第3話 酒と飯と、美人
町へ入った頃には、空の端がすっかり赤く染まっていた。エリアスが最初に探したのは、魔法を扱う店でも書物を売る店でもない。
宿だった。
「寝台がまともで、飯がうまいところ」
それが今日の条件だ。
できれば酒もいい。
安いに越したことはないが、旅の初日から硬い寝台で眠れぬ夜を過ごすのも馬鹿らしい。
街道沿いの一軒目は安かったが、入口から覗くと食堂の椅子が妙に傾いていた。二軒目は見るからに立派で、値段もそれにふさわしかった。
「寝るだけでそんなに取るのかよ……」
金は欲しいし、手元の金を無駄に減らしたくもない。
三軒目は、その中間くらいだった。
食堂を兼ねた一階から、焼けた肉と香草の匂いが流れてくる。
そこでエリアスの判断は決まった。
「ここにしよう」
部屋を一晩押さえ、荷物を置いた。寝台を手で押すと、硬すぎない。毛布は清潔そうで、窓もきちんと閉まる。
「合格」
誰に聞かせるでもなく呟き、エリアスはすぐに一階へ戻った。
食堂には、すでに夕食を取る客が集まっている。
仕事帰りの男たちや旅人、商人らしい二人組に、酒だけを飲んでいる老人。皿と杯の音に話し声が混ざり、ほどよく賑やかだった。
エリアスは空いている席へ腰を下ろした。
「何か、この辺でよく食うものある?」
注文を取りに来た女へ尋ねる。
「初めて?」
「今日着いたばかり」
「なら肉料理にしときな。豆と根菜を一緒に煮て、最後に焼いた肉を乗せるやつ。パンもつくよ」
「それ。あと酒」
「強いの?」
歩き疲れたうえ、まだ何も食べていない。最初から強い酒を入れると、料理より先に酔ってしまいそうだ。
「最初は軽いやつで」
「最初は、ね」
女が笑って離れていく。
「旅先の酒場って感じだな」
エリアスは椅子へ深く座った。
とても悪くない。
運ばれてきた木の杯に口をつけると、爽やかな酸味のあとに麦の香りが残った。
「うまい」
もう一口、今度はゆっくり味わう。アウローラでも酒は飲めたが、知らない町で知らない酒を頼むのは、それだけで少し楽しかった。
やがて料理も運ばれてきた。
湯気の立つ豆と根菜の上に、表面を香ばしく焼いた肉が乗っている。
肉汁が煮汁へ落ち、香草の匂いと混ざっていた。
「これは当たりだな」
肉を切ると柔らかく、少し強めの塩気が歩いた身体にちょうどいい。豆と根菜にも肉の脂が染みていた。
「……もう一杯頼むか」
まだ半分しか飲んでいないのに、そんなことを考える。
魔法を探しに来たからといって、うまい飯と酒を逃す理由はない。寝台も当たりだった。あとは――。
エリアスの手が止まった。
食堂の奥に、一人で座る女がいた。二十代半ばほどだろうか。
赤みのある長い髪を片側へ流し、細身の杯を手にしている。旅装ではない。町の人間らしい服装だが、飾り気がないわけでもなかった。
横顔が綺麗だった。
「……なるほど」
エリアスは肉を一切れ口に運び、噛んで飲み込んでからもう一度見た。やはり綺麗だ。角度の問題ではない。
「うん」
確認終了。
声をかけたいが、料理はまだ残っている。飯を冷ましてまで席を立つほど切羽詰まってもいない。エリアスは先に食べきった。
「酒、もう一杯」
「結局飲むんじゃないか」
「うまかったから仕方ない」
新しい杯を半分ほど飲んでも、女の席には誰も来なかった。エリアスは杯を持って立ち上がる。
「隣、いい?」
女が顔を上げる。
近くで見ると、やはり美人だった。茶色い瞳がエリアスを一度上から下まで見る。
「空いてるけど」
「じゃあ遠慮なく」
「遠慮する顔には見えないわね」
「よく言われる」
「今考えたでしょう」
「今初めて言われた」
女が小さく笑った。座った途端に追い払われるようなことはなさそうだ。
「旅の人?」
「今日着いたばかり」
「どこから?」
「アウローラ」
女の眉が少し上がる。
「遠いわね」
「まだ旅を始めたばかりだから、これからもっと遠くなる予定」
「へえ。何しに?」
「魔法を探しに」
「魔法?」
「各地にある、あんまり知られてない魔法。見つけて、調べて、論文にして、そのうち本にする」
「学者さん?」
「魔法使い」
「同じじゃないの?」
「そこは結構違う」
エリアスが笑うと、女も杯を傾けた。
食事と酒の話から、旅の話になった。女は生まれも育ちもこの町らしく、エリアスの食べた料理について話すと、他にも何軒か店を教えてくれた。
「じゃあ、明日の昼はそこに行ってみようかな」
「旅を急いでるんじゃないの?」
「うまい飯を食う時間くらいはある」
「魔法より?」
「さすがに魔法の方が上」
「悩んだわね?」
「ほんの少し」
また笑われた。その笑い方が気に入って、エリアスは少し椅子を寄せた。女は距離を取らない。誘ってみようか。
「このあと、もう少し静かなところで飲まない?」
女が杯から口を離した。
「二人で?」
「もちろん」
「どうして?」
「美人と飲めたら、酒がもっと美味くなるかもしれない」
少し考えたあと、女は笑った。
「慣れてる?」
「何に?」
「そういうこと言うの」
「どう見える?」
「慣れてる男は、そんな自信満々に聞かないと思う」
「なるほど」
痛いところを突かれたが、まだ負けたとは限らない。
「じゃあ、これから慣れるってことで」
「残念」
女は楽しそうに言った。
「今日はその練習には付き合わない」
「ああ」
エリアスは一瞬だけ黙った。
「駄目?」
「駄目」
はっきりした返事だった。怒っているわけではない。ただ、彼女にその気はない。
「そっか」
エリアスは素直に椅子を引いた。
「残念」
「もう少し粘らないの?」
「嫌だって言ってる相手に粘って、何かいいことある?」
「ないでしょうね」
「じゃあ終わり」
女が少し意外そうな顔をして、それから笑った。
「そのくらいなら、嫌いじゃないわ」
「今からでも?」
「そういうところは嫌い」
「難しいな」
エリアスも笑った。
そこまで言われて、なお粘る気はなかった。
「店を教えてくれてありがとう」
「どういたしまして」
「じゃあ、いい夜を」
「あなたもね」
席を離れる。
自分の卓へ戻り、まだ残っていた酒を飲んだ。
「……惜しかったな」
かなり好みだったから、残念ではある。だが、それで酒がまずくなるわけでもない。
杯を空にすると、さっきとは違う酒を一つ頼んだ。
ついでに、小さな皿料理も追加する。
「まだ食うの?」
注文を取った女に笑われた。
「振られたから」
「やけ食い?」
「いや。腹に余裕ができた」
「どういう理屈?」
「俺にも分からない」
運ばれてきた料理をつまみながら、エリアスは新しい酒を味わった。
今度の酒は少し強く、喉が熱くなった。香りがよく、食後に飲むにはちょうどいい。
周囲の客の声を聞きながら、ゆっくり杯を傾ける。旅の初日を振り返った。
街道で知らない人間を助け、知らない町でうまい飯を食った。酒も当たりだ。美人には振られた。
「まあ、十分か」
できれば口説きもうまくいってほしかったが、駄目だったものは仕方がない。まだ旅は始まったばかりで、町も酒場もこの先いくらでもある。美人だっているだろう。
「長い旅になりそうだな」
それは悪い意味ではなかった。
酒を飲み終える頃には、身体に心地よい疲れが戻ってきていた。
エリアスは代金を払い、二階の部屋へ上がった。
寝台に腰を下ろし、手で確かめた柔らかさを今度は身体で確かめる。
「やっぱり、ここにして正解だったな」
旅鞄を確認し、帳面と紙がきちんと入っているのを見てから横になる。
明日もまた歩く。どこへ行き、何を見るかは、まだ分からない。知らないものを探しに来たのだから、それでいい。
エリアスは満足そうに息を吐き、目を閉じた。
女には振られた。
それでも、旅の最初の夜としては悪くなかった。




