問へ答えた。
泥離しは子どもの頃、母親から習った。町では使える人が珍しくなく、魔術師へ習いに行くようなものでもない。だが、使い方の細部となると答えは途端に曖昧になった。
「どうやって使ってるかって言われてもねえ」
「そこが知りたいんだよ」
「泥がついてたら、こう、落とすの」
「だから、その『こう』を知りたい」
「面倒な人ね」
そう言いながら、マレーネは笑っている。
魔法が見つかり、飯もうまい。話していて楽しい美人もいる。来て早々、かなりの当たりだった。
食事のあと、エリアスは帳面を開いた。
水系統。作用範囲は狭く、泥を押し流してはいない。接触面か、泥の内部の水分へ干渉している可能性がある。
まだ足りない。
一人見ただけでは分からないし、マレーネの使い方だけが町の標準とも限らない。
「なあ」
「今度は何?」
「明日、もう少し見て回りたい」
「泥離しを?」
「そう」
「本当に好きねえ、そういうの」
「知らない魔法だからな」
「大したものじゃないわよ」
「それは見てから決める」
マレーネは一度目を丸くした。
「分かった。そこまで気になるなら、私一人に聞くより町の連中を見た方が早いわ」
「やっぱり使い方、違う?」
「さあ。でも御者も使うし、厩の人も使うし、洗濯してる人たちも使う。私より詳しい人もいるんじゃない?」
エリアスは帳面を閉じた。
急ぐ旅でもない。明日は町を歩き、使い手による違いを見よう。
「じゃあ、何日か泊まる」
「最初から数日って言ってたでしょう」
「今、ちゃんと決めた」
「はいはい」
エリアスは笑い、残っていた酒を飲み干した。
知らない魔法は、本当にあった。
しかも、思っていたよりずっと地味だ。
町の人間にとっては、泥を落とすだけの魔法。
それでも、自分は知らなかった。
今はそれだけで十分だった。
明日は町を歩こう。
使っているところを見て、話を聞く。
最初の一つは、思っていたよりずっと小さな魔法だった。
だからこそ、面白かった。




