第4話 次の魔法へ
翌朝、目を覚ましたエリアスは、しばらく天井を眺めていた。歩いた分だけ身体に重さは残っているが、ぐっすり眠ったおかげで頭はすっきりしている。
「……よく寝た」
起き上がり、窓を開ける。
朝の冷たい空気が部屋へ入り込んできた。
通りでは、すでに店を開ける音がしている。荷車の車輪が石畳を転がり、人の声が遠くで重なっていた。
昨日とは違う町の朝だ。
エリアスはしばらく外を眺めてから、昨夜のことを思い出した。
うまい飯と酒。それに、綺麗な女との会話。誘いには失敗した。
「惜しかったな」
それだけ言って、寝台から立ち上がった。相手にその気がなかったのだから、引きずることもない。旅を始めたばかりで、この先も人に会う。きっと美人もいる。
「次に期待するか」
実に前向きな結論だった。
顔を洗い、服を整えてから鞄を開けた。帳面、紙、筆記具、金。昨日もらった干し果物も残っている。
「問題なし」
鞄を閉じたところで、今日の行き先をまだ決めていないことを思い出した。
エリアスは旅鞄を背負い、一階の食堂へ下りた。
朝の食堂は昨夜より静かだった。
酒を飲む客の代わりに、出発前の旅人や商人が簡単な朝食を取っている。エリアスも席へ着き、パンと温かい汁物を頼んだ。
「今日は出るのかい?」
昨日と同じ女が料理を運びながら訊いてくる。
「そのつもり」
「次はどこへ?」
「それを今考えてる」
「行き先も決めずに旅してるの?」
「大体の方向はあるよ。でも、面白そうなものがあったら寄り道する」
「ずいぶん気楽ね」
「急いでないからな」
女は呆れたように笑い、別の客のところへ行った。
エリアスはパンをちぎり、汁へ浸す。
昨夜教えてもらった店で昼飯を食べるのもいいが、そのためだけに昼まで町に残る気にはなれない。また通ることがあれば、そのとき行けばいい。
そんなことを考えていると、隣の卓から声が聞こえてきた。
「だから、あの辺は夜になる前に入った方がいいって」
「分かってるよ。前にも泊まったことがある」
隣の卓では、旅慣れた商人らしい二人が話していた。一人は地図らしい紙を卓に広げている。
「次の宿場までは?」
「昼過ぎには着くだろ。荷が重くなきゃな」
エリアスはパンを食べながら、何となく耳を傾ける。同じ方向へ向かうなら、道の様子くらい聞いておいてもいい。
「そういや、あそこ、まだあの変な魔法使ってるのか?」
その言葉で、エリアスの手が止まった。
「変な魔法?」
「ああ。ほら、前に見ただろ」
「何だっけ」
「俺もよく覚えてねえよ。村の連中が普通に使ってたやつだ」
「普通に使ってるなら変でもないだろ」
「こっちじゃ見ねえから変なんだよ」
「そんなもんか?」
「そんなもんだ」
話題が移る前に、エリアスは二人へ声をかけた。
「ちょっといい?」
二人がこちらを見た。
「今言ってた魔法って、どんなの?」
「魔法?」
「宿場町で使ってるってやつ」
「ああ……」
商人の一人が眉を寄せた。
「何だったかな」
「知らないのか?」
「見たことはあるんだがな。別に珍しいもんだとも思わなかったし」
「魔術師が使ってた?」
「いや」
男は首を振った。
「宿の人間とか、その辺の連中だよ。何かするときに普通に使ってた」
「何かって?」
「だから、それが思い出せねえんだ」
隣の男が笑う。
「お前が話を振ったんだろ」
「覚えてるのは、こっちじゃ見ないやり方だったってことくらいだ」
エリアスは少し身を乗り出した。
「町の人間は、みんな使えるのか?」
「みんなかどうかは知らん。何人かは使ってたな」
「魔法の名前は?」
「さあ」
「誰が教えてる?」
「知らん」
「いつからある?」
「知らねえって」
商人がとうとう笑い出した。
「兄ちゃん、そんなに気になるのか?」
「気になる」
即答だった。
二人が顔を見合わせる。
「大した魔法じゃないぞ?」
「それは見てから決める」
「いや、本当に。俺たちだって一度見ただけで忘れてたくらいだ」
「だからいいんだよ」
エリアスの声が少し弾んだ。
有名な魔法なら、本を探せばどこかに記録されている可能性が高い。
研究者や魔術師が知っていて、名前も分類もある。
だが、今の話は違う。
旅商人は一度見たきり忘れ、使う側もわざわざ説明しない。名前さえ聞いていない。
「そういうのを探してる」
「物好きだなあ」
「よく言われる」
「昨日初めて言われた顔してるぞ」
昨夜の女とのやり取りを思い出し、エリアスは笑った。
「その宿場町、ここから街道をそのまま?」
「ああ。途中で分かれ道があるが、右へ行けば着く。小さいところだよ。店も多くない」
「十分」
「何しに行くんだ?」
「魔法を見に」
「それだけ?」
「それだけ」
商人はしばらくエリアスを見てから、肩をすくめた。
「魔術師ってのは分からんな」
「俺も他の魔術師のことはよく分からない」
「お前のことだよ」
また笑われたが、悪い気はしなかった。
エリアスは食事を終えると、商人たちに礼を言った。
「助かった」
「道を教えただけだぞ」
「十分だよ」
会計を済ませて外へ出る。
朝の町には、昨日の夜とは違う匂いがしていた。
焼きたてのパンの香りに、馬の匂いと荷車の車輪の音。店先では野菜を並べている。まだ開いていない酒場の前を通り過ぎ、町の出口へ向かった。
歩きながら、商人の話を頭の中で繰り返す。何のための魔法で、どういう魔法式なのか。なぜ宿場町では普通に使われ、旅商人には見慣れないのか。誰が作り、どう伝わったのだろう。
「いや、それはまだ分からないか」
まだ現物も見ていない。既知の魔法を少し変えただけかもしれない。それなら、なぜ同じ形へ行き着いたのかを考えればいい。まるで違うものなら、それはそれで面白い。
何より、自分は知らない。それだけで見に行く理由になる。
町の門を抜ける。
朝の街道が、その先へ続いている。
昨日と同じ一人旅でも、今日は行き先を自分で選んでいる。偶然耳にした話が、次の町へ向かう理由になった。
目的地は小さな宿場町。そこで使われているのは、旅人が忘れてしまうほどありふれた魔法らしい。
「いいじゃないか」
エリアスは笑った。
そういうものを探しに来たのだ。
鞄の中の帳面は、まだほとんど白い。この先、何枚埋まり、何冊の本になるのか。本が売れて金や名声を得られるのか、美人にモテるのか。どれもまだ先の話だった。
今あるのは、次の町に知らない魔法があるかもしれないという噂だけ。それで十分だ。
「さて、どんな魔法だろうな」
エリアスは一人、街道を進んでいく。
朝の風に旅鞄が揺れる。白い紙も、いつか見つける魔法のために持ってきた。拾い、調べ、書いて、また歩く。エリアスの旅は始まったばかりだった。




